大きな江戸の片隅で、



しがらみ、のないせかいがあったら、そこへいきたい。
そこでいきたい。

あなたと、ふたり。



【梅の段】



ナマエ。
私が大好きな私の名前のせいで、私はよくいじめられた。

奇麗で、派手で、下品な名前。

代々ブラック家の使用人を務めてきた私の家では、子供が生まれたらその時の御当主に名前を授けてもらうのが習わし。


父様は私の誕生を待たずに死んだ。男手の無い使用人家に情をかける程、ブラックは甘くない。御当主は母様を嘲笑い、生まれたばかりの私に向かってこう言い放ったそうだ。「お前は今日からナマエだ。」と。
母様の抗議の言葉など受け入れてもらえる筈もなく、こうして私の名前はナマエになった。物心ついた時から、何かあると名前を引き合いに出された。それこそ、大人にも子供にも。
意味が分からず何度も何度も泣いたけど、そのたびにシリウス様が苦しそうな悲しそうな顔をして私を慰めにくるから、泣けなくなった。シリウス様には絶対に迷惑をかけてはいけないと、母様にきつく言われていたし、なにより私自身が嫌だったから。私のせいで、シリウス様が辛そうなお顔をなさるのが。だから、それ以来私は人前で泣いたことがない。いつもこっそりシリウス様と同じ名前の星の下で、一人嗚咽を堪えて。別にそれでいいと思った。誰にも迷惑をかけないし、寂しくもない。シリウスが私を照らしてくれる。



「ナマエ、悪ぃんだけども一回行ってきとくれ!」

指先を丁寧に振るって、山ほどの大根のバランスを取りながら勝手口をくぐったナマエに、女中長が声をかけた。

「はーいー。」

ナマエは大きな声で返事をすると、包丁を鬼のような速さで働かせて里芋の皮を剥いていたアリスの横にドサッと大根を置いた。

「これも。」

ナマエが満面の笑みでそう言うと、アリスは心底嫌そうな顔をした。

「早く戻って来て!」

女中長から銭を受け取るナマエの背中に、アリスの恨めしい声がぶつかった。ナマエは退屈な皮剥きを免れ、足取りも軽く行商が集まる橋の近くへと急いだ。今日は当主がお上の人達を招いての食事会を催す。よって人手が足りないため、普段は掃除が中心のナマエ達も買い出しや調理に駆り出されていた。

「おじさん、この籠全部ちょうだいな。」

ナマエは籠一杯の新鮮な穴子を手に入れ、急ぎ足で戻りはじめた。桐のいい香りがする呉服問屋の角を曲がった所で、フワッと籠が浮くのを感じた。

「え?」

ナマエは慌てて籠を捕らえようとするが、籠は勝手に飛んでいく。

「ま、待って!待ちな、」

着物の裾を気にしながら、走りだそうとしたその時、すぐ後ろから控えめな笑い声が聞こえてきた。

「ナマエはいつから籠と会話が出来るようになったんだ?」

ナマエが振り返るとそこには自分が仕えているブラック家の嫡男、シリウスの姿があった。

「シリウスさま!」

途端にナマエは顔を真っ赤にする。その様子がまた面白いらしく、シリウスはさらに笑い声を大きくした。

「み、見てらしたんですか。」

ナマエは小さな手で急いで帯締めと裾を整えた。シリウスはナマエの問いには答えずに、意味ありげな笑みを返すとスタスタ歩きだしてしまった。ナマエは置いていかれまいとあとを追う。

「シリウスさまもしかして、魔法を使われたんですか?」

今のは明らかに浮遊術だった。

ナマエは訝しげな視線をシリウスに投げ掛ける。

「大丈夫。誰も気付いてやしねぇさ。」

悪びれなく言うシリウスにナマエはわざと眉をしかめて見せた。ここは非魔法族居住地区。未成年であるナマエやシリウスは、もちろん魔法を使ってはいけない。驚くナマエに、シリウスは悪戯に笑って見せた。

