【if Daisy dies……,】



時は昭和、ここに一組の夫婦がありました。夫の名前をシリウス、妻の名前をナマエと言いました。2人は大学時代に知り合って、何年かの交際を経て結婚しました。同じ大学ではありましたが学部が違いましたから、卒業後シリウスは癒者として、ナマエは企業の事務として働いていました。妻のナマエは結婚と同時に仕事を辞めてしまったので、今は専業主婦です。2人の間に子供はいません。望まなかったわけではありませんでした。でも、何故か授からなかったのです。ナマエは何度も何度も病院へ足を運びましたが、原因は分かりませんでした。シリウスはそこまでする妻の気持ちが分からず、何年か後、妻にやめるよう忠告しました。妻はそれを聞き入れ、今では平穏に暮らしています。



「やぁ、シリウス。」

シリウスが病院の自分の事務室で仕事をしていたら、ジェームズがノックもせずに入ってきました。シリウスは壁にかかっている薬品会社の社員が持ってきたカレンダーをちらりと見つつ、頭の中でジェームズだな、と思いました。

「ジェームズ。」

書類に走らせていた羽ペンを止め、椅子の回転を利用してクルリと振り返りました。そこにはいつもと変わらぬクシャクシャの髪をしたジェームズが立っていました。心なしか、顔が緩んでいるようです。これは、何か嬉しいことがあったときのジェームズの顔でした。シリウスも同じように少しだけ笑いながら、ジェームズを招きいれようとします。でもジェームズは「いや、いいよ。」と言いました。ジェームズとシリウスとは同じ学部の卒業で、今は縁あって同じ職場で働いています。

「これから付き合ってよ。それとも、今日も例の愛人のとこ?」

シリウスには、妻の他に10歳も年下の恋人がいました。出張先の病院で知り合った、ナマエとは全く違うタイプの女性で、シリウスは今、その女性に夢中でした。それはジェームズも知るところだったのですが、別に咎めたりはしません。それはシリウスの自由であり勝手だということを、きちんと理解していたのです。

「どうなの?」

ぼんやりとしていたシリウスの返事を促すように、ジェームズは一度、そう言いました。シリウスは頭の中に描いたスケジュール帳をバッと確認して、しっかりと頷きました。今日は珍しく何の予定も入っていませんでしたから、断る理由もありません。

「付き合うよ。」



シリウスとジェームズは連れ立っていつもの料理屋へ行きました。店主とは顔馴染みだったので、ちょっとしたお座敷へ通されました。お刺身などを適当に注文すると、ジェームズは胡坐を組みなおしてニッコリ笑いました。

「ま、一杯いこう。」

「おう。」

2人はお互いのグラスにビールを注いで、乾杯しました。ジェームズは大げさに「うまいっ!」と言って、少しだけシリウスを驚かせます。お座敷にはもちろん2人しかおらず、ちょっとやそっとじゃ他の部屋の声なんて聞こえてきませんでしたから、余計に大きく響いたのです。

「そういやジェームズ、お前の論文、また学会に通ったんだって?」

シリウスは、ジェームズがご機嫌の理由に当たりを付けて話を振ります。ジェームズは少しだけ自慢げに笑いました。彼は謙遜をあまり好まない人間だったので、この表現はむしろ控えめだとさえシリウスは思いました。かく言うシリウスも、ジェームズと同種の人間でしたから、何も気になりません。

「そうなんだ。」

「やるな。」

「シリウス程じゃないさ。」

そうなのです。妻に若い恋人までいるのに、シリウスは仕事に一切の妥協を許しませんでした。その業績は、まだ若いにも関わらず有名になっていましたし、お給料だって人よりずっと良かったのです。それもこれも、一生をかけて守ると誓った妻や気まぐれに愛する恋人の為、そして自分の為でありました。なのでシリウスは、結婚当初は望んでいた子供も、今では授からなくて良かった、とさえ思っていました。子供は、妻と違い1人では生きていけない生き物です。親が慈しみ、育ててやらなければなりません。それは、仕事が大切なシリウスにとって、少し面倒なことでしたから。ジェームズはシリウスにビールを注ぎ返した後、突き出しに箸をつけながらますます楽しそうに笑います。今日の突き出しは、鰻の骨の唐揚げでした。サクサクポリポリした食感がとても素晴らしいのですが、少し量が多すぎたようです。シリウスは途中であきてしまいました。

