咲初める花一輪。
枯れ逝くもの。
死に逝くもの。
されど
げに美しきもの。
【竹の段】
「でもお梓代ちゃんは江戸の出でしょう?なら良いじゃないか。」
「何がでありんすか?」
「お里心に蝕まれなくってさァ。」
「そうでありんしょうか。でも言われてみれば、ここは空気も同じ、お天気も同じ、それに私は…母様にも会えんす。佳代さんのように、雪が恋しいこんな食べ物が恋しいなんてことは無くって。幸せもんでありんすなぁ。」
「お梓代ちゃんは素直で良いわいなぁ。」
佳代、と呼ばれた新造は、根っからの禿立ちだった。年端も行かない頃にこの遊郭の“細千屋”に売られてきた、東北の出の色の白い綺麗な女の子だ。ナマエがついた姐さんとは別の姐さんに随分前からお世話になっていて、ここのことを何も知らぬナマエに一から十まで教えてくれた一番仲良しの朋輩だ。
「この澱み切った街じゃ、そりゃあ新鮮さ。あんたの姐さんもそんなとこが気に入ってんだよ。」
佳代は漢文の書き取りの手をいったん止めると、筆を置いてナマエのことを見た。言葉とは裏腹に、妬みは感じられない口ぶりだった。
「姐さんには本当に良くしてもらいんした。母様のことを口利きしてもらっただけでも、返せない程の御恩があるのに、こないだの新造上げもうんと立派にしてもらって。」
ナマエの母は、この街の外れにある仕出し屋で住み込みの仕事を紹介してもらっていた。ブラックの家を追い出され娘を女郎として売り飛ばされ、一時は心神喪失状態に陥っていた母も、この頃はなんとか気力と体力を取り戻し、お世話になっていたお寺を出て働くようになったのだ。
「女がたくさん集まる場所なんていうもんはどろどろとして、権力欲と見栄だけで構成されるように思う人も多いけど、実際はそうでもないことだってあンの。この街は、もちろんそんなんだってあるけど、みんな助け合って生きてる。」
「あい。」
「なんでも信じるのは馬鹿のするこんさ。でも何にも信じられない人はそれ以上に惨だわい。店ごとに競うことはあっても、花魁ごとに競うことはあっても、憎みあったらいけんせん。女将さんが口をすっぱくして言うのは、心の醜さは顔に出るからでありんす。この遊郭が出来てから何人か、語り継がれるに足る太夫がいたけれど、みんな人格者だったそうじゃて。」
「あい。わっちは本当に良い店、女将さんとご縁があったようでありんす。」
「わっちもさ。さぁ、花魁を起こしにやって、わっちらも支度をしんしょう、お梓代。」
「あい、お佳代さん。」
***
琴に三味線、唄に碁に将棋に古文漢文の類。ナマエは四年とちょっと、その他ありとあらゆる教養という教養を叩き込まれた。ナマエの他の新造は、全員が幼い頃からの禿立ちだった為、ここでの独自のルールを含めて、ナマエはかなり不利な立場からの出発となったが、泣き言ひとつ言わずに朝から晩までやれることは全部やった。やれないことだって全部全部ひとつ残らずやった。口を開けば泣いてしまいそうで、目を瞑れば見たくないものが見えてしまいそうで、ナマエはやることがあることにむしろ感謝すらしていた。
シリウスに会いたくなってしまう。恨んでしまう。少しでも隙を見せると、心の奥に潜んだ自分の中の弱い蟲がむくむくと頭を擡げて空虚を喰い広げようとしてしまう。ナマエは、それが一番怖かった。
それでも時々は夜空を見上げてかの人を想った。今どうしているのだろうか。自分のことなどもう忘れてしまっただろうか。会いたい、会いたい、会いたいと。
「また物思いに耽ってるンかい、お梓代。」
「松風姐さん。」
急に声をかけられて大層驚いたナマエは、肘をついていた窓際からさっと立って、花魁の座る席に上等の肘掛を置いた。もう着慣れた、花魁の金で買ってもらった豪華な着物のどこか淫靡な絹特有の衣擦れの音がして、簪がちりちりと鳴って、自分もすっかり馴染んできたなぁと思った。
「煙管を用意しんすか?」
「いやいいよ。それよりお梓代、もっと近くに来なんし。」
花魁はそう言うと、ちょいちょいと手招きをして見せた。ナマエは頷いて素直に近寄った。煙管と、白粉の匂いが香って、眩暈がしそうだった。
