楽人の歌うよう。

 血を好むアレスは様々な贈り物をしアプロディテと愛の交わりをした。公正なる太陽はこれをアプロディテの夫たるヘパイストスに告げた。胸の痛む報せに怒り高名なる鍛冶神は恐るべき作品を作り上げた。至福の神々の誰にも見えぬ鎖。至福の神々の誰にも破れぬ鎖。蜘蛛の糸のように寝台に張り巡らせた巧妙な罠であった。夫が妻にレムノスに行く素振りを見せて直ぐさま不実の恋人は手を取った。「愛しのアプロディテよ。ヘパイストスはおらぬ。添臥し愛を契ろうではないか」共寝し睦みあう最中忽ちにふたりは糸に捕われ躯を離すことは疎か手を挙げることも出来ぬ。ヘパイストスは取って返しこれを見る。妻の不貞に傷付きしかしそれは激しい怒りに変わる。恐ろしい声で喚き言う。「父なるゼウスよ。至福なる神々よ。見よ。我が妻がいかに私を軽んずるかを。愛欲に耽る様を。情けなきこと。ふたりが好き合っていようとこうなっては最早寝ていたいとは思うまい。だが鎖はふたりを結び付けたまま放しはせぬ。存分に抱き合うがいい」女神たちの姿はなかったが種種の幸を授ける神々が集う。消し止めようもない哄笑が沸き起きた。


 楽人がムーサより新たに天啓を受けたのかそれはまだあまり歌われていない物語のようであった。ハルモニアがかつて兄とともに市場を歩いた時の記憶である。
 市場の一角で楽人が奏でて歌い、聞く人々の心を和ませたようで、くすりと笑い声が漏れていた。
 ハルモニアにはそれがどうしてか解らず首を傾げた。手を繋いだイアシオンは解らなくていいよ、と優しい声音で言って手を引いた。続く歌と笑い声を背にして立ち去った。



 そして今、ハルモニアは泣いていた。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 塩辛い水はハルモニアがきつく瞼を閉じてもその隙間から染み出して彼女が包まっているリネンを濡らした。眼窩の奥がまるで熱病のように熱い。否、或いは真実、病なのかもしれなかった。心がひたすらに重い。その重さが身体をも蝕んでいた。ハルモニアは朝から太陽がその最も高きを過ぎても寝台から抜け出すことが出来なかった。
 ハルモニアの額に触れる手があった。イアシオンである。そっと額から前髪を撫でて彼は眉を寄せて背後に振り返る。そこに腕組みをして佇むのはダルダノス。ダルダノスとイアシオンのあまり似ていない兄弟は同じ表情で妹を見遣った。そこにエレクトラが温めたミルクを持ってくる。
 ハルモニアは母と兄達にそうやって心配をかけてしまうのが尚更辛い。

 ごめんなさい。母様。ごめんなさい。兄様。私、…ごめんなさい。ごめんなさい。

 何か言うのも言い訳のようで、自分勝手が過ぎるようで、卑怯な人間のようで、それに耐え切れずハルモニアはただ心の中で詫び続けていた。血の繋がらぬ母に、兄達に、そして真実血の繋がった伯父に。

 ハルモニアが争うことを嫌うのは、身体であれ心であれ誰かを傷付けることを厭うからだ。真綿のような優しさに包まれそれを素直に受け取り育った彼女が次第に深めたのは、自分が傷付けられるよりも誰かを傷付ける方が酷いという道徳観だった。誰かが傷付けられるのを見逃せば、それはハルモニアが傷付けたも同じである。だから見知らぬ人であれ目の前で争うのは堪えられない。だから彼女は争いを止めに入る。

 そのハルモニアこそが生まれながらに伯父であるヘパイストス神を酷く傷付けていた。

 ハルモニアは昨日それを初めて知って、本当に申し訳なくて、詫びたくて、しかし償う術など見付からなくて、泣いていた。



「そう、私はヘパイストス。ハルモニア、貴女の父の兄、貴女の母の夫だ」

 徐々に太陽の残滓も失われ夜の衣が空を覆っていく中、それでも男の、ヘパイストスの無感動で青褪めた貌はよく見て取れた。微か燐光を帯びて闇に沈むこともない人間ならぬ、神。確かにそれがハルモニアの前に顕現していた。
 ハルモニアにじっと注がれる視線は冷たくもないし熱くもない。
 感情の見えないしかし彼の言った意味を取り損ねる程ハルモニアは幼くはなかった。ヘパイストスはハルモニアを、彼の弟と妻の子、則ち不義の子と言ったのだ。
 さっ、と血の気が引く。そのまま倒れるかもしれなかった。エレクトラが抱きしめてくれていなかったら。
 足に力が入らない。エレクトラが強く抱きしめるのにハルモニアは僅かに縋るのが精一杯だ。
 あの歌。以前市場で聞いたあの歌の妻に手酷く裏切られ故に酷く憤った神が目の前にいて、その衆目に晒された罪が結実したのが自分だ。いくら平和と調和を愛して繕ったとてハルモニアの存在そのものが赦しがたい背信と罪悪なのだ。