「で?」

シリウスが唐突にそう言いました。顔には、悪戯っ子のような笑顔が浮かんでいます。ジェームズも同じように笑いました。2人の笑顔は、それでも少しシワっぽくなっていて、時の流れを感じさせます。いつまでも変わらないでいられるなんて、そんなことはありません。この世で変わらないのは、スーパーで立ち話をするオバサンの煩さか、玉子の値段くらいです。

「さすがシリウス。」

「君が俺を誘うなんて、何か報告があるとしか思えないだろ。」

シリウスが確信をつくと、ジェームズは目を爛々と輝かせました。シリウスが何だと首を傾げようとした瞬間、ジェームズはパッと叫びました。

「実はリリーに3人目が出来たんだ!」

ジェームズがあんまり嬉しそうに言うので、シリウスは思わず笑いそうになってしまいました。子供が出来るということは、何人目でも大層嬉しいらしいことが、シリウスには良く分からなかったからです。

「おめでとう!」

それでもシリウスは、ビールがまだ残っているジェームズのグラスに無理に注いで、もう一度乾杯を促しました。

「いやあ、ありがとう。」

ジェームズはそれを一気に飲み干すと、感極まってあーっ、と大きな声を出しました。

「つわりが前の2人と違って酷いから、もしかしたら今度は女の子かもしれない。」

ジェームズは、最初から「出来ればリリーに似た女の子がいいなぁ。」と言っていました。でも、最初の子も次の子もジェームズそっくりの男の子だったので、仲間の内ではよくからかわれるネタになっていました。

「本当かよ?お前ハリーが生まれた時だって下の子が生まれた時だってそう言ってたじゃないか。」

「いや、今度は本当に酷いんだ。おかげで洗い物から洗濯、子供たちの世話まで全部僕がやってるんだよ!もう大変で大変で。」

ジェームズは、ニコニコとちっとも大変そうな顔をしないで言いました。道理で、最近ジェームズを見かける機会が少ないはずです。シリウスは納得しました。

「リリーに、お大事にって伝えてくれ。今度は高齢出産になるからな。」

「あぁ、ありがとう。必ず伝えるよ。」

ジェームズは本当に嬉しそうです。こんな時、シリウスは少しだけ居た堪れない気持ちになります。さっきまで子供はいらない、とかなんとか考えていた自分が、酷く幼い考えをしているような気がするからです。良く、子供を持たないと本当の大人にはなれない、なんて言いますからね。シリウスは沸いてきた考えを振り切るように、明るくジェームズに話しかけました。

「お盛んなことだな、3人目なんて。」

シリウスはからかうつもりでそう言ったのですが、ジェームズは急に冷めた目でシリウスを見ました。シリウスはちょっとびっくりして、それから居心地が悪くなりました。それは、決して座布団が温まってきたからではありません。

「僕は奥さん一筋だからね。」

ジェームズの皮肉をこめた言葉に、シリウスのグラスを持つ手が思わず止まりました。シリウスは、妻に対する罪悪感なんて、とうに忘れたと思っていました。シリウスはたくさん稼いでナマエに何一つだって不自由はさせていないし、ナマエはナマエで勝手にやっているだろうと思います。何も、悪くなんてありません。そもそも、最初にセックスを拒んできたのはナマエの方でした。シリウスは男性だし、毎日とは言わなくても拒まれれば外で嗜むしかありません。恋人を作ったのは、その成り行きでした。毎回お店に通うのでは、色々と面倒ですからね。ともかく、原因はナマエにあるのです。

「ジェームズだって、この前寝てたじゃないか。」

シリウスがささやかな反論をすると、ジェームズはいつの間にかあらわれていた刺身を一切れ食べてから、言いました。「僕は、決めた人と何度も寝てるわけじゃない。でも君は違うだろ。」

「大差ないように思うけど。」

「僕のは浮気、君のは不倫。」

シリウスには、やっぱり、大差ないように思われました。シリウスの考えを見抜いたのか、ジェームズはまた少しだけ笑いました。


「シリウス、君、ナマエを最後に抱いたのはいつ?」


シリウスは、答えられませんでした。ナマエと最後にセックスしたのは、たぶん1年くらい前のことです。それは妙齢の夫婦にしては、あまりに少なすぎる回数でした。だけど、シリウスには恋人(彼は、愛人という響きが嫌いでした)がいるし、ナマエは女だから、取り立てて欲しくなることも無いと思いました。特に、問題はありません。黙っているシリウスを見もしないで、ジェームズは続けました。

