澄み渡る青の世界
04

 二人の驚いた顔に僕のほうがもっと驚いてしまう。確かにいきなり初めて来た場所を知っているなんて言ったら驚かれるだろうが、ちょっと反応が大げさだ。
 だけどもしかしたら、僕がなにか昔のことを思い出したと勘違いしているのかもしれない。けれど思い出すことを喜ばれるのは手を離されるような気持ちになるし、僕がここからいなくなってもいいって言われた気分にもなる。

「あっ、あの、今日えっと部屋で、紺野さんの部屋で青色の写真集を見て、ここが写ってた場所に似てるなって思ったんだ。だから、その、昔のこととかじゃなくて、ただ単に」

 やけに張り詰めた空気に焦って声が上擦る。変な期待させるのが嫌で早口になってしまった。そんな僕の様子に目の前にある瞳が少し残念そうな、がっかりとしたような色を見せた気がする。
 それを見たら胸がちくんと痛んだ。彼は早く僕に思い出してもらって、早くいなくなって欲しいと思っているのだろうか。いまが楽しいって幸せだなって思っているのは僕だけなのか。

「素敵な写真集だったのね」

 一瞬俯きそうになった僕におっとりと優しい声がかけられる。顔を持ち上げたら隣で美代子さんが笑っていた。その顔に少し涙ぐみそうになったけれど、努めて明るい声を上げる。

「うん! 青色って一言で言ってもたくさんあるんだなぁって思えるくらい綺麗だったよ。特に色の混ざったシーグラスが綺麗でね、あれはきっと光に透かしたらもっと綺麗だろうな。そうだ、紺野さん。これ、バレンタインのお返し!」

 また沈黙になるのが怖くて僕は言葉を繋ぐようにポケットに入れていたものを取り出した。小さな紙の袋にリボンシールが貼られた安っぽい包みだが、今日のために選んだものだ。

「紺野さんが青色が好きで良かった。これ使って。いつも紺野さんは鍵を裸でポケットに入れているでしょう?」

 手を差し向けてまっすぐに見つめると、ゆっくりと持ち上げられた手が紙袋を掴む。プレゼントが手に収まったのを見届けて居住まいを直すように座り直せば、しばらくそれを見つめていた彼は封を開いて中身を取り出した。
 カチャリと小さな音を立てて紺野さんの手の平にこぼれ落ちたのはシルバーの縁取りのキーホルダー。羽のような飾りの部分が青色のステンドグラス風になっている。

「ぜ、全然いいものじゃないんだけど」

「……被った」

「え? なにが?」

 黙ってキーホルダーを見つめていた紺野さんはふいにぽつりと呟いてため息をこぼす。最初から彼が大喜びしてくれるようなことは想定していないが、ため息をつくとはどういうことだ。

「え? もしかしてキーホルダー、もう買っちゃったとか?」

「違う、そうじゃない」

 言葉の意味が飲み込めずに顔色を窺う僕にまた彼はため息をこぼす。けれどそのあと袖の袂に手を突っ込んでなにかを取り出した。テーブルの上を滑らし僕の前へ差し出されたのは小さなラッピングボックスだ。
 それに思わず首を傾げるとタンタンと催促するみたいにテーブルで箱の底を鳴らす。それが受け取れという意味だと気づいて慌てて手を伸ばしたら紺野さんの手は引っ込められた。

「ありがと、これはホワイトデーのお返しかな? 開けるね」

 綺麗な包装紙を丁寧に剥がして、小さな箱の蓋を恐る恐る開く。するとそこには滲むように混ざり合った青がある。
 それは写真で見たシーグラスによく似た綺麗な石がぶら下がったキーホルダーだ。それには見覚えのある鍵が付けられていた。

「これって、僕の部屋の鍵、だよね? なんか新しい」

 いつも美代子さんに借りている使い古した鍵ではなくて、艶のある新品の鍵。それを見つめていたら急に喉が熱くなった。
 いつでも借りて返せる古い鍵ではなくて新しい鍵をくれた、それがひどく嬉しかった。まだここにいてもいいって言われたみたいで、胸が熱くなる。いつもはっきりとした言葉はくれないのに、彼は僕を喜ばせる天才だ。

「もう、こんなの泣いちゃうじゃないか」

「……もう泣いてるだろ」

「えーん、また惚れ直した」

 ぎゅって握りしめたら涙がぼろぼろ落ちて、キーホルダーにぽつぽつ落ちるから慌てて胸に引き寄せた。こんなことされたらますます離れたくないって思っちゃう。だけど離れたくないから、この優しさに縋りたい。

「僕、もうほかになにもいらないよ」

 贅沢を言ったらいまの幸せが逃げてしまいそうだ。欲張ったら手から溢れてこぼれ落ちていってしまう。ほんの小さな、指先くらいの幸せでもいい。このまま、このまま僕をここにいさせて欲しい。

「必要なものは必要な時に手の中に入るものだ」

「ミハネちゃんはいい子だから、きっとこれからたくさんいいことがあるわね」

 温かい手に背中を撫でられて涙が止まらなくなった。それでも嫌な顔をしないで黙って泣き止むのを待っていてくれる。その優しさに僕はこれから何度救われるのだろう。
 好きの気持ちがいっぱいになって溢れて流れ出していく。彼が好きだ。遠回りな優しさを持つ紺野さんが僕は大好きだ。

「ねぇ、紺野さん。今日は、なんの記念日なの?」

「……なんでもない日だ」

「そっか、……あっ、ホワイトデーだもんね」

 なにかを言い淀んだ横顔を眩しく思いながら目を細める。
 まっすぐとした人――決して濁ることがなくて、水底が見えそうなくらい澄んだ心を持った人。彼の優しい青がいつでも僕を包み込む。だからこの世界にずっといられたらいいなと思わずにいられない。
 ここに僕がたどり着いたのにはきっと意味がある。彼がいつもと違う装いであること、今日という日、この場所――それに答えがきっとあるのだろう。だけどいまだけはそれに気づかないふりをした。


澄み渡る青の世界/end


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