ハルモニアは幾日か夕日を見ていない。

 より正確に言うなら海に沈む夕日を、彼女があれほど愛した光景を、九日も見ていない。
 ハルモニアはいつものように市場で果物やチーズを買い求め、ふと空を見遣る。庇の間から見えた空は疾に真昼の鮮烈な青色から柔らかな鬱金色に移ろうている。ついと太陽を避けて視線を下ろした東の空は薄らと朱色に色付いてまだ少し夜を招き入れるまで時があるようだった。

 ハルモニアは歩きだす。

「あら、ハルモニア。元気になったのね」
「はい、お蔭さまで。先日は有難うございました」

「ああ、ハルモニア、またダルダノスに魚を持って来るよう言っといてくれ」
「ええ、解りました」

「さあ、ハルモニア、見てご覧。今日は珍しい果物が入っていてね、何でもかのヘルメス神が異国に渡られた時に」
「ごめんなさい、おじ様。今日は買う物を買ってしまったわ」

 いつものように投げ掛けられる挨拶にハルモニアも微笑みながら返す。海辺に夕日を見に行くという習慣を除いて、ハルモニアは日常を完全に取り戻していた。


 彼に逢って、彼の言葉に、ハルモニアは混乱していた。
 よくよく考えれば、彼の言を信じる謂れがない。不審者の妄言だ。それを信じて取り乱してしまうなんて恥ずべきことだ。
 それが道理である。…筈なのだ。

 それは恐らく実際に遭遇した者でなければ理解しえない感覚で、精神[こころ]を直に触れるような言葉が思考を捩伏せた。彼の言葉は紛れも無く真実だ。そう思わずにはいられなかった。その上、エレクトラがそれを認めた。エレクトラがハルモニアの話に合わせたとも考えられるが、やはりエレクトラの言葉も真実であろうとハルモニアは思う。
 戻ってきた日常がハルモニアを落ち着かせた。落ち着いて、改めてハルモニアは彼の言葉を受け止めた。否定したい気持ちはないでもない。しかしそれでは彼はどうする。養母は。父母は。否定したいのはハルモニアの自己保身に過ぎぬ。
 ハルモニアは愛欲の女神アプロディテと軍神アレスの不義の娘であることを、曲がりなりにも受け容れた。

 だからこそ彼に会って詫びたかった。否、詫びる術など思い付きもしない。アプロディテの夫である彼、ヘパイストスはハルモニアの顔など見たくもないのかもしれないともハルモニアは思った。しかし、去り際にヘパイストスが密か零した言葉はハルモニアとの再会を望む言葉ではないか。彼がそれを望むならハルモニアはそうすべきだ。例えどんな結果になるのであれ。


「ハルモニア! 大丈夫か? 重くない?」
「イアシオン兄様!」

 市場を抜けて帰り道に差し掛かったところでハルモニアを出迎えたのは次兄のイアシオンだ。昨日と一昨日はダルダノスが更にその前はイアシオンがわざわざ迎えに来ていた。
 それがハルモニアが夕日を見ていた海辺に、ヘパイストスに会いに行っていない理由だった。

「兄さん持つぞ、それくらい」
「大丈夫よ、兄様。私の仕事奪わないで」
「ハルモニアは働き者だなぁ」

 イアシオンはのんびりと言ってハルモニアとふたり並んで歩きだす。
 恐らくはハルモニアを心配して兄達は迎えに来てそれとなく真っ直ぐ家路に導くのだ。自主的になのか或いは母の意に沿ったのか、それはハルモニアには判らなかったが、彼等がハルモニアの身を案じているのは痛いほど解った。とても申し訳なく思いながら、だからこそハルモニアはそれを無下には出来ない。だから海へ足を向けることが出来ない。