「いつもいつも遠い目をして、お前はここにいてここじゃないところにいるみたいサ。」
「はぁ。」
「出は江戸と聞いたけど、想い人でもいたのかい。」
花魁の明け透けな言葉に、ナマエは思わず目を瞠り、そして俯いた。
「…もともと、身分違いでありんしたので。」
ナマエが蚊の鳴くような声でそっけなく言うと、花魁は「そうかい。」と言ったきり、黙ってしまった。
花魁の顔を見ると、女のナマエですら眩暈がするほど本当に華があって美しいと思った。格子・松風は、大きくはないこの細千屋を背負う人気の花魁の一人だ。太夫ではないが、この街でもそこそこ以上の名通りを誇っていて、番付もいつも上位に喰い込んでいた。この美しさと賢さならそれも当然、太夫も当然だと思うナマエだったが、花魁が言うには彼女はその器では無いらしい。しかしナマエは花魁はあえて梅の位の格子に甘んじているのだと信じて疑ってはいない。
「女将がサ、お佳代の突き出しの次はお梓代、お前だって息巻いてるンだ。」
花魁はそう言うと、さっと杖を振って今にも崩れそうだった部屋の隅にある文机の上の文を建て直した。魔女に杖が許されるのはお上にお仕えする宮中の位の高い魔女か、城にいる身分の高い限られた魔女か、ここ吉原・嶋原・新町で松・梅の位を持つ魔女だけだ。もっとも庶民の魔女たちは杖を使わない簡単な魔法をいくつも編み出しては取り締まりの目を逃れて利用していたのだが。
「わっちをでありんすか?」
「年の順で言えば何も可笑しいことは無いだろう。ここへ来て四年と少し。お前も大分慣れただろう?」
「…あい。」
「それにこないだお前を名代に出した材木屋の旦那さんがネ、あんたをえらく気に入ったって言って、銭もそりゃあ積んでくれるって言ってンだよ。新造出しンときから息巻いてたからねぇ。」
ナマエはどうにかして“材木屋の旦那さん”の顔を思い出そうとしたが思い出せなかった。ナマエにとって客など皆同じ顔同じ声。興味もなければ記憶に残るようなものでもないのだ。
「早く独り立ちして、わちきに楽さしてくれなんし。」
花魁の冗談めいた言葉に、ナマエは少し笑ってしまった。
「お梓代は笑うと可愛いわいなぁ。でもそれを安売りしちゃあいけんせん。ここぞというときにとっておいて、高く高く売りさばきなんし。そうすりゃあお前も、果ては松の位。太夫さまじゃ。」
「おいらんはご冗談ばっかりでありんす。禿立ちでもない太夫なんて聞いたこともありんせん。」
「聞いたことがなけりゃ、お前さんがはじめてになりゃあいいじゃないか。ようは頭だよ。お前は賢いからね。」
ナマエがぼけっとした顔をすると、花魁はたいそう可笑しいものを見るように、声を上げて笑った。
「普段はツンと愛想の無いようにしてれば良いのサ。近い将来お前と張り合うだろう佳代は明るい妓だからね。お前は冷たいように売りなんし。同じじゃ勝てないよ。」
「冷たいように?」
「お高くとまってそっぽむいて。鶴のように。」
「まさか。遊女如きが?」
「それがウケる時代になりつつあるってこと。今やこの国の流行廃りは全部この街、わっちらがつくって動かしてンだ。太夫でもない遊女如きを抱きたくっとも出来ないモンが大勢溢れてて、遊女如きが客を選べる時代になっている。お前さんにも分かるだろ。」
「花魁でなくともでありんすか?」
「お前はなるよ、良い花魁に。」
「松風格子のように?」
「わちき以上に。太夫様にサ。」
花魁はそう笑うと「さぁ夜見世の用意をしておくんなんし。」と声をかけた。
ナマエが頷いて立ち上がり、襖の方まで歩いて行くと、花魁が小さな声でナマエの名前を呼んだ。
「お梓代。」
「あい、おいらん。」
ナマエが振り返ると、花魁は美しい顔をきっと歪めてナマエを見ていた。
「お前、良い妓になりなんし。その男を忘れちゃぁいけんせん。それがお前をうんと綺麗にしてくれるからね。そして良い妓になりなんし。」
ナマエはこくんと頷くと、今度こそ部屋を後にした。
***
「松風格子って言やぁ私が贔屓にしてる見世でも飛びっきりの花魁でしてね、そりゃあ良い女なんですよ。」