「しかしすげぇ量の魚だな。女中長は魚屋でも始める気か?」

「今日は上方からお客さんがお見えになる日でしょう。そのためです。」

ナマエが言い終わらないうちに、シリウスはあからさまに嫌な顔をした。

「あーあ面倒だなぁ。どうせ親父の退屈な話に“はっ”とか“まことに”とか言って何時間も相づちを打ち続けるだけ。こんな拷問ってあるか?」

シリウスは大きく手を上げて、悲劇的な声を出した。ナマエは曖昧に笑って返す。シリウスの気持ちは分かるが、使用人としては主人を侮辱するわけにはいかないのだ。ナマエの複雑な心情を知ってか知らずか、シリウスは突然パッと笑うと、少し走って回り込むとナマエの前に立ち塞がった。きょとんとするナマエに向かって、楽しそうに話し掛ける。

「なぁ、これから一緒にどっか行かないか?」

大人のように両の袖口に手を突っ込んでナマエを真っ直ぐ見据え、目を輝かせて。シリウスの表情にナマエはドキッとしたが、顔には出さなかった。

「私、急いで戻らないと女中長さんに叱られます。」

苦笑いして先を急ごうとシリウスを促す。

パシ

が、シリウスはすかさずナマエの手首を掴んで動きを止めた。ナマエは何事かと弾かれたようにシリウスを見上げた。

「俺がナマエの代わりに女中長に怒られるから。な?そんならいいだろ?」

ナマエは首と捕まれていない方の手をブンブン振った。

「そんなこと出来ません!」

「何で?」

「何でって…シリウスさま。」

あぁ、もう、丸め込まれてしまった。ナマエは観念したように、腕の力を抜き軽くため息をついた。そんなナマエを見たシリウスは、満足気にニィっと笑うと手を握ったまま歩きだした。ナマエも慌てて歩きだす。


長屋の脇を抜けるまで、シリウスは無言だった。口数が少なくなるときはいつも、怒っているか深い考え事をしている時だとナマエは知っていたので、黙って歩く。町外れの竹林に近づいたとき、シリウスはようやく口を開いた。歩くスピードを緩めて、繋いだ手にほんの少し力を込める。

「なぁ、ナマエ。」

「はい、何でしょうシリウスさま。」

急かすでもなく柔らかく笑って、かなり身長差のあるシリウスを見上げた。

「ナマエは、さ…、」

シリウスらしくなく、言葉を選んで言い淀んでいる。竹林を少し入った所で立ち止まり、自分の方に向き直った。いつになく真剣な顔で、ジッと見つめてくる。

「ナマエは、今、幸せか?」

恨んでないか?俺を、親父を。シリウスは、一言一言確かめるように言った。

ナマエは一瞬ポカンとした後、ゆっくり目を伏せて儚げに笑った。

「幸せです。」

小さな声で、しかしきっぱりと言い切った。

「私は、シリウスさまに気にかけてもらえることが、何より嬉しいですから。」

シリウスは眉を寄せてナマエを見た。きっと、強がっているようにしか聞こえなかったのだろう。

「本当ですよ。名前のことも、恨んでなんていません。」

「それでも俺ぁ…、」

「それなら、」

深刻な顔で続けようとするシリウスを遮り、ナマエはにっこり笑って言った。

「時々、こうしてお散歩に誘ってください。」

ナマエのその笑顔があまりに可愛かったので、シリウスはすっかり問う気を失った。

「私には、それが幸せなんです。」

人の幸せは、それぞれでしょう?ナマエは力強い視線でシリウスを射ぬいた。シリウスは微笑んで、頷いた。

「そんぐらい、約束するよ。」

「絶対ですか?」

「絶対だ。」

「すごくすごく嬉しいです。」

シリウスはこの時気付かなかったのだ。ナマエがどれほど真剣にシリウスの質問に答えたのか、ナマエにとってこの質問がどれほどの意味を持っていたかを。ナマエにとって、シリウスはただの主人の息子という存在に留まってなどいなかった。


