新しい黒猫いりませんか?
2

 のんびりと美代子さんとの食事を終えて洗い物を片付けると、時刻は六時になる頃だ。いつもと変わらぬその時間を目に留めて、僕は美代子さんに声をかけて家を出る。

「行ってらっしゃい、今日も頑張っておいで」

「うん、行ってきます!」

 扉を開けるとチュンチュンと鳴いていた雀がバタバタと飛び立った。空を見上げると綺麗な青空が広がっている。今日もいい一日になること願いながら鼻歌と一緒に足を踏み出した。

 鈴凪荘は最寄り駅から三十分ほどの場所にある。そこへ向かう途中には小さな公園や狐神社、昔ながらの銭湯と下町の風情たっぷりの商店街があり、お日様が天辺に昇る頃にはいつも活気に満ちている。
 いつだったか銭湯の斉藤さんが、都会に疲れた人がふらりとやってくるんだって言ってた。お年寄りが多い町だけれど、寂れた印象はまったくない。ここに住んでいる人たちはみんなとっても元気で、いつも笑顔を浮かべている。

「おはようございまーす!」

 まだ静けさが漂う朝の商店街に僕の声が響く。そこは一軒だけシャッターの開いた吉吾青果店。素性の知れない僕だけれど、紺野さんと美代子さんが口利きをしてくれてここで働かせてもらっている。

「ミハネくん、おはよう」

 しばらく店先で待っていると奥のほうからおっとりとした雰囲気の女性がやってきた。彼女は店主の吉吾さんの奥さんで寧々子さん。いつもやんわりと優しい笑みを浮かべるとっても可愛らしい人だ。

「今日もよろしくお願いします」

「はい、こちらこそよろしくお願いします」

「あ、昨日いただいたナス、紺野さんにとっても好評でした!」

「先生は昔からナスが好きだから、口に合って良かったわ。今日は大きいスイカをたくさん仕入れたって吉吾さん言ってたから、帰りにもらっていってね。先生も美代子さんも好きなのよ」

「スイカ! 僕も好きです! あっ、えっと、外の掃除してきますね」

「はーい、お願いします」

 思わず目を輝かせてしまった僕は、微笑ましそうに笑う寧々子さんの反応に頬が熱くなった。それをとっさに誤魔化してちりとりとホウキを手に取ると、ぎこちなさ満載に店の外へと飛び出した。

 僕の仕事はまず店の前や近所のお店の前を掃き掃除することから始まる。商店街は端から端まで四百メートルほどあるので、すべての軒先を掃除することはできない。だから隣や向かい側、せいぜい左右五軒先くらいまで。
 せっせと道を掃いていると少し先のお花屋さんもシャッターを上げた。視線が合ったのでぺこりと頭を下げて挨拶を交わす。そして三十分ほどかけて周りを綺麗にすると、いつもその爽快感からか、いつか端から端まで掃除してみたいと思ってしまう。

「おお、ミハちゃん、おはようさん」

「あ、小岩井さん、おはようございます。昨日もお店に泊まっちゃったんですか?」

 さてと店に戻ろうとしたところで、後ろから大きな手に撫でられた。聞き馴染みのある声に振り返ると、無精ひげを生やした男の人が立っている。彼は商店街で焼酎バーを営んでいるのだが、時折飲み過ぎて家にたどり着かずお店で寝てしまう。そんな朝はこうして顔を合わせることが多い。

「毎朝精が出るな。そういや最近は先生うちに来ないけど、忙しいのか?」

「あ、紺野さんはいま締め切り目前でお篭もり中だよ」

「そっか、作家先生も大変だなぁ。いつでも待ってるって言っといてくれ」

 また僕の頭をくしゃくしゃと撫でると、小岩井さんはのんびりとした足取りで歩いて行く。この商店街には本当に色んな人がいる。突然あのアパートに転がり込んだ僕を、みんな優しく迎え入れてくれた。
 それは紺野さんや美代子さんの人徳があってのこそだろうけれど、それと同じくらいに心が広くて温かい人たちばかりなのだ。どうして僕がこの町にやって来たのか、その理由はいまだにわかっていない。

 無一文だった僕がどうしてここまで来られたのか、どこからやって来たのか。でもそれを知ってしまったらこの場所にいられなくなりそうで、なにも知りたくないと思ってしまう。僕は狡い人間なのかもしれない。

「みったん、おはよー!」

 お店に戻ると僕を待ち構えていたランドセルを背負った男の子が突進してくる。勢いよく走ってきたその少年に手を伸ばせばぎゅっと足に抱きつかれた。彼は寧々子さんのお孫さんだ。

「昭太郎くん待ってて僕、手を洗ってくるから」

「うん、待ってる!」

 ぽんぽんとランドセルを叩くとぱっと離れて返事と共に昭太郎くんは片手を上げる。黒目がキラキラしたとっても素直で可愛い男の子だ。掃き掃除の次の仕事は、今年の春に小学校に上がった彼を学校まで送ること。
 流し場で手を洗っているとお母さんの有希さんが奥の母屋から顔を出し、よろしくねと声をかけてくれた。シングルマザーで紺野さんと近い歳のお母さんだけれど、いつもはつらつとしていて元気を分けてもらうような気分になる。

「よし、昭太郎くん、学校行こうか!」

「行くー!」

 小さな手を握ると二人で行ってきますと声を上げて、歩いて十五分ほどの小学校へと向かう。ぶらぶらと繋いだ手を振って、昭太郎くんの即興の歌を聴きながら散歩するみたいに二人で商店街を歩いた。


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