オリオンの後につきながら、そう愛想笑いを浮かべる問屋の話をぼんやりと聞いていたシリウスは、退屈なため息をひとつ吐いた。
こんな場所には、なるべく近寄りたくない。あちこちから震える赤い空気を次々吸い込みながら、シリウスはそんなことを考えた。ここにいる女は皆、ほとんど全部が望まずこの場に連れて来られた女たちだ。モノとして売られ、モノとして買われ、そしてモノとして己を己で切り売りして生きている。一回いくらで。そして年が来て、全てを売り切ってしまった女たちは捨てられて土にかえるのだ。
約五年前のあの時、シリウスは結局ナマエを見つけられなかった。自分から捜すことをやめてしまったからだ。それは諦めもあった。会って何をするんだと思ったためでもあった。でも一番の理由は、もっと別のところにあった。
「これも、もう嫁も娶ってもう一人前だ。ナカ吉原にだってツテと席を設けらんなきゃあ、ブラック家の跡取りは務まらん。だのに妙に嫌がってなぁ。」
「まだまだ本当の楽しみをお知りにならないからでしょうよ。」
勝手なことを並べ立てる父オリオンと問屋の言葉をなるべく耳に入れないようにして、シリウスはもう一度ため息を吐いた。格子越しの視線が刺さる。ちらりと視線を返すと、目がちかちかするほどとりどりの色を纏った女たちが淫靡な笑みを浮かべていた。
「ようようお出でくださいました。」
廓見事な回廊が見渡せる細千屋は、それはそれは立派な造りの建物だった。大規模ではないが、隅々までこだわりの行き届いた細工が施され、襖には品の良い画が描かれ、まるで人口の極楽浄土といった体を装っていた。
「ささっ、どうぞご案内を。」
腰の低い見世番が案内した先には、三味線持ちやらが既に待機していた。付き人にですら下を用意せず、大層な持て成しぶりだった。シリウスは自分たちはそれほどの上客なのかと眉を上げた。他の客の入りから見たって、この見世がそう不人気とも思えない。
「女将、花魁はまだかい。」
問屋がそう言うと女将はにっこり愛想笑いをして、「ただいま。」と席を立った。
「なぁに、旦那さんがたの為にめかし込んでんですよ。」
間も無くして、とりどりの新造を引き連れて松風格子が座敷に現れた。にこりともせず客をぐるりと一瞥して一番上座に座す姿はこの国で一番偉いものの姿を見ているようだとシリウスは思った。気位の高そうな眼差しを伏し、ねっとりと紅を差した唇をゆるく開いて「ようおいでなんし。」とひとことだけ放った。
「さぁお前さんたちも旦那たちについてついて。」
問屋は入り口で履物を脱いでいた新造たちを急かすように言うと、早速オリオンの機嫌取りに奔走しだした。
「松風の何が良いってね、若、新造らがそりゃあはくいことですよ。」
問屋が言うので、シリウスは伏せて頑なに膳を見詰めていた視線を上げた。上げて、驚いた。心の臓が口から飛び出るかと思った。
そこには、着飾り別人のような姿をしたナマエがいたのだ。
こちらを、零れ落ちるほどに目を見開いて見詰めている。
「お梓代さん、どうかしんしたか?」
朋輩の新造が様子の可笑しいナマエにそっと話しかける。ナマエは唇を戦慄かせて「なんでもありんせん。」と小さく答えた。
「そ。じゃあお梓代は花魁と一緒に材木屋の旦那さまに。」
「梓代、お前もこちらへ来なさい。」
にこにこと手招きしている問屋の隣では、父も同じように目を見開いているのを見た。そしてもう一度ナマエに目をやると、両の手をぎゅうっと握り締めてその拳はぶるぶると震えていた。
目ざとく様子が可笑しいことに気付いた女将が、ナマエを部屋の隅へと手招きする。
ナマエがするすると歩みを戻すと、突然、大きな声が部屋中に響き渡った。
「ナマエ!積もる話もあろうから、こちらへ来い。」
かつての雇い主、そして自分をこの場所へと売り飛ばしたオリオンのそんな言葉を聞いたナマエは、耳を真っ赤にして女将のそばで唇を噛み締めた。
「お梓代、お前、」
「…女将さん、わっちなら大丈夫です、ここで逃げたら花魁や材木屋さんの面目が立ちません。あんなクソじじい知りんせん。見たことだって…、ありんせん。」