「この前、ナマエに会ったよ。」

ジェームズの言葉に、シリウスは弾かれたように顔を上げました。驚きの事実でした。

「いつ?」

「2、3日前さ。」

「どこで?」

「出張した病院先で。彼女、具合が優れないようだった。」

シリウスは、全く知りませんでした。全然、本当に何も知りませんでした。ナマエの具合が悪そうだった?2、3日前?そう言えば、ナマエの姿を最後に見たのはいつのことだったでしょう。シリウスは自問します。答えは、やっぱり分かりませんでした。

「つかぬ事を聞くけど、君たちって上手くいってるのかい?」

ジェームズにしては珍しく、深く追求してきました。ジェームズは、シリウスがあらかじめ敷いた線を踏み越えるような真似は絶対にしない人です。そんなジェームズが。

「まぁ、ジェームズのとこほどでは…、ないだろうな。」

シリウスが適当にお茶を濁そうとしても、ジェームズの気は治まらなかったようです。居住まいを正して、真っ直ぐにシリウスを見据えてきます。

「シリウスもだけど、ナマエだって大切な友人だ。」

シリウスとジェームズ、ナマエとリリーは全員同じ大学の出身でした。とあるサークルで知り合って、すぐに意気投合。それ以来の付き合いです。

「だから何だよ。リリーから探りを入れろって頼まれたのか。」

シリウスがちょっと語彙を荒げて言うと、ジェームズはキッパリと首を横に振りました。

「ナマエは、リリーにも何も話さないらしい。何を聞いても『別に大丈夫よ。』としか言わないって。」

シリウスは絶句しました。何が大丈夫、でしょう。シリウスが頑張って働いて人並み以上の生活をさせてあげているのに、大丈夫は無いでしょう。

「余計なお世話だ。」

俺がわざと明るく笑ってそう言うと、ジェームズは予想に反して益々険しい顔をしました。

「何だよ。」

思わず低い声を出すと、ジェームズは迷ってからこう言いました。


「ナマエは、その、こう言っちゃなんだけど、あまり幸せそうには見えなかった。」


シリウスはもう一度絶句しました。幸せそうに見えないって、それは一体どういうことでしょう。ナマエは一体どんな顔をして外を歩いているんでしょう。シリウスは、今度こそ何も言えなくなりました。これは、帰って何としてもナマエと話をしなければならない、と思いました。シリウスは、顔に泥を塗られたような気持ちになっていました。自分は、ナマエを幸せにする為に必死で働いているというのに。

「悪かったよ、言いすぎた。これは君たち夫婦の問題だ。」

「あぁ、いや…。」

お酒が、妙に苦く感じられました。それは、自分を肯定するために思い出そうとした、ナマエの幸せそうな顔を思い出すことが出来なかったからかもしれません。



その日、シリウスは久しぶりに早く家に帰りました。いつもはナマエが既に寝ている時間に、自分の鍵で開けるのですが、今日はチャイムを鳴らしてみました。しかし、ナマエは出てきません。寝るには早すぎる時間です。もう一度鳴らしても人の気配が無かったので、シリウスは仕方なく鍵を取り出しました。ガチャガチャと大きな音を立ててドアを開けると、奥から水音がしました。シリウスは、「何だ、いるじゃないか。」と小さく文句を言って靴を脱ぎ捨てました。ネクタイを少し緩めながらリビングに向かうと、思ったとおり、ナマエは台所に立って杖も使わずに洗い物をしていました。その小さな背中を眺めたのは、いつぶりのことでしょう。このところ、朝はナマエが用意した朝食を1人で食べて顔も合わさずに出勤、仕事をして、残業も付き合いもなければ恋人のところへ寄ったり友人と飲んだりして、帰宅はいつも日付が変わった頃でした。休日も、大概は付き合いで出掛け、気が向けば恋人のところへ。ナマエと最後に過ごした時間さえ、思い出せません。

