お昼になって、ナマエは大きな風呂敷を用意して部屋から降りてきました。シリウスはずっとリビングで本を読んだりテレビを観たりしていたので、ナマエが台所で昼食を用意したり片付けをしたりしているのを知っていました。

「行くのか。」

シリウスがそう尋ねると、ナマエは「えぇ。」と答えました。

「着物にするのか。」

風呂敷が目に入ったのでそう尋ねると、ナマエは肩を一度だけ震わせて小さく頷きました。

「ドレスにすればいいのに。楽だろう。」

シリウスにしてみれば、ナマエを気遣っての言葉でした。でもナマエは「うん。」と言っただけでした。これでは全く会話になりません。シリウスは少し苛立ちながら、ソファから立ち上がります。

「もし招待状手渡さなかったのを怒ってるんなら、」

「怒ってない。」

ナマエは即座に答えました。そして風呂敷をギュウッと抱えたまま、玄関の方へ歩いていきます。ふらふらと、何だか覚束無い足取りでした。

「どこか具合が悪いのか。お前朝から何も食べてないだろう。」

「ううん、きっと生理前だからよ。」

ナマエの言葉が本当か嘘か、それすらシリウスには分かりませんでした。妻の月経の周期すら、シリウスはとうの昔に分からなくなっていたからです。恋人の生理は毎月のはじめです。それは知っていました。だけど、ナマエの生理は分かりませんでした。

「車で行くなら送って、」

「大丈夫!」

食い下がるシリウスに、ナマエは少しだけ声を荒げました。

「5時までには帰って来るから。」

その投げやりな言葉に、シリウスはとうとう怒りました。バッとナマエに背を向けると、大きな動作でソファに身体を沈めました。折角自分が送ってやると申し出たにも関わらず冷たくあしらわれたことに、シリウスは腹を立てました。そんな態度、妻としてあるまじきことです。自分と一緒にいたくないと思っているのか、それとも一緒に行くと都合の悪いことでもあるのでしょうか。シリウスは、玄関の閉まる音がするとふうと大きな溜息をついて、テレビをつけました。庭を眺めて、何かの種が蒔かれているらしい部分を見ました。


しばらくそうしてから、シリウスは台所へ行きました。お腹が空いたので、ナマエが作ってくれた食事を食べようと思ったのです。冷蔵庫を開けると、お皿に鶏肉の卵とじ、丼によそられたご飯、それにお吸い物が入っていました。どうやら親子丼のようです。シリウスはナマエが作る美味しいご飯が好きだったので、少しだけ機嫌を直しながら杖で突いて温め直しました。

そのときです。ふとゴミ箱に目が行ったのは。ゴミ箱は、台所の片隅で、なるべく自分の存在を小さくしようと努力しているかのように鎮座していました。でも、シリウスは何故か目が行ったのです。そして、おもむろに近づくと、ペダルを踏んで蓋を開けました。中には、シリウスが今朝食べたスウィーティの片割れが、その他の紙くずやトマトのヘタ、それに薬の包み紙などと一緒に放り込まれていました。シリウスは言いようの無い恐怖に襲われます。何かが、確かに変わってしまったようです。シリウスの気付かぬ間に。シリウスは、些細なことで怒っている場合では無かったようでした。



ナマエは5時少し前に帰ってきました。頭を結い上げて項を見せている髪形は大変美しかったのですが、いかんせん、着物は老けて見えるので、シリウスはあまり好きではありませんでした。嫌がおうでも、若い恋人と比べてしまいます。

シリウスは既にスーツに着替えてリビングにいました。ナマエが行くときに着ていた服やらカバンやらを部屋に置いてくる、と言ったので、シリウスは玄関で待ちました。玄関には、ナマエの草履が投げ出されています。ナマエは以前、こんな風にお行儀の悪いことをするような女性ではありませんでした。急いでいても履物はきちんと整えるような女性でした。立派な両親に育てられたのです。シリウスも立派な両親に育てられましたが、ナマエ程素直な子では無かったので、礼儀作法は骨の髄まで染み入る、ということには至りませんでした。