ナマエは小さな声でそう女将に呟くと、しゃきっと背筋を伸ばして深呼吸をひとつして、くるりと振り返った。
「ナマエ?まぁまぁぬしさま、どこぞ恋しいおひとのなまえでありんすか。わっちのなまえは梓代でありんす。花魁と同じにお引き立てを。」
良く通る声で言うナマエは、シリウスの目には全くの別人のように映った。シリウスの知っているナマエは、矜持というものをほとんど持たない、従順な女だった。こんな風に胸を張って女を目一杯振りまいてしなりしなりと歩くような女ではなかった。
全く別の、赤い色に染まってしまったおぞましい女の姿だ、とシリウスは思った。
笑いもしない、愛想も吐かない、新造のくせに鼻っ柱の高い様子を材木屋は気に入っていたが、オリオンからして見れば気に喰わない。いつもボロを身にまとって床に額を擦り付けてはい、はいと返事を返すだけだった女が、自分よりも遥かに高い着物や装飾品に囲まれてつまらなそうに酒を注いでいるのだ。
「上手ぇことやってるみたいじゃないだな。お前には最初っから奉公よりもこっちの方が天分だったみてぇだ。」
「旦那、梓代は旦那んとこの奉公人だったんですか?」
「梓代なんて粋な名前じゃない。これの名はナマエだ。私が付けたんだからな。」
オリオンはそう言うとぐいと酒をひとのみした。それにすかさず次を注ぎながらナマエはぼんやりと脳みそを停止させた。何も考えず、感情を捨てるのだ、ここで煮え繰り返った腸を吐露でもしたら、何より花魁に迷惑がかかる。私は人形、私はひとがた、と自分に言い聞かせた。
「だんなさん、ではあんたさんのナマエはもう死にんした。そこにいるのはわちきの梓代。わちきの新造でありんす。」
花魁は小さな声でそう言うと、「ちょいとしし。」と声をかけた。隣にいた先輩の朋輩が「お梓代ちゃんお願い。」と言ってくれたので、ナマエは一礼して席を立とうとした。その時だった。
「シリウスに色目を使ったって無駄だ。武家の娘を娶ったんだ。もうすぐ子供も生まれる。変な真似すんじゃねぇぞ。」
小さく囁かれた言葉に、ナマエは思わず目を見開いてオリオンを見た。その男はこの世のものとも思えぬ醜い顔をしていた。
「なんだその目は。女郎ふぜいがわしに逆らうのか。」
隣にいた先輩女郎が息を呑んだのを、ナマエは感覚でとらえた。ああ、あとで謝らなければ。自分のせいでいやな気持ちにさせてしまった。
「いいえ。」
ナマエは霞みがかった思考回路でそれだけ答えると、花魁に手を貸して部屋を出た。
花魁は部屋を出るとすぐに厠がある薄暗い廊下までナマエを連れて来て、ナマエを振り返った。
「お前、あの金持ちじじいに売られて来たのかい。」
第一声がそれだった。ナマエは苦笑いを浮かべながら頷く。
「そうでありんす。女衒に頼んでそれっきりだったから、細千屋にいたとは知らなかったんでしょうけど。」
花魁はナマエをじっと見て何かを考えた後、ふんっと鼻を鳴らした。
「どうにも気にいらねぇ。女を売るなんて、喰うに喰われぬヤツのするこンだ。」
「わっちが邪魔だったんです。それにわっち、どのみちブラックさまに借金がありんしたから。」
ナマエがそう言うと、花魁はじっと考えたあと、はあと大きく息を吐いた。
「とにかくお前はもうあのじじいにはつかなくて良いよ。若旦那の方につきな。」
「えっ。」
しまった、とナマエは思った。ここはすんなり「あい。」と答えるべきだったのに。普段は気さくなこの人だって、数多の禿の中から引っ込みに選ばれ、お職、格子にまで上り詰めた人なのだ。丁寧に慎重に隠しておかなければ、ナマエの心うちなどすぐに見通してしまう。
「…お梓代、お前、あの若さんが好いたお人なのかい?」
ナマエは俯いたまま首を小さくたてに振った。とてもじゃないが隠せなかった。
「でも、今度奥方に子が産まれるそうでありんす。」
ナマエが言うと、花魁は何かを思案するような顔をした後、くるりと背を返した。
「…分かった。じゃあ尚のことあの若旦那につきな。」
「おいらん!」
「わちきに逆らうのかい、お梓代。」
ナマエはぐっと黙ると、静かに首を横に振って花魁の先に立って部屋へと戻った。