「さぁさぁ、もう戻らないと、本当に怒られちゃいます!女中長にも、アリスにも。」

今度はナマエからシリウスの手を握って、歩き出した。しかし、軽く引っ張ってもシリウスは動かない。

「シリウスさま?」

ナマエは不思議に思って後ろを振り向いた。

「俺も、ナマエといるときが何より楽しい。何より休まる。」

これ以上ない、優しい眼差しでナマエを見つめるシリウス。ナマエは、自分でも顔が赤くなっていくのを感じて、慌ててシリウスに背を向けた。

「そんなことしても無駄だぜ、耳まで赤いから。」

「シリウスさまっ。」

「ナマエは愛いな。」

シリウスはクツクツ笑っていたが、すぐに笑い止んだ。

「こっち向け。」

ナマエが頑なに拒否していると、シリウスは悪戯を思いついたように口角を引いた。そして、後ろからそっと両腕を回し、ナマエを抱き寄せた。

「シ、」

「ちいっとだけ。」

ますます焦ったナマエを余所に、シリウスはナマエの肩に頭を沈め、首筋に唇を寄せた。

「ちいっとだけ、このままで。」

首筋にあるシリウスの唇から、言葉に合わせて熱い吐息が感じられる。ナマエは、まるで金縛りにあったようにカチンカチンに固まってしまった。サラサラと竹の葉が鳴る音の他は、何も聞こえない。心臓の音まで聞こえてしまいそうな程、静かだった。

「ナマエ。」

「はい。」

「ナマエ。」

「…シリウスさま。」



***



事は、大抵、何の前触れもなく起きる。

「ナマエに暇を取らせた?」

数日後、シリウスが父親に呼ばれて部屋へ行くと、いきなりナマエとその母親を解雇したと伝えられた。

「そんな、何故です!?ミョウジは、我が家の為に良く働いてくれ、」

「黙れ!」

広いブラック家の武家屋敷中に響き渡る声で、父親が叫んだ。

「おぬし、恥を知らんか!ブラック家の嫡男ともあろう男が使用人ごときにウツツを抜かしおって!」

「父上っ!」

「あんな女、妾にもならん身分ぞ。」

上座に座っていた父親は、勢い余って立ち上がった。シリウスも負けじと立ち上がる。身長ではまだまだ買っている父親だったが、シリウスのあまりの剣幕に少し押された。

「貸しておった金は全て返させた。もうあんな母子に用は無い。」

「返させた?どうやっ、」

ブラック家にとっては大した額では無いものの、ナマエ達には到底返すことなど出来ない金額の借金だ。シリウスは一瞬言葉を切った後、激情して父親の胸倉を掴んだ。

「父上!ナマエを売ったと申すのか!!」

父親はシリウスの手を掴み、蔑む様に答えた。

「おぬし、まさかあのような若娘を慰み者にしてはおらんだろうな?おぼこと言って高値を付けさせたのだから。」

シリウスは絶句した。呆然と、ただ荒い呼吸をこなすだけで、何も考えられなかった。否、考えなければならないことが多すぎて、思考回路がオーバーヒートを起こしていた。

「手を放せ、シリウス。」

父親は、脱力したシリウスの手をするりと解いた。それを合図にしたかのように、シリウスは弾かれた様に走り出した。

「待て!シリウス!」

「待たない!恥を知るのは貴方の方だ、父上!」

「な、何を、」

「自分が望んだ女の娘だからといって、ナマエに何の罪がありましょうか!?」

シリウスの吐き捨てた言葉に、父親は絶句して腰を抜かした。



シリウスは走った。形振り構わず、息を切らして。途中で草履が脱げようが、着物の裾が乱れようが、道行くものが振り返ろうが。

「ナマエ!ナマエナマエナマエ!!」


何回呼んでも、どんなに大きな声で呼んでも、ナマエは見つからなかった。


いつもの買い物道中、町外れの川、2人で行った竹林、江戸のあちらこちらがナマエの影を彷彿とさせるが、本人はどこにもいない。胸は誰かに抉られように痛み、張り裂けそうだった。ナマエにもう会えないのではないかと考えるだけで、上手く呼吸が出来ない。目の前が真っ暗になり、意識が遠のいていった。それでも身体は勝手に動いて行く。売られた娘が行く場所へと。

「ナマエナマエっ、ナマエ、ナマエナマエ、ナマエナマエナマエ、ナマエ、ナマエナマエ、ナマエ、ナマエ、ナマエナマエ、ナマエナマエっ!ナマエナマエっ、ナマエナマエ、ナマエナマエ、ナマエナマエナマエナマエナマエナマエ!ナマエ、ナマエっ、ナマエ…、ナマエ。」