ペタパタと不規則な足音が戻ってきて、小さなバッグを抱えたナマエが姿を現しました。甘い匂いの香水をつけています。それは、高級な着物に立派な帯、といういでたちの女性には少し安っぽすぎるような匂いでした。ナマエが新婚当初に愛用していた香水の匂いです。何て不釣合いな、とシリウスは眉を顰めましたが、ナマエは気付きません。シリウスの顔を見ないからです。香水の匂いは今更どうにも出来ませんし、どうにかする気もありませんでしたから、2人はタクシーに乗り込みました。ナマエは帯を気にしながらそっと腰掛けます。シリウスは道路側から回り込んで乗りました。このタクシーはマグルのタクシーではありませんでしたから、他の車や渋滞を飛び越えて、順調に走行していきます。次々に目まぐるしく変化する車窓に、シリウスは何度もまばたきをしました。ナマエも反対側の窓を眺めているので、2人を知らない誰かが見たとしても、この夫婦はあまり上手く行っていないことが分かるでしょう。シリウスはそれが嫌でした。例え自分が浮気をしたことでこの状況――つまり、ナマエの心が冷え固まったことですが――を招いてしまったとしても、絶対に許せないことだと思いました。だってシリウスには、例えばナマエと離婚して恋人と結婚しようなんて考えは毛頭ありませんでしたし、ナマエが嫌いになったというわけでもなかったからです。もっと機嫌良くできないのか、夫に優しい言葉の1つもかけられないものかと思いました。



会場には40分後に着きました。思ったよりも長いドライブになりました。パーティはもうはじまっていて、ちょうどいい頃合でした。シリウスが招待状を見せて会場に入ると、そこには煌びやかなドレスを着た女性や恰幅の良い男性、それに色々な人がいました。たくさんの食事も置いてあります。ただの私立病院の院長が催すには、いささか盛大すぎるような気もします。

シリウスは早速ナマエを連れて挨拶回りをはじめました。ナマエは遅れてシリウスの後をついて歩くだけでした。

「おい、もっと愛想良く出来ないのか。」

シリウスは声を押し殺して言いました。ナマエは小さく「ごめんなさい。」と答えましたが、全然改善されません。生気が無いのですから、笑えという方が無理なのです。シリウスは、自分の言うことを聞けないナマエが段々煩わしくなって、しまいにはナマエを置いてけぼりにして1人で歩き回りました。

そのことを指摘されたのは、院長夫妻に挨拶に行った時です。

「おやブラック君、今日は奥さんと一緒じゃないのかね?」

「さっき逸れてしまいまして。」

シリウスは嘘をつきました。本当は置いてけぼりにしたのに。

「それは残念だ。今日は会えるだろうと思って楽しみにしていたから。君は幸せ者だね、あんなに美しい奥さんがいて。君が仕事に打ち込めるのだって、内助の功のおかげだろう。感謝するんだよ。」

シリウスは曖昧に頷きました。すると、夫人が心配そうな演技をしながら口を開きました。

「わたくし先ほど、ちらとナマエ夫人をお見かけしましたの。何かご病気でいらっしゃって?」

シリウスはますます苛々しました。ナマエは、笑顔を浮かべないばかりか病気のような顔をして会場を闊歩しているのらしいのです。

「先日風邪を拗らせたんです。私は止めたんですが、あれがどうしても出席したいと申すものですから。」

シリウスがもっともらしいことを言うと、夫妻は揃って大きく頷きました。

「それはそれは。」

「お大事に、とお伝え下さいね。またお茶会にお誘いしますから。」

シリウスは一礼すると、すぐさま踵を返してナマエを探しました。また誰かにこんなことを言われてはたまりません。最悪、ナマエを先に帰らせるつもりでナマエを探しました。



ナマエは、会場の外にあるソファに腰をおろしていました。手には会場から持ち出したのか、お水が握られています。俯くその姿は、本当に具合が悪そうでした。

「ナマエ。」

シリウスがそう呼ぶと、ナマエは申し訳無さそうに「ごめんなさい。」と言いました。もはや、生理前、なんて言い訳は通用しないほど、ナマエの顔色は最悪です。シリウスは急に本当に心配になって、ナマエの肩を抱くようにして隣に座ろうとしました。

「どうしたんだ、大丈夫か?」

その時でした。

「まぁ、ナマエ!」

2人が顔を上げると、朗らかな女性がこちらへ歩いてくるのが見えました。昔、シリウスと同じ病院で働いていた、ナマエの不妊治療を担当していた産婦人科の先生です。今は開業されてシリウスとは滅多に会うことが無くなりましたが、シリウスが尊敬する先生の1人でもありました。