「失礼いたしいす。」
部屋に戻ったナマエは、シリウスについていた先輩女郎にそれとなく交代を告げシリウスの隣に座した。
「梓代と申しいす。」
ナマエはそう一礼すると、土瓶を手にした。
「どうぞ。」
ナマエが酒を注ごうとしても、シリウスは杯も持たなかった。
「ナマエ、」
「わっちの名は梓代でありんす。」
「し、よ?」
「あい。」
ナマエは、膝に置かれたシリウスの手を見た。見知った手よりもひとまわり大きくなっている。もう、自分を撫でてくれた手ではない。
「奥方さまに若子さまがお生まれになると聞き申し上げんした。まことおめでとうございんす。」
「っ、ナマエ!」
今まで反らしていた顔をばっとこちらに向けるシリウスを、ナマエもようやく見ることが出来た。いったいどんな顔をして、その名を呼んでいるのだろうと。
シリウスは、悲しげに眉を寄せ、目には怒りの色を浮かべてナマエを見詰めていた。
「わっちは梓代でありんす、ぬしさま。」
まるで呪文のように、己に言い聞かせるように、ナマエはそう呟いた。
「楽しい話を致しんしょう、ぬしさま。ここはそういう場所でありんす。」
ナマエの言葉に、シリウスは首を横に振った。ただ黙って、穴が開くほどナマエを見詰めるだけだった。そして、そっとその小さな手に触れようと手を伸ばした。
「ぬしさま、てておやさまがこちらをご覧でありんす。」
ナマエはシリウスを牽制するように囁いた。しかしシリウスの手は構わず伸ばされ、ナマエの手をぎゅっと握った。
「ぬしさま、」
「構わない、親父のことなんか。ナマエ、」
「梓代でありんす。」
ナマエは辛抱強く梓代という名を繰り返したが、シリウスには伝わらないようだった。その名で呼ばれるたびに、自分の胸に起こるこの痛みの正体はいったいなんだろう。さっきのオリオンの言葉の破片だろうか。自分で紗をかけてしまった思考回路では分かるはずもなく、ナマエはぼんやりとシリウスの手の温もりに目を閉じた。
***
座敷も終わり見送りも終わり、床の無い遊女たちがようやっと遅い眠りに就く頃、ナマエも部屋へと戻っていた。
シリウスとはほとんど何も話さなかった。何も聞かれなかったから、こちらからも何も聞かなかっただけのこと、後悔などない、そう言い聞かせてはみたものの、胸の奥にはどす黒く渦巻くものがあるのを感じた。なに、とはっきりとは言えないが、確かにそこにあるもの。
「お梓代どん、おいらんが呼んでいんす。」
他の新造や禿たちと寝支度を整えていると、今日花魁の宿直を担当するはずの禿がナマエを呼びに来た。
「姐さんが?すぐに行きんす。」
着替えも髪もぐずぐずそのままにしていて良かった、と思いながらナマエが禿を連れて急いで花魁の部屋に行くと、花魁は険しい顔をして部屋の中でナマエを待っていた。
「お梓代!来たね。」
部屋の中には女将もいた。ナマエが首を傾げると、女将がナマエの着物に手をかけた。
「お、女将さん?」
「をみな、お前も手伝いない!」
女将さんは禿にそう言うと、禿も頷いてナマエの帯に手をかけた。
「待って下さい!これは一体、」
何がなにやら分からぬままにナマエが慌てると、花魁が杖を振ってナマエの両の頬をギュッと押さえた。自然と視線が交わる。
「来月に、お前の突き出しが決まったよ。材木屋の旦那だ。」
「え?」
「ブラックの若旦那が一番奥の床で待ってる。わちきの言ってることが分かるね、お梓代。」
「な、え、」
ナマエは目を見開くと、魔法で動かないはずの首を左右に振った。
「わっちは新造で、突き出しは来月で、」
「だからだよ、だからサ!」
「女将さん、おいらんが、」
ナマエが女将さんに助けを求めようとしても、女将さんはナマエの帯を結びなおすのに一生懸命なふりをするだけだった。
「女将さんも分かってくれた。大丈夫。先にはかされたって、突き出しのときはどうにでも誤魔化せる。突き出しまで馬鹿っ正直におぼこ守ってる方が珍しいンだ、何も心配はいりんせん。」
「いや、わっち、いやです、こんな、」
「こんな幸運は無いよ、お梓代。こんな幸運は他に無いんだよ。」
