17

 
きっと初めてだったのだ。かならず返事してくれる人間というものが。なまえで埋まった思考に沈む。

3歳の記憶なんて普通にない。ぎりぎり断片的な情景が、ひとつかふたつあるくらい。だから私に親との思い出なんてないようなもので、いくらこんなにひどい親だったと言われても私はなにも思わない。

でも情景をいつまでも忘れない辺り、私は幼ながら父親のことが苦手だったのだろう。
証拠にひとつだけくっきり覚えているのは父親のことだった。私を椅子から落とす男で、打ち付けられた床の硬さは記憶にはない。不機嫌そうな眉間のしわが胸くそ悪いことに私とよく似ているから多分父親。

もうこの世にはいないから確認はできないししようと思ったことはなかった。これが父親じゃないのなら、私はお日さま園に来ることはなかったんだから。

そして、父親のよりも大分薄ぼんやりとしたいくつかの朧気な景色。転がる私を拾い上げる、髪の長い母さんを記憶から引っ張りだす。顔は思い出せない。父親かもあやふやな男のは覚えているのに。
でも彼女は母さんだった。私はきっと母さんが大好きだったのだ。園に来てから会ってはいないし手紙もないが、もう恋しいとは思わない。正直死ぬまで会わなくてもいいと思っている。なまえがいた。いつもなまえは私の目の届くところにいてくれた。


「今まではな」


耳に届いた声にはっと立ち止まる。近くには誰もいなくて、紛れもなく自分自身が発したひどく情けない声だった。家を出てきて正解だ、誰かに聞かれなくてよかった。ひとり歯噛みする。

そうだ、今まではの話だ。なまえはヒロトと。だって今日一緒にいた。仲良く歩いて。買い物をして。私にくれていた笑顔より幸せそうな表情をヒロトに向けた。最近なまえはなんだか変だった。私から離れてしまう。もう私を見てくれない。目の届く場所から、手の届く場所から去って。

私以外のなまえになって。


「涼野?」


ランニングだけのせいではない息の乱れが弾かれるように止まった。アルトなこの声はあいつだ。あんま好きくないやつだ。振り返れば案の定、なまえと仲のいい長髪が立っていた。


「よう。初めて走ってる時に会ったな、俺いつもこの時間にここ走るんだけど」

「……風丸一郎太」

「フルネームで呼ぶなよ」


肩に掛けたタオルと髪を揺らして、風丸は私の隣に止まった。こっちがしかめ面を作れば困ったように笑う。初めて気付いたがやけに穏やかな顔をするやつだ。対応に迷って黙り込む私をじいと見つめている。

雷門中の、イナズマジャパンの男。私たちと同じようにエイリア石に縋ったこともある。むかつくことになまえが大ファンだと言っていた。やっぱり恋慕とただの憧れの差がわからない私からしたら風丸は脅威だ。…私はこいつのなにを恐がっているのだろう、それもいまいち分からない。そもそも私は今何を思い悩んでもやもや弱っているんだったか。上の空で首を捻る私の顔を風丸が覗き込む。


「…元気ない、な?」


なんで疑問系なんだ。聞く前に「お前無表情だからよく分かんないけど」と苦笑混じりで追加される言葉。ほてっていた体がすこしずつ冷えていく。
元気なんて、ないに決まっていた。なまえ。きみはどこへ行ってしまうの。口の中でもごもごさせた名前を風丸は聞き逃さなかったらしい。重苦しい私と対照的にはははと笑った。


「やっぱり」

「何がだ」

「みょうじの事かなって思ったんだ。お前ら分かりやすいもんな」

「…あいつらと一括りにするな」

「でも悩みの種は間違ってないだろ?」


間違っては、いない。緩慢な動作で頷けば呆れたようなため息が聞こえる。昔から分かりにくいと言われたことはあったが、今の私は大して話したこともない男にすぐ悟られてしまうほど単純なのだろうか。いわゆる顔に出ているというやつを初体験しているのかもしれない。無表情って言われたばかりなのに。

日は大分落ちていた。帰らなければ。食事当番はなまえか晴矢が替わってくれたことだろう。あの二人はやさしいから。やさしいから、甘えてしまう。私は弱い人間なのだと再認識させられる。その認識はあまり心地いいものではなかった。
なまえに優しくされるのは好きだ。叱られるのも慰められるのも。でもそれを今まで意識したことはなかった。改めてそんなことをがらにもなく考えたのは、ヒロトのせいだ。


「…風丸」

「ん?」


みょうじの事が好きか。
気付けば口に出ていた。こいつに聞いたって何の意味も持たないのに。何と言われたところで私が今悩んでいる理由は分からないのに。言ったこっちが驚いて緋色の瞳を見てしまう。見張られたそれはしばらくしてゆるりと閉じられて、また優しい笑顔を作った。


「好きだぜ。好きだけど、多分お前の言ってる好きとはちがうんだ」

「好きが、ちがう」

「ああ。というかあんなに見せ付けられて好きなんて言える奴いないさ、お前の溺愛っぷり」

「できあい…」


そうさ。風丸は妙に楽しそうだった。眩しくて、なぜかまたなまえを思い出す。息を飲むほど美しい訳でもないのになぜか一番好きな笑顔だ。
風丸の言う事をいちいち復唱しながら考える。溺愛。…猫可愛がり。すでに好きとかそういう次元はとうに越した言葉だった。もう更に分からなくなったんだけど。

なまえに会いづらい、するりと口から流れ出た言葉に風丸が腹を抱える。こいつはヒロトとなまえのことを知らないから笑っていられるんだ。相談相手としては最適だったけれど、私の自尊心はそれを今一つ許さなかった。


「じゃ、元気出せよ」


青い髪がなびいていく。怪しい雲行きの中にまた一人になった。黒く白く渦巻く。考えすぎたのか頭がいたい。
ヒロトの隣で微笑むなまえはなんだかいやだった。私の隣で、近くで、なにかあったら一番に私のところに来てくれるなまえが大切で取られるのなんて絶対嫌で、私は、


「なまえ」


会いたい。会いたくない。
まとまらない思考は、濡れても砂のようには固まらなかった。すべてが今更すぎて思うように進まない。
わかったのは、誰かのなまえを見るのは絶対いやだということだけ。「溺愛」してる、ということだけ。


「風介おかえり、大丈夫?」


やっぱり一番に駆け寄ってきてくれたなまえの顔をうまく見れなくてまた歯噛みした。
なまえ、私は、きみのことが大切すぎて、よくわからなくて。
変化が、こわい。



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