「ぁ、ぁ、先生、」

ところがナマエは、先生の顔を見るなり怯えたように顔を真っ青にしてソファの上を少し後ずさりました。その反応は、尋常ではありません。

「今日はブラックさんと一緒なのね、ナマエ。」

「せ、せん、せん せい。」

「最近体調はどう?もうやってない?」

先生はそう言い笑いながらシリウスをちらりと見ます。シリウスには、何が何だかサッパリ分かりませんでした。先生は首を傾げて、ナマエの前に座り込みました。その瞬間、先生の顔色も真っ青になります。

「ナマエ?」

「先生、私、あの、」

ナマエはなるべく先生から離れられるようにじりじりと背中をそらせたりしましたが、先生は構わずにナマエの手首をギュッと掴みました。ナマエが振り払おうとした瞬間、袖が大きくまくれて腕が丸見えになりました。その腕の何と細いこと!もうガイコツと間違われても文句は言えません。シリウスは目を大きく見開いてそれを見ました。明らかに、健康な女性の腕ではありません。ナマエは必死になって掴まれていない方の手で裾を上げましたが、もう遅すぎました。先生はショックのあまり口のききかたを忘れたように見えましたが、すぐにナマエを詰問しました。

「あなた、やめてなかったの!?そうなの!?」

今度はシリウスを睨みつけます。シリウスには、相変わらず訳が分かりません。シリウスの様子を察した先生は、絶望を見たような目でナマエを見ました。ナマエは俯いて、必死に先生の目を見ないようにしています。今にも泣きそうです。

「ナマエ、あなた、彼に言ってないの?話し合ってないの?何も解決してないの?」

「先生、お願い、夫には内緒にしてくれるって、」

「それはあなたが自分から言うって約束したからでしょう!?」

先生はナマエの腕をパッと放すと、立ち上がってシリウスを見据えました。

「ブラックさん、あなたはナマエが抱えている病気のこと、ご存知じゃないの?」

シリウスは頷くことも出来ません。ただ呆然と、先生のことを見ました。ナマエが病気?そんなこと聞いたこともなければ気付いたこともありませんでした。寝耳に水です。

「なんてこと…。」

シリウスの反応に、先生は片手で自分の顔を覆いました。そしてゆっくりと息を吸い込みます。ナマエが「やめて!言わないで!」と叫びましたが、先生は無視しました。


「いい、ブラックさん、ナマエは自呪依存症よ。」


自呪依存症、マグルには聞きなれない言葉ですが、魔法界では有名な病気です。

魔法には様々な役割があります。物を動かす魔法や火を点ける魔法、誰かの心を覗く魔法など。その中で、主に癒療魔法ですが、人にかける魔法があります。骨折を治したり火傷を治したりする魔法です。魔法薬はもちろんそうですが、家庭では、杖で直接治療する方法も多様されています。そういった魔法は、自分でやるより人にやってもらうほうが効率的です。もともと魔法は自分の身体にかけられるように出来ていません。かかる負担が大きすぎるのです。にも関わらず、自分で自分に魔法をかけることをやめられなくなってしまったことを、自呪依存症といいます。

きっかけは様々ですが、最後は皆同じ。負担が少しずつ身体に蓄積されて、魔法が使えなくなってしまうのです。マグルと同じになってしまうのです。ナマエの場合は睡眠の呪いでした。病院で処方される魔法薬が足りなくなったら、自分で自分を眠らせたのです。

「なんで…、そんな、馬鹿なことを…、」

シリウスがそう呟いたら、先生はキッと目くじらを立てました。

「あなたがナマエを大切にしなかったからでしょう!」

先生は、ほとんど叫ぶようにして言いました。普段のシリウスなら、誰かに聞かれてはいまいかと周囲に視線をやったかもしれません。でも、今のシリウスにはそんな余裕はありませんでした。

「先生、違うんです、違うのよあなた、あなたは何も関係ない。先生は間違っている、誤解しています。夫は関係ありません。」

ナマエは先生の膝へ縋り付くようにして、涙を流しながら哀願しました。先生は全て納得したようで、今度は優しい声を出しました。

「もう、魔法も使えないのね、ナマエ。以前の貴女なら、私に忘却術をかけるのさえ厭わなかったでしょう。」

先生の言う通りでした。ナマエはもうマグルと同じです。魔力の欠片も残っていませんでした。身体に負担をかけすぎて、すっかり枯れてしまったのです。

「先生、おねがいです。この人に忘却術をかけて。お願い。忘れさせて。」

先生は、とうとうナマエのすっかりやせ細った身体を抱き締めました。着物で隠した体型も、こうして抱き締めてしまえばすぐに分かるのです。ナマエの身体は、あまりに骨ばっていました。