 しかし。

 このままでいいのか、ハルモニアは自問する。きっとよくない。よくないのは解っている。だけどどうすればいいのか。母も兄達もハルモニアを心配してヘパイストスから遠ざけようとしている。その心配は尤もだ。その気持ちが嬉しくて申し訳なくて。だけど、それならヘパイストスはどうなるのか。彼がどんな想いでハルモニアに会いに来たのかは解らない。例えばハルモニアを憎んでいたとして、例えばこのままハルモニアが彼から逃げ続けたとして、彼はどうなるのか。ずっと憎しみを抱いて晴らせず苦しいままじゃないか。悪いのはハルモニアなのに。ハルモニアは心配して貰う権利はない。逆にヘパイストスにはハルモニアを憎む道理も権利もある。だから会うべきなのだ。会って、もし、凶刃が振り下ろされたなら、それを受け入れよう。

 ハルモニアは足を止めた。イアシオンが振り返る。

「ねぇ、兄様。私、きっと、あのひとに会わなければいけないわ。多分これは私とあのひとの問題だから、兄様は先に帰っていて」

 万が一にも兄を巻き込む訳にはいかない。それではエレクトラにもダルダノスにも申し訳が立たない。

「ハルモニア……解った。行っておいで」

 思いがけずイアシオンはあっさりと認めた。却って戸惑うハルモニアの頭を撫でながら苦笑してイアシオンは言う。

「ハルモニアが頑固なの知ってるからね。いつもは母さんや俺達の言うこときちんと聞き分けるけど、一度自分から言い出したら退かないだろ」
「兄様」
「市場での買い出しとか。俺と兄さんでしてるから大丈夫って言ったのに自分がするって聞かなかったしな。あの時、色々考えて買い出しをするって決めたんだろ? 今回も考えてそのひとに会うって決めたなら、俺は止めない。母さんと兄さんには上手く言っとく」
「……ありがとう、兄様」
「だけど、ハルモニア。お前もちゃんと家へ帰ってこいよ。お前がどう思ってるか解らないし、迷惑かもしれないけど、お前は俺にとって大切な妹で、俺達の家族だ」
「そんな迷惑なんて! 私、兄様もダルダノス兄様も母様も大好きよ。大好きで大切なの。 だけど、それこそ迷惑じゃないの? 私、血は繋がってないし、神であるあのひとには嫌われてる厄介者だもの」
「そんな訳ないだろ。もし、そのヘパイストス神が嫌っても例え神々の父・ゼウス神が嫌ったとしても関係ないよ。…うん、けどよかった。ハルモニアからしたら俺達のこと人間ごときと、って思われてるのかもって思ってたから」
「それこそ“そんな訳ない”わ。……ねぇ兄様、私は兄様や母様たちの家族だって言っていいかしら」
「いいに決まってるだろ!」
「うん。…よかった…。ありがとう、兄様」

 ようやっと微笑んだハルモニアにイアシオンは泣き笑いのような表情を浮かべ、少し躊躇いがちに言った。

「やっぱり一緒に行こうか?」

 イアシオンにはハルモニアの笑みが殉じる覚悟をした者のそれに見えた。そして恐らくそれは間違っていない。
 果たしてハルモニアは肯んじなかった。微かに首を振って兄の申し出を断った。そして、今まで抱えていた篭をイアシオンに渡す。

