澄み渡る青の世界
03
鈴凪荘に転がり込んだのは年がもうすぐで明けるというような頃だった。それから僕は一度も小さなあの町を出たことがなかった。いままできっと何度も乗っただろう電車も、そこから見える景色も珍しくて少しはしゃいでしまう。
いつも以上にお喋りな僕に美代子さんはにこにことして、紺野さんは少しだけ穏やかそうな顔をしていた。
年の暮れに着の身着のままで家を出て記憶をなくすなんて、一体なにがあったんだろうっていまでも考えることがある。そもそも人が記憶をなくすってどんな時なのかと不思議に思う。
お金は持っていなかった。あったのはICカードが一枚。
これで電車に乗ってきたようなのだが、それは連絡先などが登録されていない無記名のものだったらしい。真新しいカードの記録を見ればどの辺りから乗ってきたかはわかるだろう。
それでもこの二人は僕に思い出すよう急かさないし、それについて問いかけてくることもない。
「あ、海だ! 夕暮れで綺麗だね」
電車の窓から海が見えた。隣町に海があることは知っていたが、実際見るとなんとなく感動する。広い海、広い世界、それはどこまで続いていくんだろうか。
だけどいまはあの小さな町だけでいいやって思ってしまった。多分僕は帰りたくないんだと思う。この温かくて優しい幸せの中にいたいんだ。
こうしてすぐ傍で紺野さんや美代子さんが笑っていてくれる。それ以上の幸せってあるのかな。
「下りるぞ」
「はーい!」
電車に乗って四十分と少しくらい。各駅停車の小さな駅に下りた。海が近いようで少し潮の香りがする。日が暮れてきて辺りは薄暗くなっていたけれど、外灯の明かりがぽつぽつと灯っていた。
駅前でタクシーに乗ると町並みが通り過ぎていく。小さな商店街や神社があって、いま住んでいる町に少し似ている。車はどんどんと進み、十分くらいすると上り坂を上って小さなレストランの入り口で止まった。
それほど大きくないこぢんまりとした印象のその店は外壁や屋根も真っ白で、薄闇の中にぼんやりと浮かんで見える。周りに遮るものがないから日が射し込んだり夕陽がかかったりしたら綺麗だろうなと思う。
「あ、もしかしてここってお店の中から海が見えるんじゃない?」
「あら、素敵ね」
「紺野さんがこういうおしゃれなところ知ってるのってちょっと意外だね」
「うふふ、本当ね」
失礼極まりない僕と美代子さんにほんの少し複雑そうな表情を浮かべた紺野さんは黙って店の扉を開いた。
足を踏み入れてまず目に入ったのは青色の照明。店全体が青いのではなくグラデーションのようにブルーの光が滲んで見えるのだ。まるで水族館、いや海の中にいるような気分になる。
店内も白が基調となっているので余計に青色が映えるのだろう。店の前に出ていた看板に横文字でブルー・オーシャンと綴られていたその意味に気づく。海の見える店という意味もあるけれど、これはこの店ならではの演出なのかもしれない。
「いらっしゃいませ。お待ちしてました」
ぼんやり店内に目を奪われているとふいに女性の声が聞こえてきた。それに振り向けば、紺野さんよりも少し年上と思える女の人が立っている。僕の視線にやんわりと笑ったその人はとても綺麗な人だった。
こんな素敵なお店に、こんな素敵な女の人がいて、無頓着極まれりな紺野さんがおそらく何度か来ている。もしかして、……彼女とか?
「お前、いま下らねぇこと考えてんだろ」
「く、くだらなくないもん! 大事なことだよ。紺野さんいま付き合ってる人いるのっ?」
呆れた目で振り返られて思わず声が大きくなってしまった。静かな店内に僕の声がかなり響く。その声に女性陣は驚きに目を丸くするが、次の瞬間には吹き出すように笑い出した。
「わ、笑い事じゃない!」
「お前はほんとに馬鹿だな」
「紺野さん酷い! 僕、毎日毎日言ってるでしょ! それなのにこんな綺麗な人と会ってたなんて!」
みんなに笑われるのも恥ずかしいけれど、紺野さんに馬鹿にされるとちょっとムカつく。噛みつくように文句を言えばなだめすかすみたいに額を叩かれた。さらにムッとして頬を膨らませると頭を撫でてくる。
そうすると僕がなにも言えなくなること、きっと知っててやっている。
だって僕の頭を撫でる紺野さんはいつも優しい目をするんだ。呆れてても馬鹿にしてても、なに考えてるかわかんない時だって、温かい目をする。
「……好き、好きだよ。ほかの人に目移りしないでよ」
小さな声で呟いた。彼に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で。それでも優しい大きな手で撫でてくれるから、ささくれだった心が和らいでいく。
「心配しないで、私と紺野くんは友達みたいな感じなの。私は伊達彩芽って言います。うちの旦那さんが彼と仲が良くて、それでたまに二人でここに来てくれるのよ」
「あっ、……そうなんですか」
きゅっと紺野さんの着物の袖を掴んだら、なにかを察したのか、それともわかりやすすぎたのか、美人なお姉さん――彩芽さんは素性を明かしてくれた。恥ずかしさで顔が熱くなるけれど、彼女は最初と同じ柔らかい笑みを浮かべてくれる。
「さあ、どうぞ。……あっ、えっとミハネくん、お腹空いてない?」
「は、はい! 空きました」
「んふふ、いっぱい食べていってね」
窓際の海が見える席に案内してくれた彼女はにっこりと微笑む。その笑顔に笑みを返すけれど、なぜかしばらく見つめられてしまった。その視線に戸惑って誤魔化すように視線を泳がせる。
店内はテーブルが四席にカウンターテーブルがある。そしてカウンターの横には白い階段があり、二階へと伸びていた。
「ここって二階があるんですね」
「ええ、上は事務所だけれど」
「ふぅん、……ん? あれ? これ、どっかで見た気がする」
「えっ?」
浮かんだのは既視感。白い空間に青色があって、角度は違うけれどこの階段も見覚えがある。しかしそれに悩んだのはほんの少しだけで、すぐに思い出した。
写真集だ。紺野さんの部屋で見た青色の写真集に載っていた場所がここに酷似している。しかしそれに気づいて納得した僕に反して、向かい側にいる紺野さんも傍に立つ彩芽さんもやけに驚いた顔をしていた。
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