「あぁナマエ。何てこと。」

シリウスは声をかけることも出来ず、ただ自分の眼下で抱き合っている2人の女性を眺めました。先生は、ナマエの涙でぐちゃぐちゃになった頬を両手で包むと、そっと開心術かけました。ナマエの心は一切閉ざされていないので、手に取るように分かります。シリウスもナマエの心を開きました。ナマエは、魔力が使えなくなった後も、1日の大半を眠って過ごしていることが分かりました。マグルの睡眠薬を使ったのです。それも、普通に処方される分では到底足りないので、何件もの病院に通院していました。

毎日毎日眠って過ごせば、誰だって痩せ細ります。薬で胃が荒れ、体力が落ち、悪循環の螺旋に落ちてしまうからです。シリウスは、あまりの惨状に片手で口を覆いました。先生は、まるで幼子にそうするようにナマエの頬や頭を撫でました。すると、もう1つ異変に気付きました。

「ナマエ、あなた右目、」

ナマエは、今更隠してもしょうがないと思ったのか、素直に頷きました。そうなのです。自分に呪いをかけすぎたせいで、副作用が起こってしまったのです。今、ナマエの右目はほとんど視力がありません。ナマエは右利きだったので、杖をこめかみにかざす時、ちょうど魔法がかかりやすかったのです。これも、じっと見詰め合えば簡単に分かることでした。

「もういいのよ、苦しまなくて。あなたは十分耐えたわ。」

シリウスは、泣いて震えるナマエを抱き締めることも叶わず、ただ立っているだけでした。必死に現状を理解しようとしましたが、到底できませんでした。何が何だか分からなかったのです。


ナマエをソファに座らせて、先生はシリウスだけを少し離れたところへ招きました。シリウスは動揺のあまり口を開くことすら出来ません。

「今日は帰すけど、明日の朝一で私がお世話になっている弁護士と一緒にナマエを迎えに行きます。ナマエが拒否しようと、癒者の権限で連れて行くから。」

先生は杖を指でいじりながら、シリウスを睨みつけました。

「あなたの浮気のことは、悪いと思ったけど、出来る限り調べたわ。ナマエを精神科の癒者に紹介するときに必要だったから。あなたの愛人のことも、年収や両親の名前血液型まで全て。」

「それは、」

「何か弁解があるなら、私でなくナマエでもなく弁護士にしてちょうだい。とにかく、明日の朝、ナマエを迎えに行くわ。あの子をこれ以上あなたの家に置いておいたら、本当に死んでしまう。」

ここでシリウスはようやく言葉を取り戻しました。

「違う!あの家は私とナマエの家です。」

シリウスの主張を、先生は悲しそうな顔で飲み込みました。

「そうね、でも形だけ。」

先生は辛辣に続けました。

「事実、あなたはナマエの病気に気付かなかった。あの子を愛し、慈しまなかった。お金を稼いで来ただだけ。ナマエがそのお金で何を得られたって言うの?長い孤独だけよ。分かる?その罪は計り知れないの。」

先生は通りかかったスタッフに車の用意をするよう申し付けた後、シリウスを振り返って涙ながらに言いました。

「人は独りじゃ生きられない。」



タクシーの中、ナマエは肩を震わせながらシリウスの腕の中でじっとしていました。瞳からは絶えずハラハラと涙が零れます。シリウスは、ふんわりと優しいナマエの抱き心地を思い出そうとしましたが、失敗しました。恋人の抱き心地しか思い出せない自分が情けなく、そのまま殺してしまいたいとさえ思いました。

「シリウス、あなたは何も悪くない。全部私がいけないの。」

ナマエはか細い声でシリウスに何度も言いました。

「私がもう少しだけ強ければ、あなたときちんと向き合えた。私がもう少しだけ弱ければ、あなたに泣いて縋れた。でも私は、どちらも出来なかった。」

「何で、どうして、どうしてもっと早く、」

シリウスは言いかけましたが、最後まで言えませんでした。自分には、ナマエを責める資格が無いことに気付いたからです。それでもナマエは答えました。

「あなたに見捨てられると思った。だらしのない情けない私を、どうしても知られたくなかったの。」

何て馬鹿なことを、とシリウスは思いました。ナマエはとても賢い女性でしたが、完璧ではありませんでした。完璧な人間なんて、この世には存在しないのです。シリウスが完璧でなかったように。ナマエはシリウスの胸にだらんと頭を凭れさせて、夢見る少女のような眼差しを車窓にやりました。