昔、ナマエはシリウスの帰りが何時になろうと起きて帰りを待っていました。最初は嬉しく思ったそれも、次第に、疲れて帰っているにも関わらず根掘り葉掘り話をしたがるナマエにうんざりしてきて、シリウスのほうからナマエに先に寝るように提案しました。寝室を別々にしたのも、この頃でした。はじめは、眠ったナマエを起こしては悪いと思って提案したのですが、これが思いのほか居心地が良いのです。シリウスは、たちまち家にいるときには部屋に篭って読書などを嗜むようになりました。それでも、帰ってくれば、ダイニングテーブルの上には、いつでも夕食が用意されていて。ナマエだって、シリウスがほとんど食べないことは知っているでしょうに。ナマエがどういうつもりで用意するのか、シリウスには分かりません。気まぐれで箸をつけるシリウスの為なのか、良い妻を演じている自分に酔っているのか。

とりとめも無くそんなことを考えながらカバンを置きに部屋へ戻りました。ベッドの上には毎日きちんとアイロンがかけられたシャツが置いてあります。前日に使いっぱなしの濡れたバスタオルだって、いつの間にか無くなっています。今まで何とも思っていなかったことが、今日は何だか気になりました。ジェームズの話を聞いたからかもしれません。シリウスは、先ほどの苛々がスーッと引いて、かわりに申し訳ない気持ちが満ちてくるのを感じました。風呂の仕度をして下へ降りると、ナマエがシリウスの為の夕食を片付けているところでした。


「おかえりなさい。」

本当に小さな声でした。いつものシリウスなら、聞き漏らしていたかもしれません。

「ぁ、あぁ、ただいま。」

どうして、自分の家で、自分の妻と会話するのにこんなに気まずくならなければならないのでしょうか。シリウスには、なんらやましいことは無いはずなのに。

「今日は早いのね。」

「ああ。」

ナマエはそれだけ言うと、シリウスの為に用意した料理を持ってすばやく台所へと消えました。掛けられている簾越しに動くナマエに何となく目が行きました。シリウスは、料理はてっきり冷蔵庫に入れられるものだと思ったのですが、ナマエは何の迷いもなくそれをゴミ箱へ放り込みました。シリウスへのあてつけなのか、それともいつもそうしているのか。シリウスは黙って風呂場へ向かいました。

お湯に浸かりながら考えを巡らせると、色々と浮かんでは消えていきます。ナマエは、普段何をしているのでしょう。掃除や洗濯や、買い物のほかに。


『え?』

『だからね、私、働きに出ても良いかしら。最近はそういう人、増えてるみたいだし。』

『どうして。俺の稼ぎじゃ足りないって言うのか。』

『もちろん違うわ!ただ、社会と関わっていたいだけ。家事だってちゃんとするから、お願い。』

『働かずに生活出来て、一体何の不満があるんだ。家にいればいいじゃないか。外に出たいなら、習い事でも始めれば良い。』

『…どうしても駄目?』

『二度と言うなよ、そんなこと。』



あの時、シリウスは頭に血がのぼってナマエの顔をまともに見れないほどでした。自分の稼ぎを、誇りを、踏みにじられたような気がしたのです。あれ以来、ナマエは働きたいとは口にしなくなりました。あれ1回きりでした。シリウスは、本当は恐かったのです。家に帰ればすぐに温かいお風呂に入れて清潔な寝床が用意されているこの現状にとても満足していましたから、壊れてしまうのが嫌でした。変化を恐れたのです。

…それはともかくとして、それではナマエは何をしているのでしょう?別に仕事をしていなくても、ナマエには2本の足があるのですから、自由に歩き回ります。先ほどのジェームズの話を思い出して、シリウスは不安にますます拍車がかかっていくのを感じました。ナマエは、シリウスの知っている場所や知らない場所へ行きます。そこで誰かと会うかもしれないし、もしかしたら…。そこまで考えて、シリウスは勢い良く湯船から立ち上がりました。脱衣所で身体を拭いていると、ふと、ある考えが浮かびました。普段のように部屋へ戻らずに、リビングへ行くことです。そこで、ナマエと会話をするのです。そしてナマエが了解すれば、久しぶりにセックスをしてみようと思いました。