「大丈夫。行ってくるわ、兄様」
「人間は傲慢で身を滅ぼすいうが、神々は嫉妬で人を滅ぼす。気を付けておいで」

 イアシオンがハルモニアの額にキスをひとつくれて、ハルモニアは歩き出す。速足に。込み上げた切なさが零れ落ちる前に。


 広けた空が黄金に染まっている。
 サンダルが砂を踏む感覚は久し振りだった。少し沈み込むような不安定さ。ザリと音が鳴る。ハルモニアにはその足元の微かな音よりも自らの心臓の脈打つ音が大きく聞こえていた。
 実際、ここでヘパイストスと会うと約束した訳ではない。していない。その上、あの日からハルモニアは十日目にして漸く浜辺へ行くのだ。ヘパイストスがいるとは限らない。普通に考えればいるはずがない。
 強く吹いた潮風にハルモニアは不図、足を止める。浅い呼吸を繰り返した。
 きっと、あと少し足を進めれば、白い背中が見えるだろう。そんな確信めいた予感があった。
 ハルモニアはまた歩を進める。波打際に座り込んでいる人影を認めた。傾斜のある波打際なのでその頭から肩にかけてしか見えなかったが、風に嬲られる白い髪は見間違えようもない。
 ハルモニアは決して速度を緩めず進んだ。心音は煩いくらいに打って海鳴りを遠ざける。足元がぐらりと傾きそうなのに堪えた。あと十歩。踏み締めて何故かイアシオンやダルダノス、そしてエレクトラと共にあった陽だまりのような暖かい思い出が脳裏に過ぎる。

 私は幸せだ。ハルモニアはいつかと同じことを思った。多分に過ぎた幸せだった。母はああ言ってくれたがハルモニアには他人の不幸の上にある自分が幸せであるのを許せない。このまま平穏に幸福を享受することなど出来なかった。母や兄への感謝の念は限りない。それだけに申し訳なく思う。申し訳なく思いながらそれでもこうしているのはハルモニアのエゴなのだろう。
 まだ気付いていないのか、或いは気付いていているのかもしれなかったが振り向きもしない男の後ろに立って、ハルモニアはひとつ息を吸った。

「こんにちは、伯父さま」

 振り返るった逆光で影の射す貌が、ハルモニアの見間違いでなければ微かに笑みを象った。

「今日は、ハルモニア」

 早鐘のように打つ心臓。手が震えてハルモニアはそれを悟られまいと拳を強く握り締める。恐ろしくないと言えば嘘だ。ヘパイストスと向き合うだけで恐ろしくて膝から力が抜けてしまいそうになる。
 ハルモニアは常に優しく温かな真綿で包まれるように大切に育てられてきた。逆に言えば嫌悪だとか憤怒だとか恐怖だとか負の感情にあまり晒されず、ハルモニアはそれに慣れていない。恐ろしい。だから、ハルモニアを憎悪しているだろうヘパイストスのことは一層恐ろしい。
 しかしその憎悪は当然のことであろうとも思うのだ。妻と兄弟に裏切られたヘパイストスの哀しみと歎きが憎悪へと転化したのであれば、ハルモニアはその哀しみ歎いた彼をこそ憐れに思う。辛かったろうと思う。その哀しみも歎きも理解するにはハルモニアは幼かったが、それがいかに辛いことなのか思い量ることは出来た。
 ハルモニアの存在がそうさせているのなら、そう思うと、恐ろしいと言って彼から逃げることなど赦されはしない。だからハルモニアはここに、彼に会いに来たのだ。

「今日は座らないの?」
「いえ、伯父さま……あのっ」

 あなたは私を憎んでいるのではないのですか。
 母があなたを裏切った。父があなたを蔑ろにした。私はあなたを傷付けているのではないのですか。悲しくはないのですか。苦しくはないのですか。辛くはないのですか。あなたは私を憎んでいるのではないですか。

 心に積もった言葉は声にならない。ヘパイストスのハルモニアを見るあまりに無感情な眼に、ハルモニアは呼吸を止めた。ハルモニアは渇いた咥内から無理に集めて唾を飲み込んだ。
 ザザ、と寄せては返す波音が海の平穏を伝えていた。

「じゃあ少し、歩こうか」

 言ってヘパイストスはふらりと立ち上がる。間近に見上げて背が高いな、とハルモニアは幾分場違いに思った。イアシオンよりは高いだろうか、ダルダノスと同じくらいかもしれない。
 ヘパイストスはハルモニアの返事も聞かないまま、不安定な足取りで波打ちの際を踏んだ。ハルモニアが初めて彼を見た時と同じように。エレクトラがヘパイストスに向けてこの島には入らせない、そう言っていたのを思い出した。
 ハルモニアも従って歩く。左手に沈みゆく太陽、右手に夜の気配。前を歩くヘパイストスの背中は移ろう境界の黄金の中にあって、何かを拒むように白い。
 以前にその白を世界から見捨てられたようなと感じたが、逆かもしれぬ。彼こそが世界を見捨てているのかもしれぬ。ハルモニアにはそれがかなしい。