「テレビを観ててね、」

ナマエが唐突に口にした言葉に、シリウスは必死になって耳を傾けます。胸が張り裂けそうでした。

「テレビに映る綺麗な風景を見ると、私はいつでも、いつかあなたと一緒に行きたいって思ってた。でもシチューを鍋ごと床にぶちまけたあの日、そうは思わなくなったの。そしたら最後の魔力が消えちゃった。私の全ては、あなたの為に存在してたの。思い知らされた。」

家に着き、ぐったりしたナマエをベッドまで運んでも、シリウスは少しも疲れませんでした。ナマエがあまりに軽かったからです。ベッドに寝かせ、帯を解いて襦袢姿にすると、ナマエは一層細く頼りなく見えました。シリウスはベッドの横に跪き、ナマエの手をギュウッと握り締めました。ナマエは少しだけ握り返します。

「ごめんね、断って。私、別の誰かに愛を囁いた口で愛撫されるなんて、とっても耐えられなかった。」

シリウスは「そんなこと…」と言おうとして失敗しました。声が掠れて上手に出せないのです。

「でもね、私本当は知ってたの。あなたの腕も、唇も、髪も、匂いも、たとえ爪あとがついた背中でも、あなたのものならそれで良いって。あなたが私のものだと思ってたのは、ただの我侭だった。」

シリウスはいよいよ泣き出しました。ボロボロと大粒の涙が、ナマエの手や自分の太もも、そして床に落ちました。

「泣かないで。あなたは何も悪くない。」

「…ナマエ。」

「悪くないのよ。悪いのは私。だから泣かないで。気に病まないで。」

ナマエはペロリと毛布を捲ってシリウスを招き入れました。シリウスは堪らず、ナマエをギュウッと抱き締めます。乱れたままの髪が散らばった首元に、顔を埋めました。薄れた香水の中にナマエの匂いがちゃんとして、シリウスは救われたような気持ちになりました。ナマエは嬉しそうな声を上げてクスクス笑いました。シリウスが甘えると、ナマエはいつでも嬉しがったのです。シリウスはもう長いこと、その幸せな瞬間を忘れていました。でも、ようやく思い出した今、その幸せは空前の灯火のようになっていました。

「くるしい?」

シリウスが、震える声で2人の間でお決まりだった台詞を口にすると、ナマエはぼんやりとした口調で答えました。

「くるしかった。今はもう、何も感じない。幸せも、悲しみも。あなたを殺したいほど憎んだ時もあったけど、でも結局、嫌いになんてなれなかった。多分、これからもずっと。」

シリウスの涙はナマエの首を伝ってナマエのベッドに染み込んでいきます。ナマエは、まるでシリウスのお母さんにでもなったかのようにシリウスの髪を撫でました。シリウスには、本当ならナマエに優しくしてもらう権利なんかこれっぽっちも無いのです。ナマエに罵倒され、ツバを吐きかけられ、足蹴にされ、挙句この世のものとは思えない恥をかかされ、殺されたって文句は言えないと、シリウスは思いました。それでもナマエはシリウスの髪を、大事に大事に撫でます。

「ごめん、ナマエ。ナマエ、ごめん。ごめん、ごめん。ごめんな、ごめん。許してくれ。ナマエ。」

シリウスは狂ったように謝り続けました。ナマエの、今はもう光を失った右目が、ジッとシリウスを見詰めます。

「謝らなくていい。あなたは何も悪くない。」

いっそ滅茶苦茶に罵ってくれた方が楽でした。ナマエがあんまり優しい顔で笑うので、シリウスは胸が抉られて血が吹き出ているような痛みに襲われました。

「抱き締めてもらえるなら、もっと早くに言えば良かったな。独りじゃ死んじゃうってあなたの前で泣き叫べばよかった。」

ナマエは全身で久しぶりに感じる人肌を確かめているようでした。じんわりと温かいこの温度がなければ、人は精神を良好に保てないのです。シリウスはナマエを余すことなく包み込みました。小さな赤ん坊でなくても、人は慈しまれなければ生きてはいけないのです。シリウスはもっと早くにそれに気付くべきでした。お金では温もりは買えないこと。