ナマエは小さな音で鳴っているテレビの前に座って、回覧板にサインをしていました。一瞬だけシリウスの方を見て、またすぐにペンを動かします。何も言いません。

「おい。」

シリウスがそう言うと、ナマエはようやく顔を少しだけ上げました。伏せた目は、頑なにシリウスを見ようとはしませんでした。

「何か、飲むもの。」

「…ビール?」

「いや、そうだな、梅酒がいい。」

ナマエは、毎年梅雨になると母親に仕込まれたという梅酒を漬けています。とても美味しいので、シリウスはそれが好きでした。

「もう漬けてないわ。誰も飲まないから。」

ナマエはそう言うと、回覧板を閉じてそれを片手にゆっくりと立ち上がりました。声が、怪訝に思っている声でした。一体何の気まぐれだ、とでも言いたそうな。シリウスはソファに座って、適当にテレビの番組を回しました。どれも興味を引く内容ではなくて、結局ナマエが観ていたニュースに戻しました。そうこうしているうちに、ナマエはすぐにお盆に缶ビールとグラス、そしてアサリとほうれん草の和え物を載せて来ました。

「どうぞ。」

お盆ごとシリウスの前に置いて立ち去ろうとするナマエ。

「お前も飲むか。」

シリウスがそう声をかけると、ナマエはいよいよ不思議に思ったらしく、ぴたりと動きを止めました。

「私はいいわ。」

「そんなこと言わずに、座れよ。」

半ば強引に誘うと、ナマエは渋々と言った感じでシリウスの隣に腰をおろしました。距離が、まるで出逢った当初のように遠いものでした。ナマエにグラスを持たせて注いでやると、ナマエはグラスの半分くらいで「もういい。」と言いました。ナマエは、お酒が苦手なわけではありません。ビール一杯くらい、何とも無いはずです。でも断りました。さっさと飲み干して、立ち去りたいということを暗に示しているのでしょうか。シリウスは缶にそのまま口をつけて、大きく一口飲みました。ナマエも一口。しばらくそうしていると、テレビがくだらないお笑い芸人の姿で一杯になりました。時計を見ると、零時を回っています。シリウスはナマエの小さな手をじっと見詰めて、それから顔を上げて囁きました。

「今日、久しぶりに俺の部屋で寝ないか。」

ナマエはたっぷり1秒黙った後、空になったグラスをテーブルに置きました。

「悪いけど、体調が良くないの。」

早口に言ったそれには、なんの感情も籠められていません。堅い口調でした。ちっとも悪いなんて思っていない言葉でした。断られた、そう認識したシリウスが言い訳かと思った瞬間、ジェームズの話を思い出しました。

「今日、ジェームズに会った。」

ナマエがヒッと息を飲む音が聞こえました。何か、都合の悪いことでもあるのでしょうか。

「体調が良くないって、どうしたんだ。」

シリウスがそう尋ねると、ナマエはあからさまに動揺を隠すように自分の手をギュッと握り締めました。

「ただの風邪よ。」

「どうしてうちの病院に来ないんだ。」

批難がましいニュアンスを含んだその言葉に、ナマエは一瞬動きを止めて、その後ゆっくりと少しだけ口調を変えて「迷惑だと思ったから。」と答えました。迷惑?それは、どういう意味なんだ。シリウスがそう口にする前に、ナマエはグラスを持って立ち上がりました。その背中はハッキリと拒絶を表していて、シリウスは少し恐ろしくなりました。シリウスは、ナマエは自分に他に女性がいることを知っていると思っています。その女性が病院の関係者だと思っているのか、それとも他に何か理由があるのか。

何にせよ、ナマエはシリウスを言及するような真似はしません。何故なら、ナマエはとても賢い女性だからです。シリウスはその賢さが気に入っていましたが、こんな思いをするのなら、もう少し鈍くて馬鹿な女と結婚した方が良かったかな、とも思いました。

「おやすみ。」

ナマエはそれだけ言うと足早に台所に戻って流しにグラスを置くと部屋へ消えていきました。1人残されたシリウスは、ギャーギャーギャーギャー喧しいテレビを消すと、残ったビールを一気に飲み干しました。


