母さんとヘラ様は仲がよろしくない。

「あら、ご機嫌麗しく、ヘラ様」
「ええ、レト。貴女に会うまではとてもよかったわ」

 とまぁこれが出会い頭の挨拶だ。
 オリンポスは相変わらずの晴れ。雲海の上に位置するのだから当たり前だが、ここだけ暗雲が立ち込めそうな雰囲気だ。もちろん実際は頭上には雲ひとつない。
 道の往来で、母さんとヘラ様がばったりと出くわした。母さんは俺を、ヘラ様はヘパイストスとエイレイテュイア、その三歩後ろにはイリスを伴っている。

「アポロン。今日は」
「お久しぶりですアポロン」
「ヘパイストスもエイレイテュイアも元気か? イリス、無理してないか? ヘルメスがいつも心配してるぞ」
「わざわざ有難うございます、アポロン」

 さりげなく親友の株を上げる俺っていいやつ。なんて和やかに話している一方、母さんたちは

「そう言えば、ヘラ様、あなたには感謝をお伝えしなくては」
「何の事かしら」
「先日、昇天したヘラクレスにも言えることですけれど、あなたが苦難を与えれば与えるほどその者の栄光は増す、ということについてですわ」

 ヘラ様があれほど憎んでやまなかったディオニュソスは今や多くの信者に傅かれ、父さんに気に入られたばかりでなく母や妻まで神の座を許され、ヘラ様があれほど苦しめたヘラクレスはそれを乗り越え数々の伝説を築き、ギガンテスを討つ要として勝利を導きついには英雄神にまでなった。
 母上の言うことは解る。もちろん先に述べたふたりはかなり特別成功した例だし、失敗して栄光や命を失う者だって少なくない。

「あなたがあれほどわたくしを、わたくしの子供たちが産まれるのを阻んだことでわたくしの子供たちをより美しく輝かしい存在にしたのではないかと思いましたもので」
「随分回りくどいのねレト」
「あら、言葉は十分に尽くさなくてはいけませんわ。呪いこそ祝いならご自身のお子に注ぐより多くわたくしに注いでくださったのだもの、御礼を申し上げるのが当然でしょう」

 どちらかと言えば可愛らしい容姿のヘラ様が眉を寄せるのはそれさえ愛らしい。だが、こちらまで空気が重くなる。何せ話の当事者が他ならない俺たちだ。
 特に二重の意味で当事者のエイレイテュイアの顔は暗い。ちらりと覗き見た彼女のヘラ様に似てヘラ様より少しだけ大人びた顔には翳りが落ちている。
 エイレイテュイア。ヘラ様の権能を分け与えられた形で出産と産婦の保護を司るヘラ様の娘。
 彼女が立ち会わない限り産婦は出産を許されない。ヘラ様は母さんが臨月を迎えた当時、全ての土地に母さんが出産する場所を与えてはならないと命令しイリスに見張らせ、エイレイテュイアには母上の臨月を伝えず引き留め母上の臨月を長引かせた。最終的にはイリスが主に背いた形でエイレイテュイアを母さんの所へ連れてきてまずは姉さんが産まれたのだという。俺が生まれる前のことだから全部後になって聞いた話だ。
 気まずい。ヘラ様が母さんを呪ったのも、俺と姉さんが輝ける双子と誉め称えられるのもその実力があるのも事実だ。それは母さんと父さんとそして自分達のお蔭だと俺は思うし、母さんだってそう思っているだろうと思うんだけど、常は静かな湖畔のように穏やかな微笑を絶やさない母さんだけどヘラ様にだけは別だ。今だって笑っているけれど凍りついた水面[みなも]を思わせるそれ。
 あまり母さんとヘラ様を一緒にするとよくない。

「母さ」
「お言葉ですが、レト」

 俺を遮るように先に声を掛けたのはヘパイストスだった。

「アポロンもアルテミスも多くの才に長けているのは間違いない」
「あなたにはそのひとつ、遠矢射る神としてふさわしい弓矢を用意して貰っているとふたりとも言っているわ! ね、アポロン。いつもふたりのために有難う」

 ああ美しい母さん! やっぱり母さんの笑顔っていいなぁ。
 母さんがヘパイストスに向ける笑顔は無垢で温かく慈愛に満ち満ちている。この際、それを向ける相手が主にヘパイストスで俺じゃなくても嫉妬したりはしないぞ。

「いえ。それより、」

 短く答えたヘパイストスの表情は崩れない。もうちょっと喜んでもいいぞ。満面の笑みを浮かべた母さんだぞ!

「レト、我が母上がアポロンとアルテミスをより厭うたというのは違う」
「…何が違うのかしら」

 あ、また嫌な空気。空気がきりきりと緊迫感をはらむ。

「私の方がより厭われていました」
「は、」

 何を言うかと思えば。
 ヘパイストスと母さんの間にあった緊張感は霧散したが、今度はヘラ様がよくない。ヘラ様は顔色を失っている。
 しかし何だろうこのヘパイストスの顔は。昔、キュパリッソスが鹿を自慢していた時とか、ヒュアキントスが円盤を上手く投げれた時とかの顔と似ている。いやいやいや! あの子たちの方が断然可愛いんだけど! ヘパイストスには可愛さの欠片もないけれど! とにかく、照れながらも誇らしげな表情が酷似していた。そしてそれは彼が口にした言葉からとても乖離した表情だ。
 よく解らない。

「厭う云々ならディオニュソスやヘラクレスがもっとじゃないか?」

 あ、しまった。俺もつられて変なことを言ってしまった。こんなフォローない。ヘラ様も睨んでるし。うん、怖くないなぁ。こんな可愛らしいのだけど事実ヘラ様の怒りで身を滅ぼした者も多い。エイレイテュイアの目も心なしか冷たい。やっぱりヘラ様にとってこのふたりは禁句なのか。イリスに助けを求めようにもすっと視線を外された。
 仕方がないのでヘパイストスに視線を戻すと眉間に皺を寄せていた。珍しい。ヘパイストスは楽しそうに笑うことも少ないがこうして不快そうな顔をするのも珍しい。

「……てない」
「ん?」
「負けてない。ふたりに負けてなんかもしかするとディオニュソスにはいやでもうんアルケイデスにはアルケイデスには負けない!負けないから! ね、母様…?」

 何処とも知れぬ敵に吼えてヘラ様に問うヘパイストス。いや、それ、ヘラ様に訊くか普通。それじゃまるで、…いやいいか。ヘラ様とっても困ってるし、エイレイテュイアもどうしたものかとおろおろしているけれど、俺も母さんも完全に部外者になってしまった。ある意味ではヘラ様と母さんのぶつかり合いは回避できた訳だ。母さんと俺は顔を見合わせた。

「行こうか、母さん。姉さんも待ってるし」
「そうね」
「じゃ、そういうことで。あ、エイレイテュイア、姉さんが今度一緒に狩りでも行かないかって言ってた」
「有難う存じます。また折りを見てアルテミスを伺います」
「うん」

 とは言ったものの、今までエイレイテュイアが狩りに参加したとは聞いていない。いつもだいたい手土産を持って申し訳ないと断りを入れてきてそのままお茶することが多いようだ。それなら最初からお茶に誘う方がいいんじゃないかって姉さんに言ってみよう。
 今日は姉さんと母さんと一緒の時間を過ごす。そう思うと疑問も不穏さも雲のように流れ去り、直上に広がる空のように心はすっかり明るく晴れ渡った。



おかあさんにはいつもわらっててほしいよね


<2012/02/14>



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