 思い至って今度は心臓が不気味に蠕動する。奇妙に波打つ鼓動。ハルモニアはまともな呼吸の仕方を忘れて嗚咽のような、否、彼女に自覚がないだけで彼女の頬には幾筋もの涙が伝っていたので紛れも無くハルモニアは嗚咽していた。

「ハルモニア、あなたが悪いんじゃないわ」
「…かぁ、さまっ…」

 尚も強く抱きしめるエレクトラを見上げれば彼女もハルモニアと同じくらい苦しそうな顔をして、それでもハルモニアを慰めようとしていた。
 エレクトラは顔を上げた。そこにはハルモニアに向けた優しさも弱さもない。屹然とした表情でヘパイストスを睨み据える。

「お帰りを、ヘパイストス様。あなたが何をするにしても私には殆どどうしようもないけれど、それでもこの島には立ち入らせないわ」
「それは十分に知っているよ」

 ざざっと波がヘパイストスの足元で砕ける。ハルモニアは痛みが強過ぎて飽和し、感覚が鈍化した心の隅で、だから彼は波打際を歩いていたのだと妙に納得した。
 ヘパイストスが足を半歩下げる。
 まばゆい煌めき。焔が舞い海が煮え立つ。その刹那。霞む視界にハルモニアは再びヘパイストスと目が合った。

 またね

 炎の中でさえ青白い横顔。唇はそう動いた。
 ヘパイストスは踵を返すと炎に変じた身は忽ちに失せた。残ったのはより濃度を増した夜闇と強い潮の香りだった。
 ハルモニアは重い呼吸を繰り返す。ずっと抱きしめてくれている母が温かい。温かくて肺の奥まで染み入る。だけど、それを自分が貰っていい訳が、ない。エレクトラが自分の名前を呼んでいるような気がした。波音が聞こえる。何処か遠く。
 ハルモニアの意識は波に攫われる砂の城のように形を失った。



「ハルモニア」

 優しい声。物心付く前からハルモニアの名を呼んでくれている母の、エレクトラの声だ。夢現に苛まれていたハルモニアはその声にようやく目を開く。その瞼の動きでまた涙がひとしずく、零れた。
 寝台に腰掛けてハルモニアを覗き込む母の憂いた顔が滲んで見えた。二人の兄も近くにいて静かに見守っている。
 エレクトラはハルモニアの頭を撫でる。ハルモニアは心地良さに目を細めた。

「ハルモニア、ミルクよ。飲める?」
「………うん」

 断ろうと思ったが、ハルモニアは結局頷いた。母の厚意を無下にするわけにはいけない。半ば条件反射のようなものだった。
 エレクトラがハルモニアの背を支えて起き上がらせた。後ろにダルダノスがクッションをいくつも積み上げて、ハルモニアは兄に申し訳なく思いながらも背を預けてエレクトラからカップを受け取る。
 湯気の立つカップはじわじわとハルモニアの指先を温める。ふう、と息を吹き掛けてカップの縁に唇を付け傾ける。少し熱いかもしれないと思ったがそうでもなく程よく馴染む温度で口に甘い。こくりと嚥下した。温めたミルクに蜂蜜が入っているのだろうとハルモニアはぼんやり思う。
 その温かさと甘さがあまりに優しくて、ハルモニアには辛い。
 それでも身体はその温もりと甘味で癒された。ハルモニアは改めて自分を取り囲む母と兄達の顔を見た。皆、ハルモニアに一晩中添っていていたのか少し疲れたような顔で、特にエレクトラの顔色は悪い。ハルモニアの胸に鈍い痛みが蟠る。

「…母様、兄様」
「なぁに?」
「………ごめんなさい、私……ごめんなさい」

 ハルモニアは逡巡して、明確な言葉にはならないままに言った。ハルモニアのことを心配してくれて傍にいた為に三人とも疲れきっているのだ。だけど詫びるならもっと以前に詫びるべきだったのだ。今回だけでなく母にも兄にもたくさん迷惑をかけ続けたに違いない。
 何故。どうして、ハルモニアを養ってくれているのだろう。未だぼんやりした意識で思う。
 そ、とハルモニアの頭を撫でる手。ダルダノスだ。

「だから、そんな顔をするな。な?」
「だって兄様も母様も私なんかを心配して、」
「俺達がお前のことを心配するのは当たり前だろう。他に出来る事もなかったんだから心配くらいさせろよ。言ったろう、お前が幸せだと俺達も嬉しい。逆にお前が辛いなら俺達も同じように悲しく思う」
「けど私なんか、そんな……兄様や母様に優しくして貰う資格なんて…」
「ハルモニア」

 穏やかに呼び掛けたのはイアシオン。イアシオンの存外細い指先がハルモニアの頬に触れる。

「自分のことを“なんか”なんて言うなよ。母さんも兄さんも俺もハルモニアが大事だよ。ハルモニアが自分のことをそんなふうに言うと悲しい」
「だって、私、……きっと生まれてこない方が良かった」「ハルモニア…」