『旨い!こんなに旨い梅酒は初めてだ。』

『そんなに褒めてもらえるとは思わなかった。お母さんから教わったのよ。』

『すごいなー。これからはいつでも飲めるのかと思うと、旨さもひとしおだな。』

『駄目よ、飲みすぎちゃ。』

『分かってるけどさ。』

『そんなに気に入ったんなら、これから毎年漬けてあげるわね。』

『本当に?ナマエと結婚して良かった!』

『あら、それなら梅酒と結婚すれば良かったじゃない。』

『冗談だよ。』

『ふふっ。』


シリウスは、余計なことを思い出した、と思いました。



それから何週間か経ちました。シリウスはあの日から普段より早く帰ったり、休日もあまり出掛けずにいるようになりました。ナマエはどう思ったでしょうか。会話は、ほとんどありません。ナマエは一日中台所か庭、それに自分の寝室にいて、シリウスと顔を合わせようとしません。今もナマエは庭で落ち葉やゴミくずの整理をしていました。今日は日曜日で、シリウスは何の用事もありませんでしたから、恋人のところへ行くこともせずにリビングで本を読んでいました。ナマエも、きっと何の用事も無いはずです。シリウスは、たまには一緒に出掛けてみよう、と思いつきました。ナマエを外へ連れ出して、ワンピースの一枚でも買ってやり、それから夕食を食べるのです。シリウスは思い立ってリビングから庭へと続くサッシを開けました。ナマエはシリウスに背を向けて、何やら土いじりをしていました。

「枯れないでね、ちゃんと育ってね。」

ナマエは植物に小さく話しかけながら、僅かな雑草を丁寧に取り除いていました。

「ナマエ。」

「なあに。」

返事は、すぐに返ってきました。それが嬉しかったシリウスは、上機嫌で続けます。

「これから出掛けないか。まだ時間が早いから、買い物でもした後でゆっくり夕食でも、」

何気ない調子で言ったのですが、ナマエは雑草をバケツに放り込んでから「ううん。」と否定の言葉を口にしました。しかし、何か思い直したようにバケツを抱えながらクルリとシリウスを振り返りました。こんな季節なのに、つばの広い帽子を深く被っていたため、表情は良く見えません。

「何か、話があるの?」

シリウスには、ナマエの考えていることがすぐに分かりました。ナマエは、シリウスが離婚話を持ち出すつもりだと思ったのです。外食と言えば飛び跳ねて喜んだナマエは、いったいどこへ行ってしまったのでしょう。

「いや…、そんなんじゃないけど。」

シリウスがそう言うと、ナマエは少し黙った後、そのまま何事もなかったように庭の裏へと消えていきました。自然と零れる溜息。ナマエはどうしてああも捻くれてしまったのでしょう。もっと素直に、喜んだり出来ないのでしょうか。これが恋人なら、昔のナマエのように飛び跳ねて喜んだでしょうに。シリウスはうんざりしました。


『どうして電話の1本も入れてくれなかったの!?』

『何度も言うけど、急患が入ったんだ。そんな暇あるわけないだろ。』

『だからって!今日は私の誕生日なのに!ずっと楽しみにしていたオペラだって、』

『そんなこと言うならお前1人で行けば良かっただろ!うんざりだ。くたくたになって仕事から帰ってきた夫に、労いの言葉もかけられないなんて。』


シリウスは、最近やけに昔のことを思い出します。何故だか分かりません。それが余計に忌々しくて、シリウスは荒々しく部屋のドアを閉めました。部屋に篭るとホッとします。ベッドに身体を投げ出したシリウスは、いつの間にか眠ってしまいました。しばらくして、恋人からの電話で目が覚めました。(念のため言っておきますが、この電話は病院から急患の知らせを受けたりするシリウス専用の電話だったので、ナマエは出ることができません。)恋人は可愛らしい声でこれから会えないか、と言いました。シリウスはとても嬉しくなりました。今日はフランス料理を御馳走してやろう、と思いながら了解の返事をして、余所行きの服に着替えて部屋を出ました。

下へ降りると、ナマエは台所にいました。こんな時間から、何やら忙しなく動いています。魔法薬でも作っているのかと思いきや、とても良い匂いがしていました。この匂いは、シリウスが大好きなビーフシチューの匂いです。結婚してはじめての誕生日、ナマエがシリウスに作ったものでした。ルーからつくるととても手間がかかるため、滅多に作りませんが、ナマエの得意料理の1つです。一瞬、シリウスの心が大きく揺れました。このまま出掛けて良いのだろうか、と。このシチューは、明らかにシリウスの為のものです。それを一生懸命に作っているナマエを置いて、出掛けて良いのでしょうか。しかし、シリウスはもう恋人と約束をしてしまいました。破ったら、若くて美しい恋人のことです、すぐに別の男が出来てしまうかもしれません。シリウスは今、この恋人を大層気に入っていましたから、それは望ましくないことでした。結局シリウスは、身体に纏わり付くシチューの匂いを振り切って、早足で玄関に向かいました。ドアを閉めた瞬間、キィンという音がしたような気がしました。



