▼ 焦がれた冬
正直、もう限界だった。
あの女が船に乗ってから、何度目かの冬。
最初に惚れたのは俺だ。
その美しさに、強さに、射抜くような眼差しに、魔法にかけられたように魅力された。
いい年こいて、馬鹿みてェだと言われても仕方がない。
おれはこの女に恋をしてしまった。
まだ乗船したての頃、
船医、隊長、あらゆる立場を使い彼女に近付いた。彼女もおれに微笑み、触れ、口付ける。
初めてベッドに誘われた時は、10代のガキみてェに舞い上がり、盛って彼女にも苦笑されたのは苦い思い出だ。
手に吸い付くような白い肌、食べ頃の果実のように実った乳房、男を誘惑するために育ったようなその身体に、その色香に、一瞬で虜になった。
声も、匂いも、体温も心地いい。
初めて腕に抱いた瞬間、俺が探していた女はこの女、ナマエだと確信した。
全てを捧げて守り、愛していきたい。
本当にそう思っていた。
なのに、
「お前...一体何をしてるんだよい」
「.....マルコ、戻ったのね」
数日掛かりの偵察から戻って彼女の部屋に直行すれば、ナマエとエースが裸でシーツに包まっていた。
持っていた土産の酒瓶を危うく床に落としそうになる。
エースは大いびきをかいて大の字で寝ている。
何を、なんて聞かなくてもわかっていた。
少し驚いた顔をしたナマエだが、その後すぐに気だるそうに上半身を起こし、先程までエースにいいようにされていたであろう、溢れそうな乳房が惜しげもなく晒された。
「....無事戻れてなによりよ。
それで...なにか急ぎの用でもあった?」
「...土産を渡そうと、」
彼女の好きな有名な銘柄の葡萄酒。
キツキツのスケジュールの中、行列に並び手に入れたものだ。
喜ぶ彼女の顔、2人でこれを飲み、愛し合うことを想像したら全く苦ではなかった。
女はマルコの手元にある酒瓶に目をやり、にっこりと微笑んだ。
その美しい笑顔はマルコが見たいと思っていた笑顔そのもので。
ベッドから降り、一糸纏わぬ姿でゆっくりとこちらへ近づいて来る。
酒瓶を受け取ろうと伸ばしてきた細い腕を、力強く掴んでいた。
「...何故だよい」
「マルコ...?」
「何故エースと寝た...?」
「何故って....誘われたから」
悪びれもなくそういう女に頭がついていかない。
数日前まで俺の腕の中で善がっていた彼女のぬくもりがまるで嘘のように霞んでいく。
誘われたからって、寝るか?
だってお前は、
お前は俺の、
「私達だってそうでしょう?」
「、」
きょとんとした表情。そこでやっと気づく。
ああ、なんだ。
この女の中でおれは恋人でもなんでもねェ
ただ寝る男のうちの1人に過ぎなかったのか。
確かに、付き合おうとも、恋人になろうとも口には出していない。
もうこの年になってそんなことわざわざ言わなくてもわかるだろ、小っ恥ずかしい。と思っていた。
そんなこと言わなくても、俺の気持ちは伝わっていると。
「そうかよい....」
情けねェほど小さく呟いた俺の頬に、ナマエはそっと触れる。
じんわりと広がるその体温は、やはり心地いい。
「泣きそうな顔をしてるわよ」
「..馬鹿言うんじゃねェよい。
ホラ、エースとでも飲め」
押し付けるように酒瓶を渡す。
とにかく今すぐこの場を去りたかった。
見ていられなかった。いつもなら舐め回すように見るナマエの身体も、人の気も知らずベッドで爆睡する弟も、乱れたシーツも、全部。
少しズレた眼鏡を直し、扉に手を掛けた。
「マルコ」
ナマエのか細い手がそれを阻止する。
俺の無骨な手に重なるそれは、今しがたエースを抱いていた手だ。
グイッと引かれたと思えば、ふんわりと香るナマエの匂い。
さらりとした髪が頬を撫でたと思えば、耳元で感じるナマエの吐息。
「今夜私の部屋で飲みましょう、」
「 、」
待ってるわ、と一言。
頬にリップ音をたてて小さな口付けが落とされる。
ふざけるな、
言う前に扉は閉じられる。
締まる一瞬の隙間に見えた彼女の顔はいつも通りの笑顔で。
俺は何も言えないまま閉まった扉の前でしばらく立ち尽くしていた。
夜まで何にも手がつかなかった。
書類と向き合っても、医学書を読んでみても、
頭に浮かぶのはナマエのことばかり。
胸が痛くて、苦しくてどうにかなりそうだった。
「よおマルコ!偵察どうだった?」
夕飯の後、キッチンの奴に作らせた一杯を飲んでいるとかけられた声に思わず息が止まる。
「エース...