 大きく寄せた波がハルモニアのサンダルを濡らす。
 冷たい。ハルモニアは足を止めかけて、強いてヘパイストスと同じように波打際を歩いた。濡れた砂に、寄せては返す波に、足を取られそうになる。そして冷たい。身体の輪郭が浮かび上がるような、微かに痛みを帯びた冷たさだった。
 黄昏れる空も海も、いつものように綺麗な筈なのに、滲んで見えた。気付けばハルモニアは泣いていた。頬を撫でる海風が気化熱を奪う。

「…伯父さま、」

 震える声で呼び掛けた。ヘパイストスが緩慢な動作で向き直る。歩き始めた時よりふたりの距離は広がっていた。不意に風が止んだ。聞こえるのは潮騒。己の鼓動。ハルモニアは幾度か声を出そうと試みて口篭り、瞑目、そしてヘパイストスを真っ直ぐに見詰める。夕日に照らされて尚、蒼白い貌で彼はハルモニアの言葉を待っているかのように、左右不揃いの色をした双眸がハルモニアを見詰め返していた。

「ごめんなさい伯父さま、ごめんなさい…」

 それだけ言ってハルモニアは俯いた。どんなに言葉を重ねても詫びようがないのだ。だから、ごめんなさい、とそれだけ言った。もしかしたらヘパイストスが気分を害すかもしれない。思っても言わずにはいられなかった。
 きらきらと光を反す水面の眩しさが切なくて、ハルモニアはぎゅっと目をつむった。ざざと鳴る海。ハルモニアをよそにやはり海は平穏そのものだった。

「貴女が悪い訳じゃないよ」


 今、ヘパイストスは何と言った。


「だからね、貴女が悪い訳ではないでしょう、ハルモニア」

 ハルモニアの逡巡の理由を悟ったようにヘパイストスが繰り返した。

「だって、私は、不義の娘で、伯父さまの名誉とか矜持とかもっとたくさんのものをずっと傷付けて」
「それは貴女自身にはどうしようもないことだもの」
「だけど」
「それとも貴女は私のことを貶めたかった?」
「そんなわけ…!」
「なら、貴女は悪くないよ。ハルモニア」

 ハルモニアは二の腕を抱いてしゃがみ込んだ。
 伯父が、血縁上、伯父にしかならない母の夫が、自分を悪くないと言ってくれた。その事実が嬉しかった。そして張り詰めていた気力の糸がふつりと切れてしまった。嗚咽する。頬を伝う涙が熱い。
 ばしゃばしゃと水音と気配が近付いたのでハルモニアはしゃっくりを上げながら少し目を開く。見ればヘパイストスが近くに座り込んでハルモニアにそっと手を伸ばす。冷たい指先がハルモニアの涙を拭う。

「…伯父さ…ま」
「貴女は悪くないよ、悪くない」

 言って今度は今度はハルモニアの金色の髪を手で梳るように撫でる。酷く心地良い。まるで養母がそうするみたいに。ハルモニアはその心地良さに身を傾げる。

「貴女は悪くない。………だけど、ね。そう知っていて、私、本当は貴女に酷いことしてやろうって思ってた」

 風が吹く。しかし直前のヘパイストスの言葉は攫われることなくハルモニアに届いた。
 夕日に照らされるヘパイストスの貌は表情が薄く、何処か空恐ろしい。優しげな手と不釣り合いな言葉は、きっと真実だ。ハルモニアは思った。
 そしてそうなっていたとしても、彼の気が変わって、今、それが実行されたとしてもハルモニアは受け入れるべきなのだ。
 ヘパイストスが今度は頬を撫ぜる。