花魁は興奮気味にそう言うと、いやいやと首を振るナマエに言い聞かせるように繰り返した。その間にも床支度は整って行く。あっという間に床用の着物に着替えさせられた。
「さぁ行きな。若旦那がお待ちだよ。」
花魁が背中を押したが、ナマエは踏みとどまった。
「いやです、わっち、花魁、どうして、」
「行くんだよ梓代!」
「いやっ!わっち、わっち材木屋の旦那で良い!」
痺れを切らした花魁が怒鳴ると、ナマエも負けじと怒鳴り返した。
「聞き分けなんし!」
バチンと大きな音が部屋中に響き渡って、ナマエはぎゅっとぶたれた頬を押さえた。
花魁はナマエを腕ごと抱きしめると、涙声で囁いた。
「聞き分けなんし、お梓代。姐さんの言うことを聞きなんし。好いた男があんたを抱きたいって言って、おぜぜを山のように持って来てンだよ。それを断ってどうすんのさ!絶対に絶対に後悔すンだよ。良いかいお梓代、今日のことを宝物にして、大事に胸の奥に持っておいで。それさえあれば、これから先年季が明けるまでの長い間、お前は狂わずやっていける。姐さんが言うんだよ、分かりなんし。お梓代、聞きなんし。わちきも、女将さんだってそう思ってるからこうやって手ぇ貸してくれンのサ。今は分かんなくっても良い。だけど素直にあいと言いなんし。わちきの言うことを聞きなんし。」
ナマエの震える身体をもう一度ぎゅっと抱きしめると、「良いね。」と念を押した。
「おいらん。おかみさん。」
ナマエが泣きながら顔を上げると、戦慄いた唇にぎゅっと親指を押し付けて、花魁は「化粧が落ちちまうよ。」と笑った。
「お梓代、どのみちおぜぜは戴いたんだ。見世にも松風さんにも気ぃ回すこたぁねぇ。松風さんも言ったが、おぼこを誤魔化すわざなんざ千も万もある。材木屋の旦那のことも、松風さんの面目を潰すようなことにはならねぇよ。」
ナマエはようやく小さく頷くと、小さな声で「あい。」と言った。
「お梓代どん、なぜ泣きんすか。」
床までの廊下を先立って歩く禿が、心配そうにナマエを見上げた。ナマエは首を横に振って「さぁねぇ。」と呟いてから、涙を拭って前を見た。
「さぁさねぇ。わっちにもなにがなんだか分からないのサ。なんで泣くのか、なんで震えるのか。わっちゃいったい、なんに脅えてんだろ。なにが嬉しいんだろ。」
***
「だんなさま、お梓代さん、お入りになりんす。」
小さな禿の声がしてそっと戸が開くと、そこにはナマエが立っていた。似合わない華美な着物を纏って、さめざめと涙を流しながら立っていた。
「ありがとう、をみな。遅くに悪かったね。」
ナマエは小さくそう言うと、履物を脱いで畳に上がった。その姿をじっと見詰めていると、シリウスは、なんとも言えない気持ちがこみ上げて来るのを感じた。手が震えるほど興奮している。それは喜び、怒り、悔しさ、嫉妬、色々なものが混ざり合った興奮だった。
禿が戸を閉めてしまうと、暗い部屋に、本当に二人きりになった。小さな頃から知り合いの二人だったが、こうして部屋に二人きりになるのは恐らく初めてのことだった。二人で会うのはいつも外だったからだ。
「ぬしさま、ひとつ、お願いがありんす。聞き入れて下さるのなら、わっちはどんなことでもいたしいす。」
ナマエはそう言いながらシリウスの真横に座ってシリウスの手を握った。自分が頷くのを見たナマエは、息を吸って吐いてゆっくりと言葉にした。
「名を、わっちの昔の名を、呼ばないでくんなんし。わっちの名は、梓代でありんす。」
シリウスはとっさに首を横に振った。ナマエの涙を親指でそっと拭って、紅が差してある唇にそっと自分の唇を落とした。
「お前はナマエだ。皆が酷い名前だと言おうが、お前が気に入らなかろうが、新しい名をもらおうが、俺にとっちゃお前はナマエだ。」
大げさな結び方をした帯を潰すようにナマエを抱き上げると、シリウスは隣の床の部屋の襖を開けた。あまりに品の無い真っ赤な布団の上にナマエを降ろすと、ナマエは唇を震わせながらますます大粒の涙を流していた。
「なんで震ってんだ。なんで泣くんだ。」
「分かりんせん。でも止まりんせんのです。」
「俺が嫌いか、憎いか、ナマエ。」