ああ、何事もなかったよい」
「なによりだな!
さーコックに夜のオヤツを作らせるかー」
俺が知ってるとは夢にも思っていないエースは
ナマエのことなどお首にも出さずにおれの肩をポン、と叩いた。
それに何かを言う気力もなくて、
今はただ1人になりたかった。
脾臓の酒を何本か取り、甲板に出る。
意図があまりいないマストの下で胡坐をかき、少し曇っている空を見上げる。
もうじき雪が降るかもしれない。
肌寒い風は暑くなった身体をゆっくりと冷やしていく。
『ねえ、マルコ隊長?よかったら色々教えてくださらない?』
『強くて、かっこよくて、人望もあるのね。それにお医者様!』
『あなたと過ごす時間が1番好き、』
『ねえマルコ、だぁいすきよ』
ああ、俺は本当に馬鹿野郎だよい。
俺の物になれといえば良かったのか。
気づかないふりをしていれば良かったのか。
そうすりゃお前は俺だけのものになったかよい。
気づかないふりをしてりゃ今まで通り上手くやっていけたのかよい。
胸が張り裂けそうだ、
風が妙につめたい。
現実逃避するように流し込んだ酒は、俺を慰めるかのように身体をじんわりと温める。
ぽつり、雪が頬に溶ける。
瞬く間に降ってきたそれは白い銀世界を作ろうとしんしんと無数に舞い降りる。
船内からは雪だ、と嬉しそうな声も聞こえて来る。次の島はクリスマスアイランドだと言っていたな。身体に雪を積もらせながらぼうっと暗い海を見ていた。
「マルコ....」
「!ナマエ、どうしたよい」
「あなたこそどうしたのよ、こんな雪の中薄着で」
いつのまにか横に来たナマエは、おれの肩にかわらかい生地のショールを掛けた。
先程まで着ていたのだろうか、ほんのり暖かくて、ナマエの匂いがする。
「おまえが冷えちまうよい」
「待っていたのよ」
あの、強い目で射抜かれた。
暗闇をそのまま映したような長い黒髪に、
星空を凝縮したような眩い瞳、
長いまつ毛には小さな雪が無数に積もっている。
この視線に俺はどこまでも弱い。
「ナマエ、悪ィが、俺は」
「私が、嫌?」
「そうじゃねェ...お前は最高の女だよい」
「、」
「一緒にいたかったよい」
「なら、なんで、」
「難しいんだが、だからこそ耐えられねェんだ」
「....」
「もう寒いから、早く中入れよい」
真っ白な首元にショールを巻き付ける。
ほんの少し潤んだ瞳と視線がぶつかる。
船の方に背中を押してやれば、何度かこっちを振り向きながらゆっくりと光の中に戻っていった。
「フーー...ダッセェな、俺」
結局中途半端なこと言って、中途半端に困らせた。
でも 一瞬、ほんの一瞬だったけど、
心の拠り所ができていたんだ。
愛する女ができたんだ。
もう45になるオヤジが見た夢にしちゃ、
きっと上出来だったよい。
「....ナマエ、愛してたよい」
焦がれた冬 掠れた声は雪に紛れて、きっと誰にも聞こえない.
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