「こんなに満たされた眠りは本当に久しぶり。」

ナマエは笑いました。何度も、何度も。



ナマエが眠ってしまったあと、シリウスはベッドを抜け出してナマエの部屋を見渡しました。そこら中、ナマエの匂いで溢れ返っています。それが何だか懐かしくて、シリウスは改めて罪を突きつけられました。一緒に暮らしている妻の匂いが懐かしい?そんな馬鹿な話、聞いたことも笑ったこともありませんでしたから。

シリウスがふと目をやると、小さな棚の上の写真立てが目に入りました。随分若い頃の、シリウスとナマエです。結婚した当初のものです。シリウスがそれをおもむろに手に取ると、写真がシワだらけなことに気付きました。一度クシャクシャに丸めて、それをもう一度丁寧に伸ばしたようです。幸せそうに笑う自分とナマエを見て、シリウスはまた涙が溢れてくるのを感じました。

いったいいつから、道を違えてしまったのでしょう。いったいいつから?問いかけたって、誰も答えてはくれません。写真を見て、ベッドの上で眠っているナマエを見て、それから鏡に映った自分を見ました。自分が酷く醜い生き物のように見えて、シリウスはすぐに目を背けました。再びナマエの隣に寝そべって、ナマエのことを考えました。ナマエはどれだけ寂しかったのでしょう。この家に閉じ込め縛りつけ、シリウスが一体何をしてあげられたというのでしょう。先生の言う通りでした。ナマエは、お金と結婚したのではありませんでした。他でもない、シリウスと結婚したのです。誰にも食べてもらえない食事を作り、いつ帰ってくるとも知らない人の帰りを独り延々待ち続けることは、少し想像しただけでもゾッとしました。自分は何て酷い仕打ちをナマエにしてしまったのか、シリウスは何度も何度も自分の愚かさを呪い、壁に頭を打ち付けたい気持ちになりました。

「ナマエ。」

そっと囁いても、ナマエは目を覚ましません。寝息も立てず、静かに眠っています。明日の朝になったら、ナマエは本当に連れて行かれてしまうのでしょうか。シリウスはまた恐ろしくなりました。専門は違ってもお癒者さんです。ナマエのような患者の場合、どのような治療を施すのか、よく知っていました。本人の気付かぬ間に、少しずつ、心の傷になってしまった記憶を消して行くのです。そうすれば、大抵の再発は防げましたし、魔力が戻ることさえありました。だけど、それは、シリウスとの楽しかった思い出や、苦しくても一緒に頑張ってきた、その他すべての記憶を消してしまうことでした。シリウスはボロボロと泣きながら、ナマエの頬や髪を撫でました。後悔先に立たず、と言った偉人のことを思いました。



シリウスは一睡も出来ず、朝をむかえました。けたたましいチャイムの音がして、先生と、弁護士と呼ばれる人が来たことを知らせました。本当に早朝です。シリウスは玄関のドアを開けて2人を見ました。2人は、スーツのズボンにシャツというシリウスのいでたちを見て一瞬驚いたようでしたが、すぐに冷静で優しい顔を作ってシリウスを見ました。

「ナマエは?」

先生がキビキビと言います。シリウスは言い辛そうに「まだ、寝室に、」と答えました。シリウスはもう十分に大人ですから、こんなことで言い逃れられるとは思っていません。先生だって、それは承知の上です。

「上がっても?」

シリウスは渋々頷きました。綺麗に掃除され整ったリビングを過ぎて2階に上がっても、ナマエはまだ寝息を立てていました。

「ナマエ、起きて。」

先生は優しい声で言って、ナマエを揺すりました。ナマエはそこでようやく小さな呻き声とともに目を覚まします。先生は、ベッドにあったシーツでナマエを赤子のように包むと、「立って。」と言いました。シリウスは耳を疑いました。まさか、人の妻をパジャマ姿のまま車に乗せるつもりなのでしょうか。見知らぬ男が一緒にいるのに?でもナマエはぼんやりとした目のまま、ベッドから立ち上がろうとしませんでした。

「ブラックさん。悪いけどナマエを車まで。」

先生は残酷です。シリウスに、ナマエを運べと言うのです。でもシリウスに逆らう権利はありません。ナマエが大人しくしている以上、いやだ嫌だと泣き叫ばない以上、シリウスは先生に従うしかありません。赤ん坊のようにナマエを優しく抱き上げると、部屋を出ました。階段を下りてリビングを横切って玄関に来ても、ナマエは何も言いません。