思わず口をついて出た情けない言葉にも、ナマエは泣きながらただ首を横に振った。
「分かりんせん、怨めば良いのか、憎めば良いのか。ぬしさま、わっちにゃひとつだって分かりんせんのです。」
首に、谷間に、乳首に、順に唇を落としていくと、ナマエは手の甲を自分の口に押し付けた。そんなに懸命に何を堪え様としているのか、シリウスには分からなかった。
「ナマエ。」
「ぬし さま。」
「名を呼べ。シリウスと。」
ナマエは今度ははっきりと首を横に振った。
「なぜだ。」
シリウスが強い口調で言っても、ナマエは首を横に振った。
「名を呼んだら、戻れなくなりんす。」
「どこへ。」
「いまへ。」
ナマエの言っていることは良く分からなかった。今へ戻るというのはどういう意味だろう。しかし、そんなことは段段とどうでも良くなっていった。白く肌理の整った肌を味わうのに夢中になっていったからだ。
「ああっ、ぬしさ、まっ、」
股の間へと顔を埋めて花芯に舌を這わせると、ナマエは大きく仰け反った。太ももを撫でればそこは粟立ち、誰にも汚されていない素直な身体はシリウスのやる通りの反応を返した。シリウスにはそれがたまらなく嬉しく、そしてたまらなく悔しかった。ナマエがこれからこれを売って生きていくのかと思うと、今ここで殺してしまいたいとさえ思った。
「ナマエ、ナマエ、ナマエ。」
「んうっ、あ、ぬしさまっ。」
獣のようにナマエの身体をまさぐるシリウスは、熱く溶けていく頭で懸命にナマエとのこれからを考えた。これをここから出して自由にするには身請けしか無い。しかしそれには信じられないほど莫大な金がかかる。ナマエを売り飛ばした時の百倍、それ以上の金が。それは、未だ父親が仕切っている店で働くシリウスにとってとても用意出来る金額ではなかった。よしんば用意出来たとしても、父親であるオリオンが生きているうちはとても許しは出ないだろうと容易に想像出来た。
「ナマエ、俺を見ろ。」
「ぬしさま、わっち、は、」
ナマエが涙でぼやけた目をシリウスの方に向けると、シリウスは優しく微笑んだ。その顔が胸に刺さった。
「良い子だな、ナマエ。良い子だ。」
「っ、」
ナマエはいよいよ我慢出来なくなって大声を上げて泣き出した。ひどく悔しく、ひどく情けなく、ひどく悲しく、そしてひどく嬉しかった。
「ひっ、あ、あ、」
声を上げるナマエが愛しい。どうしようもなく、この世の誰よりも愛しい。
シリウスはどんどん重たくなる気持ちに耐えられなくなって、ナマエの唇を貪った。
「お前が愛しい、ナマエ。どうしようもねぇくらい。お前を好いてんだ。」
布団を握り締めていたナマエの手を解いてぎゅっと手を握り、もう一度接吻した。
「あ、や、やめ、ぬしさまっ、あっ!や、あああっ。」
ナマエの中に己のまらを押し込むと、布団よりも紅よりも純粋な赤が伝った。それすら飲み干してしまいたいと思う自分の頭は相当沸いているな、とシリウスの中の冷静なシリウスが考えた。
「ナマエ、こっち見ろ。」
全部をナマエの中におさめひとつになったところで、シリウスははあと息を吐いた。ナマエは鼻水までたらしてえぐえぐと泣いている。
「痛いか、ナマエ。」
ナマエは幼子のように頭をぶんぶん上下に振った。
「そうか、そりゃあすまねぇな。」
その様子に、一瞬昔を取り戻したような気さえしたシリウスは、笑いながらそう言った。
ナマエの高く結い上げられた頭はもうぐちゃぐちゃに崩れていて、それを梳くように撫でると、ナマエがようやくそろそろと目蓋を開けた。
「そんなに何を泣くことがあんだ。」
「ひっ、えっ、んむ、」
しゃくりあげるナマエにまた接吻しながら、シリウスはナマエの胸にそろりと指を這わした。とたんにひくりと縮まる躰を尚愛おしく思うと、細く頼りないその躰をぐいと持ち上げた。
「ひあっ、やああっ。」
ぎゅうと抱きしめると、ナマエは首を横に振りながらもぎゅっと抱き返してきた。
「ぬしさまっ、やっ、やあ、」
「何が嫌なんだ。言ってみろ、ナマエ。」
シリウスが背中を撫でると、ナマエはしゃくりあげながら少しだけ息を整えた。