「酷いことを色々、ね。多分、貴女が想像しているのよりも、ずっとずっと酷いことをしてやろうと思ってた」
「それでも構いません。伯父さまの心がそれで救われるなら」

 引き寄せられて抱きすくめられた。ぎゅっと、まるで義兄がそうするように。

「ハルモニア、貴女は随分と自分を粗末にするね」

 抱きしめられて、身動きもできずハルモニアは耳裏にヘパイストスの言葉を聞く。

「ねぇ。ハルモニア、貴女は父母から引き離された。それは私の所為だ。私が貴女に対して邪なことをするだろう、そんな推測が皆にあったからだ。多分、それは正しかった。だから貴女の祖父にあたるひとが計らって、貴女は実の父と母から引き離されてエレクトラの養女として育てられた。だから、ハルモニア。貴女には私を恨む正当性がある」

 思ってもみなかった考えである。ハルモニアは咄嗟に身を離そうとして、しかしそれは力強い腕に阻まれてしまったので、せめてと反駁する。

「そんな! 恨んでなんか…私じゃなくて伯父さまこそ、私を恨んだり憎んだりするべきなんです。だってやっぱり私…、私がいるだけで伯父さまの名誉を傷付けているんですもの」
「それは貴女の所為じゃないって言ったでしょう」
「それでも伯父さまは私に酷いことをしようと思ってたとも仰ったわ。それは伯父さまが辛かったから、悲しかったからではないのですか?」
「辛くなかった、悲しくなかった、と言えば嘘になるよ」
「なら…!」
「だけど、それは貴女を憎む理由にはならないし、貴女が私の八つ当たりを甘んじる理由にもならない」
「…八つ当たり…、いえ、正しい罰ですそれは」
「違う、八つ当たりだとも。私は貴女なんか恨んでいない、ましてや憎んでやいない。ねぇ、ハルモニア、自惚れないで」

 ヘパイストスが腕を緩めたので、少しだけ身を離して、ようやくハルモニアは彼の顔を見た。感情の見えづらい左右不揃いの色をした眼が静かにハルモニアを見据えていた。
 自惚れ、と言ったか。酷く場違いな言葉と熱のない双眸にハルモニアは戸惑う。ヘパイストスは目を逸らせ、もう一度ハルモニアを抱き寄せた。ハルモニアの肩に頭を乗せて、少女であるハルモニアにまるで縋るような酷く頼りない姿だ。

「私は貴女の母も父も憎んでなんかいない。確かにあのふたりは私の権利だとか矜持だとか踏みにじった。それに報復する術ないと思われているのが腹立たしくて悲しくてか悔しくて…色んな気持ちが区別つかないくらいぐちゃぐちゃだったかな。
 けどね、私がそんな気持ちになるのも可笑しいらしい。皆、可笑しいと笑うんだよね。お前みたいな片輪者が一人前の顔をするのがそもそも間違いなのになにを悔しがっているのか滑稽だ、って。
 だからハルモニア、貴女なんか憎いはずがない。貴女が生まれるよりずっと前から私は笑われ続けているんだから」

 憎まれていないのだという安堵感よりも、切なさが勝る。ハルモニアは何か言おうと思って、しかし何も言えない。まだ十年とそこそこしか生きていないハルモニアは不死の神として永く存在するヘパイストスにかける言葉を持っていないのだ。だからそっと無防備な頭を撫でた。振り払わられるかとも思ったが、ヘパイストスはハルモニアにされるがまま続けた。