***



毎年、シリウスとナマエが一緒に出席しているパーティがあります。院長が主催した、それはそれは盛大なもので、病院で働いている人は必ず出席しなければなりません。特に今年はいつもより豪華なホテルで、お客も院内外から多く招かれます。ある日の朝、シリウスは食べ終わった食器のところにその招待状を置いておきました。ドレスコードや日時、会場までの案内が書いてあるものです。その日は仕事が遅くまで片付かなかったのでナマエと話す時間は無かったのですが、帰ったらその招待状が無くなっていたので、シリウスは、あぁ分かってくれたのだな、と思いました。



パーティ当日、シリウスが珍しく早起きすると、ナマエはまだ眠っていました。ひんやりと寒いリビングに暖房を点けて、テレビを点けます。杖を一振りして新聞を呼び寄せると、大量のチラシが入っていることに驚きました。どこも、歳末商戦に必死なのです。

そろそろコーヒの一杯でも飲みたい、と思った時に、ナマエが降りて来ました。テレビの音でシリウスがいることに気付いたらしく、少しだけ小難しい顔をしていました。小さな声で「おはよう。」と言うと、台所へ消えていきます。しばらくして、コーヒと朝食をお盆に載せてナマエが出て来ました。黙ったまま、それをダイニングデーブルに置きます。シリウスは新聞を適当に畳んでソファに放ると、ダイニングの椅子に座りました。ナマエの分が見当たりません。シリウスは、自分とは一緒に食べたくない示唆なのかと思い、いよいよ焦り始めました。少々勝手なことをしすぎたかな、と思ったのです。それでも、口に出して謝ろうとは思いませんでしたが。

「おい、」

「…なに。」

お盆を持って踵を返そうとするナマエを呼び止めると、ナマエは振り返らずに答えました。

「今日のパーティだけど、5時にタクシーが迎えに来るから、」

そこまで言うと、ナマエは「えっ?」と声を出して振り返りました。

「なんだ。」

シリウスが怪訝に思って尋ねます。

「私も?」

「当たり前だろう。」

夫婦なんだから、と口からでかかって、シリウスは慌てて飲み込みました。今日は長い時間一緒にいるのに、もしナマエの地雷を踏んでしまったら、と思ったのです。

「どうしても?」

「何を馬鹿なこと。」

「でも、私まで、」

「毎年行ってるだろ。」

「でも…、ドレスも買ってないし、」

「去年のでいいから。」

それを聞くとナマエはしばらくその場にジッとして何か考え込んでいましたが、「分かった。」と言いました。そして馴染みの美容室へ電話をかけ、午後一番で無理やりに予約を取ると、台所へと引っ込んでしまいました。シリウスは、ようやく温まってきたリビングで1人コーヒを啜りながら、ぼんやりと庭を眺めました。

やっぱり、ナマエはどこかおかしい。
ここにいて、まるでここにはいないような様子で、どこか影が薄いのです。シリウスは真っ先に浮気を疑いましたが、どうも、恋をしているようでもありません。ただ、じゃあ何だ、と聞かれても答えられそうもありませんでしたが。とにかく、何かが可笑しいのです。今日の朝食は、トーストにベーコンエッグにトマトにブロッコリ、それにシリウスの好きなスウィーティでした。シリウスはスウィーティが大好物だったので、嬉しくなってスプーンで果肉をほじくりました。


おい。なに。


そう言えば、最近の2人の会話はいつもこれではじまります。シリウスは、ここでまた違和感を覚えました。そしてようやく違和感の正体に気付きました。

ナマエが怒らないのです。

以前はシリウスが「おい。」と呼びかければ「私はおいなんて名前じゃない!」と怒りましたし、招待状を放り出して置いただけでは「出て欲しいならもっと前からちゃんと言って!」と怒りました。ナマエは、ヒステリックでエキセントリックだったのです。それよりも前は、よく笑う可愛い女性でした。それが段々笑わなくなり、そして怒りっぽくなりました。今はどうでしょう。シリウスに対して、何の感情も表しません。まるで生きた人形のようです。シリウスは、背筋がゾッとするのを感じました。それは、何より恐ろしいことに思えました。もしこのままナマエの心が冷え固まってしまったら、この先どうなってしまうのでしょう。


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