「わっち、わっ ち、いたいのが いや、むねが苦し いのがいや、ぬしさまが愛しいのが、いやっ。なんもかんもいやっ!」
ぎゅうっと抱きついてきたナマエにどうしようもない気持ちになって、シリウスは一生懸命かけるべき言葉を捜したが見つからなかった。
「ぬしさま、わっちもぬしさまのこと、ほんとにほんとに、シリウスさまっ!」
***
空が白みはじめた頃、シリウスは一晩中片時も放さなかった腕をようやく緩めた。
「結婚しよう、ナマエ。」
何度も繰り返された言葉に、ナマエは同じ回数だけ首を横に振った。
「なんではいと言わないんだ。」
「わっちはそんなこと、少しも望んでないからでありんす。ぬしさまは奥方さまとお生まれになる若子さまを大事になさるべき。そうでありんしょう?」
さめざめと泣きながら小さな声で言うナマエに、シリウスは困惑した。こう言えばナマエは喜んでくれると思ったのに。
「あれとは離縁する。父が死ぬまでの辛抱だ。父が死んだら俺があの店の当主になる。そうすりゃあ、」
矢次に話そうとするシリウスの唇を、ナマエの冷えた指先がそっと押さえた。
「ぬしさまはそんなことを言ってはいけんせんのです。家督を継がれた方がもと下っ働きの女郎めを娶って、いったいどなたがぬしさまの元に奉公するとお言いになりましょ?」
それはその通りだった。しかし、シリウスにはそんなものを跳ね返してなお商いをうまくやっていく自信と才能があったのだ。
「お前はそんなこと考えなくていいんだ。必ず迎えに来る。必ずお前をこんなとこから出してやる。」
シリウスはナマエの両の手をぎゅっと握って言った。それでもナマエは首を横に振ったまま、決して頷かなかった。
「ではもう二度と、こんなとこへはお出で下さんな。ほんの僅かでも、わっちを愛おしいと思ってくれるんなら。」
ナマエの言葉に、シリウスは驚いて、そして動揺した。
「何を言うんだナマエ、」
「その名で!」
ナマエはシリウスの手を振りほどくと、乱した髪をふりながら立ち上がった。
「わっち、その名はとうに捨てんした。ここへ来てはじめにをみなと名をもらい、今はもう梓代でありんす。…ぬしさまのことは心からお慕い申しいす。でも、これ以上のことはもう望みんせん。今日からここで姐さんに恩を返しながらいっちの女郎として生きていきんす。」
「俺が望んでもか。」
シリウスは立っているナマエの太ももあたりを抱き寄せた。
「あい。」
「じゃあなぜ泣くんだ。」
すぐに返事を返したナマエに、シリウスは震える声で問うた。この女を、もう解放してやらなければならない、父がつけたその忌まわしい名と共に。しかし解き放つ先が楼閣など、幼い頃からナマエを愛しいと想っているシリウスには耐えられないことだった。
「先の分からぬこれからが、少しだけ、恐ろしいからでありんす、ぬしさま。懐かしいこれまでが、ちいとだけ、寂しいからでありんす。」
言いながら、ナマエはゆっくりとシリウスの頭を撫でた。
「ご縁があればまたお目にかかることもありんしょう。どうぞそれまでお元気で。」
シリウスは、いよいよナマエの決意を悟らなければならなかった。どうにもならないのだ。
「人生なんて思うに任せぬが道理。分かってたつもりだったんだがなぁ。」
ナマエは赤い色に染まったのでもおぞましくなったのでもなかったのだ、とシリウスは理解した。ひとりたおやかに、シリウスの想像をずっとこえて強くなったのだ。
「ぬしさま。」
シリウスは立ち上がると、ナマエの両肩をつかんでじっと顔を見た。
「梓代、お前の年季が明けてこっから出れたら、一緒に川へ散歩に行こう。そんときお前が俺にもう一度昔の名を呼んでも良いと言ってくれたら、俺はお前のためになんだってやる。親父の分まで、お前に償いをする。だからそれまでお前も気張れ。俺も気張って、店を今の倍にも三倍にもして、誰にも何も言わせねぇくらいになるから。」
シリウスが言い終わると、ナマエはまた涙を流し、今度はしっかりと頷いた。
「…っ、あい。きっと、きっと。ぬしさま。」
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