 ハルモニアの持ったカップが微かに震え、中身が揺れる。ハルモニアは涙に飲まれそうな声で言葉を紡ぐ。

「だってそうでしょう? 私は、アプロディテ女神とアレス神の娘で、正式な結婚に背いて出来た子供で、それがあの方を、ヘパイストス神をどんなに傷付けてきたのかしら……なのに昨日まで自分のこと知りもしないで母様や兄様達に優しくされて幸せで、その間あの方はどんな思いだったのかしら。私、母親も父親も好きになれそうにない。どうしてヘパイストス神を傷付けると知っていて不倫なんてしたの? 他人[ひと]の痛みなんて気にならないの? そんな親から私、生まれたんだわ。他人を不幸にしかできないなら、きっと生まれてこない方がよか」
「ハルモニア!」

 エレクトラの鋭い声にハルモニアはぎゅっと目を閉じた。
 打たれると思ったのだ。ハルモニアは酷いことを言ったと自覚している。そんな出自のハルモニアを優しく慈しみ育てたのはエレクトラだ。昨日から今日にかけてずっと心配をしてくれている。否、もしかするとヘパイストスと初めて出会った時のエレクトラを思い出すに、エレクトラはずっとハルモニアとヘパイストスが接触するのを恐れていたのではないだろうか。ハルモニアが気に病むと見越して。それほどにエレクトラが自分のことを実の子供のように気にかけてくれていることをハルモニアは十分に理解していた。同時にそれはとても申し訳なくて、心苦しくさえあった。
 だから生まれてこない方がよかったなんて言葉はハルモニアを育ててくれたエレクトラを蔑ろにする言葉だ。ハルモニアはそうと知っていても言ってしまった。それは彼女自身の信条を裏切ることでもあったのだが、言ってしまった。だから、打たれても仕方ない。そう思った。
 しかしハルモニアの予想とは異なりエレクトラはハルモニアを抱きしめた。

「…ハルモニア…、あなたが悪いわけじゃない」
「だけど、母様」
「あなたは悪くない。あなたがあのひとに罪悪感を覚える必要なんてないのよ」

 強く抱きしめていた腕を緩めてエレクトラはハルモニアの頭を撫でる。ハルモニアは堪らず顔を母に押し当てる。薄くハルモニアの眼を覆っていた涙がエレクトラの衣にじわりと染んだ。

「あなたは幼くてまだ解らないかもしれないけれど、アプロディテ様とアレス様が悪いのでもないわ。正式な婚姻が必ずしもふたりの愛が成就した形でははないの。アプロディテ様は真実、夫であるあのひとを愛してはいなかったかもしれない。アレス様をこそ愛していた。だから、あなたが生まれた。あなたこそが祝福されるべき子なのよ」

 エレクトラの言葉は今のハルモニアには限りなく甘い。彼女が与えた蜂蜜入りのミルクのように。しかし何処か、歪[ひず]んでいる。ハルモニアはそれに気付いてエレクトラの言葉に心を委ねる事が出来ない。
 エレクトラはハルモニアの戸惑いに気付かないまま続ける。

「アプロディテ様は、あなたのお母様は真実あなたを愛しているのよ。愛欲を司るご自身ではあなたを育てるのが心配だと、私にあなたを預けた。あなたは少し冷たく感じてしまうかもしれないけど、あの方は決してあなたを棄てたのではないわ。そういう形であなたを大切にお思いなのよ。それにアレス様も気性の荒い方だけど、身内にはいっそう愛情深くていらっしゃるそうよ」

 養母は何者なのか、ハルモニアは不思議に思う。そもそももっと早くに疑問に思うべきだったのだが、気落ちして払うべき関心が狭窄していた彼女には無理からぬ話ではあった。今、一頻り泣いて慰められて、張り詰めた糸が緩んだ刹那にそんな当然の疑問がようやく浮かんだのだ。
 神であるヘパイストスにも毅然とした言葉を投げ付け、神の娘であるハルモニアをそうと知って育ててきたエレクトラ。彼女は一体、

「ハルモニア」

 ハルモニアの思考が次に進みかけたところでエレクトラが髪を撫でるので、それは中断された。

「もう少しミルクを飲んでゆっくりお休みなさい。あなたは今いろいろあって疲れているわ」
「母様…」

 何か言わねばならない気がした。しかしハルモニアはやはり言葉に出来ず、エレクトラに従って抱え込んでいたカップに口を付ける。温くなったそれは逆に蜂蜜の甘さが際立っていた。ゆるゆると咽喉を伝う。
 不図、瞼が重くなって肺に眠気が満ちる。謝辞とともにカップを渡すと優しく布団を掛けられた。

「大丈夫よ、ハルモニア…」

 遠く、エレクトラの声がした。
 ああ、私は幸せだ。優しい母と兄達がいつも側にいてくれて、大切に育んでくれている。だけど………あのひとは、今、独りなのかしら。
 ハルモニアは思った。




<2010/11/21>加筆修正
<2010/08/21ー08/30,09/15,10/09>
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