新しい黒猫いりませんか?
1

 鈴凪荘――ここで暮らす僕の朝は早い。
 甲高い目覚まし時計の音が響くと重たいまぶたを瞬かせながら、頭上にある時計に手を伸ばす。時刻は五時。いつもと変わらぬ時間に目覚めた僕は、腹にかかっているだけのタオルケットと敷き布団から抜け出し、カーテンを開けて目いっぱい背伸びをした。

 まだぼんやりと日が差し込む程度の空は薄暗さがある。けれど日が昇りその空が青く染まる頃には、夏の燦々とした眩しさに変わるのだ。今日も暑くなりそうな予感がする空を見上げてから、僕はくるりと反転して布団を押し入れにしまい部屋のふすまを開く。
 二間続きのその先では昨日の晩に部屋干ししておいた洗濯物がある。ハンガーラックの下に置いたくしゃくしゃにした新聞紙を片付けて、乾いた服を畳んでタンスにしまう。そして顔を洗ってそそくさと着替えをしてから僕は部屋を出た。

 かける意味があるのかと疑いたくなるような薄い扉に鍵をかけると、年がら年中鍵がかかっていない隣の扉をノックせずにそっと開ける。なるべく音を立てないように部屋に忍び込んで、こっそりと閉め切られたふすまの傍まで行く。
 ここでも音を立てないように細く隙間を開けてのぞき込めば、カタカタとキーボードを叩く音が聞こえ、視線の先にそれに向かう背中が見えた。カーテンが閉め切られ部屋の電気が煌々とついているところを見ると、昨夜も徹夜したのかもしれない。

 今日の夕方が締め切りだと言っていた。締め切り前の彼はいつも徹夜ばかりで、身体の心配をしてしまう。けれど用意した食事はしっかり食べているようだ。ふすまの前に置かれたトレーに載った器や皿は空っぽになっている。
 そしてそこに添えられた紙切れに二重丸が付けられているのを見て思わず頬が緩む。昨日の夜に僕が作った麻婆ナス丼は口に合ったらしい。それに機嫌を良くしながら、トレーを持って部屋を出た。

 最近塗装を綺麗にした鉄階段をゆっくりと静かに下りて、ぐるりと回って正面に移動すると一階の右端の扉をコンコンと叩く。すると中からはーいと優しい声が聞こえてくる。

「美代子さん、おはよう!」

「はいはい、ミハネちゃんおはようさん」

 扉を開くと台所に立っていた白髪の女性が振り返る。小さくてほっそりとした身体、しわを刻んだ優しい笑顔、美代子さんはこのアパートの大家さんだ。毎朝ここで僕は朝ご飯を食べさせてもらっている。

「紺野さん、ご飯ちゃんと食べてたよ」

「あらあらそう、それは良かったわね。朝ご飯のリクエストは?」

「んーと、さっぱり? さっぱりしたものってことかな」

 紙切れの端っこに書かれた文字に僕は首を傾げる。普段から言葉数が多くないあの人はこんな時まで言葉足らずだ。昨日の晩のリクエストもナス、とだけ書かれていた。けれどそんな単語にも慣れっこな美代子さんは目を細めて笑う。

「じゃあ、今日はライスサラダにしましょうか」

「ライスサラダ?」

「お野菜を刻んで冷やご飯に載せていただくのよ」

「野菜はなにを使うの?」

「あるものならなんでも大丈夫」

 トレーにある食器を洗っているあいだに美代子さんは冷蔵庫を覗いて、あれこれと取り出した野菜などを台所に載せる。きゅうり、トマト、タマネギ、パプリカ、水菜、しそ、サラミ。そしてそれらをトントンと包丁で一口大に刻んでいく。
 昨日の残り物のご飯は水で洗ってしっかりと水気を切る。刻んだものは鰹節と醤油とみりんで作っただし醤油と香味オイルで合わせて、器に盛ったご飯の上に載せた。

 三人分の大中小のどんぶりに出来上がったそれはとてもおいしそうで、ほんのり香るニンニクの匂いでお腹がぐうっと情けない音を響かせた。その音が聞こえたのだろう美代子さんは小さく笑う。

「ミハネちゃん、先にご飯食べてなさい」

「はーい」

 大きなどんぶりと副菜の器、お味噌汁用のお椀。汁物は二階に運ぶ時にこぼれてしまうので、味噌玉だ。それを持って美代子さんは部屋を出て行く。その後ろ姿を見送ると僕は残されたどんぶりを隣の部屋へと運ぶ。
 電子ケトルポットでお湯を沸かして、そのあいだにお箸やお椀を二揃えちゃぶ台の上に準備をする。十分ほどして美代子さんが帰ってくる頃には、大根のお漬物をポリポリしながらご飯をいただいていた。

 原稿に取りかかっているあいだはあまりあの人と顔を合わせることがない。朝からやかましく僕が部屋にやって来るよりも、美代子さんが行ったほうが黙ってご飯を食べるからだ。それは長い付き合いの中で生まれた安心感のようなものかもしれない。
 実のおばあちゃんである美代子さんには高校生の頃からお世話になっていて、その時からこのアパートで暮らしているそうだ。あの人は本当に自分に無頓着だから、誰かが世話を焼かないと寝食も忘れてしまう。

 いまはミハネちゃんがいてくれるからねと美代子さんは笑ってくれるけれど、まだまだ僕の野望への道のりは遠そうな気がする。ここに転がり込んで八ヶ月、そのあいだに彼女も彼氏もいる気配はないがどんな縁が降ってくるかわからない。
 だから僕のアンテナは常に電波五、六本くらいビシバシと立っている。原稿が終わったらのんびり海とかに行きたいなぁなんて考えながら、おいしいご飯をもぐもぐとした。


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