シリウスは、行きたくないと言わないナマエに苛々しました。大人しく、人形のようにシリウスに抱かれているナマエに苛々しました。でもそれは、皮肉にもシリウスがナマエに望んだことでもありました。セックスや愛の言葉を恋人で済ませていたシリウスがナマエに望んだことは、清潔な寝床、整頓の行き届いた部屋、それに時々美味しいご飯。以上でした。でもそれらは全て、ナマエでなくても出来ることです。それこそ、お金を払えばいくらだって代わりはいます。シリウスは、本当の愚か者でした。

「…だ。」

「え?」

シリウスが搾り出した声にも、先生は敏感に反応しました。

「いやだ。ナマエは行かせない。」

先生は驚いたようにシリウスを見ました。シリウスは構わず叫びます。

「嫌だ!ナマエは妻だ!俺たちは夫婦なんだ!ナマエ、何とか言え!」

「ちょっと!」

シリウスがナマエを強く揺さぶったので、先生は慌てた様子でシリウスの腕を掴みます。でもシリウスはナマエを放しません。

「ちょっと!暴力はやめて!」

「出て行って下さい、ナマエは行かせない!」

その時、ソロソロとナマエの細っこい腕が伸びて、シリウスの頬をそっと撫でました。

「あなた。」

シリウスはすぐに黙りました。そうしないと、とても聞き取れないような音量だったのです。

「シリウス。きっと、あなたの願い通りになる。私という鎖から自由になって、何もかも上手く行くようになるわ。」

ナマエの迷い無い言葉に、シリウスは深く傷つけられたと思いました。自分たち夫婦の絆を、鎖、と揶揄されたからです。

「何で、そんなこと、ナマエ、」

「いいの。本当は、ずっと前から分かってた。私たち、もうとっくの昔に、」

何を分かっていたのか、ナマエは口に出して言いませんでした。シリウスは、ナマエが誤解している、と思いました。シリウスは、ナマエが嫌いになったから浮気したのではありません。ただちょっと、若い肌が恋しくなって、刺激がほしかっただけなのです。はっきり言いますが、ナマエがこんなに思い詰めているなんて、シリウスには思いもよらないことだったのです。事がこんなに重大だなんて、分からなかったのです。

「ナマエ。」

「朝ご飯、ちゃんと食べてね。」

「ナマエ、」

「夜も、お酒ばっかりじゃ駄目よ。」

「ナマエ!」

シリウスは叫びましたが、ナマエは無視しました。妻に無視されると言う事がこんなに恐ろしいことだとは思いませんでした。ナマエは身体に毛布を巻きつけたまま、フラフラと玄関を出ました。

「リリー、おいで、リリー。」

リリー?シリウスは何のことか分かりませんでしたが、ナマエがそう言うとどこからともなく白猫がナマエの元に駆けて来ました。ナマエはその猫を抱きかかえると、涙に濡れた瞳でシリウスを見ました。

「庭のデイジーをお願いね。」

先生が、ぐずぐずしているナマエを半ば強引に車に押し込みドアを閉めました。ナマエは小さな女の子のように両手をペタンと窓にくっつけて、それからすぐに窓を開けました。骨同然の腕をシリウスに伸ばして、ハラハラと泣きます。シリウスも泣きました。涙が枯れないのが不思議なくらいでした。

「ごめんね、あなた。ごめんなさい。」

「ナマエ。」

「きっと、何もかもが上手く行く。あなたはなにも心配しないで。」

「ナマエ、ナマエ。」

「ちゃんと食べてね。ちゃんと眠ってね。」

「俺のことはいいから、ナマエ、」

「うん。ごめんなさい。私、」

「もう謝らないで、ナマエ。」

「あなた、シリウス、大丈夫。」

車のエンジンがかかって、油の臭いが辺りに広がりました。シリウスはナマエの手を自分の頬に持って行きました。ひんやりと冷たくて、泣き腫らした顔にはとても心地よく感じられました。


「愛してる。」

シリウスが囁いた言葉に、先生ははっきりと嫌悪感を示しました。運転席にいる弁護士に「早く出して。」と言いました。車がゆっくりと動き出します。

「ナマエ!」

「デイジーを、庭のデイジーをお願いね!」


End?

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