「なら彼らが憎いかって? まさか。そんな価値もない。心を僅かでも動かす価値がない。
 じゃああのふたりが憎いか? アレスにはいつか罵られながら殴られた。けど、私にはそれが少し嬉しかった。あいつは私のことをどうしてか知らないけど本気で憎くて、考え得る限りの非道をしたんだろうね。他の殆どのひとは、私を称賛しながら見下して憐れみながら嘲笑うのに、あいつは本気で私を嫌って憎んでいたし隠しもしなかった。
 アプロディテはね、貴方が本当に愛したいのはあたしじゃないでしょ、なんて言った。私はそうじゃないと言って、辛がって裏切った言い訳だとあのひとを責めたけれど、だけどきっと私は私であのひとを傷付けて、あのひとはそれが幾らか辛かったんだと思う。私にはそれも少し嬉しかったかな。
 どうしてか解る? …別に解らなくてもいいよ。つまりね、だから私はあのふたりは嫌いだ。だけど、憎くはない。だから貴女だって憎い筈がない」

 溜息をひとつ吐いて、ヘパイストスは再びハルモニアを正面から見据えた。沈みゆく夕日が照らし出す彼の貌からハルモニアは上手く感情を読み取ることが出来ない。

「だから貴女を手に掛けようというのは八つ当たりだよ。貴女はそんな理不尽を受け容れるべきじゃない。貴女は他人にとても優しいけれど、貴女自身に優しくない」

 ざざ、と波が足元で砕けた。

「ねぇ、ハルモニア、貴女は許せる? 真実の父母と引き離されて、血の繋がらない家族と暮らして、理不尽を受けようとして、それでも貴女はそれを許すと言うの?」
「…はい」
「優しいハルモニア。可哀相なハルモニア。貴女は自分の幸せを知らないね」
「そんなことない! 私は、私が幸せだってちゃんと知っています!」

 ハルモニアは思わず叫んだ。

「母と兄が教えてくれたんです。母と兄は赤の他人の私を家族と言って育てくれた。それがどんなに幸運なことか、どんなに嬉しいことか…私は伯父さまと会って、自分のことを知って、今までよりも強く思いました。私は……私が幸せだと知っています。だけど、私の幸せが誰かの不幸の上にあるならそれは許せない。それを伯父さまは優しいと仰るのならそうなのかもしれません。けれどそれが可哀相だなんて言われたくない。私は知らないわけじゃない。私の幸せを作ってくれたひとたちを知っています。私は、私の幸せを作ってくれるひとたちの為にも自分が誰かの不幸を生みたくないんです。そして私自身、可哀相だなんて言われたくないんです!」
「……そう」

 殆ど肩で息をするハルモニアに、ヘパイストスは短く言った。そしてハルモニアから視線を逸らして眩しそうに夕日を見詰めた。ハルモニアもその隣に座って、ふたりで海に沈む夕日を眺める。風は凪いで聞こえるのは寄せては返す波の音。だからヘパイストスがぽつりと零した言葉はハルモニアに届いた。

「可哀相だなんて、貴女を馬鹿にしてるよね…」

 葡萄色の海と金色に染まる空。
 それはいくらか前までハルモニアが次に見るのを諦めていたいつもの美しい一日の終わりだった。

 不意にヘパイストスが手を伸ばす。水平線の太陽に。

「ハルモニア、いつか貴女にこの景色をあげる。誰もが羨んで欲しがる金色の首飾り。永久[とこしえ]に輝き、褪せることのない金で貴女が綺麗だと言ったこの景色を造って貴女に贈ろう」

 厳粛な誓いのように述べて、ヘパイストスはハルモニアに少しだけ、そう少しだけ、しかし確かに、笑った。

「貴女が幸福だと言うのなら、私が誰よりも祝福してあげる。それを今まで勝手に貴女を不幸だと決め付けていた詫びに受け取ってくれる?」
「ええ…必ず。伯父さまも、私が勝手に私を憎んで恨んでおいでだと思っていたのを許して下さいますか?」
「勿論」

 ハルモニアも笑った。
 きらきらと海も空も黄昏れ色に、夜の帳が降りるまでの刹那的な美しさで輝いていた。



斜陽の首飾り  了


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<2010/12/20ー2011/02/22>
<2011/02/24>修正
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