シリウスは、呪文のようにナマエの名前を繰り返した。いつものように、名前を呟けばナマエが現れると信じて。


江戸の街中は箒が禁止されている。それをこんなに恨めしく思ったことは無い。姿あらわしは一定の年齢に達しないと番所から許可が下りない。

走って走ってようやく辿り着いたのは、吉原大門。立派な門は、昼見世の時間もまだなので、静まり返っていた。出入りしているのは、酒や花を抱えた商売の男達だけである。息も絶え絶えに中に入ろうとすると、いきなり門番に止められた。顔を見れば、どうやら怒られるわけでは無いらしいが、シリウスのことを何か珍しいものを見るような目で見ている。

「ようよう若さん、元服したらまた来な。」

門番は、シリウスの髷を見ながらそう言った。シリウスは、忌々しく思いながらも尋ねる。

「人を、知り合いが、ナマエという娘がここへ来なかったか。」

「さぁねぇ、そんなのは週に何人もくるからねぇ。」

「俺よりいくつか下の女なんだ。」

「うーん、来たかもしんねぇけど。」

その男が言葉を濁していると、隣の門番が口を挿んできた。

「若さん無理だよ、諦めな。」

「何がだよ。」

怒鳴りたい気持ちを必死に抑えてそう尋ねる。

「いっぺんここへ来た女が出られるのは、身請けされる時か死んだ時かさ。」

「…。」

「ま、諦めるこった。」

諦める?諦めるってなんだ?

「ナマエ、ナマエという名前なんだ。せめてナカに来たかどうかだけでも調べてもらえないか。」

「ナマエ?そりゃここでの名前かい?随分派手な妓名だねぇ。」

シリウスは、鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。

自分は、何をしているんだ?ナマエに会って、どうするつもりなんだ。自分の父親が売り飛ばしたっていうのに。自分の父親が、ナマエという名前をナマエに負わせたのに。

「…違う。今までの、今の名前だ。」

「へえぇっ?」

「そりゃ随分と、まぁ。」

やめろ。それ以上聞きたくない。

「お願いだ、それだけでもいいから教えてくれ!」

シリウスの切羽詰った様子に押されてか、門番は渋々といった様子で頷いた。

「今日の夜、聞いといてやるよ。」

「明日、昼見世の前にまた来な。」

シリウスは一礼してから門を後にした。とても家に帰る気にはならなかったので、町中を当ても無くフラフラと彷徨った。買い物帰りのナマエがいやしないかと、人混みに目をこらす。いそうでいない。どこにもいない。



「やぁ、シリウスじゃないか。」

「…ジェームズ。」

フラリと川原で川を眺めていたら、シリウスの親友であるジェームズが袖に腕を突っ込んで立っていた。

「君の家の女中が売られたって?」

ジェームズは、江戸でも随一の早耳だ。一体どこから情報を収集しているのか不思議なくらい。シリウスが黙りこくっていると、ジェームズは小さく笑った。

「ナマエだろ。君が大好きな。」

大好き、大好き、大好き。ジェームズの言葉がシリウスの頭の中で何度も何度も繰り返される。

「大好き?そんなんじゃ、ねぇよ。」

そんな言葉で片付けられるものか、シリウスは心の中でだけ、ジェームズの言葉に反論した。

「へえ?そうかい。そんならいいけどね、僕ちょっと小耳に挟んだもんだから。」

ジェームズは、飄々と言ってのけた。

「何を。」

「ナマエに良く似た女子がさ、連れ立って東海道を行くのを見た人があるってよ。」

ジェームズは、ニコニコと笑ったまま立ち去った。シリウスはその場に崩れ落ちるように座った。川縁の砂利が何もかも嫌になるほど冷たい。ナマエと夕焼けを見に来たときは、気にならなかったのに。

「ナマエ。」

「シリウスさま!」

聞き間違えるはずが無い。間違う事無きナマエの声。心の底から望んだナマエの声。…だったらどんなに良かったことだろう。シリウスが聞き間違えるはずも無かった。

「アリス。」

そこに立っていたのは、息を切らせた使用人。ナマエと大層仲の良かった古馴染みだ。

「シリウスさま、旦那様と奥様がお探しでございます。」

この女は、賢い女だ。それを言いに来たのでは無いことはすぐに分かった。

「何か知ってんのか。」

ほとんど確信だった。アリスは頷いて、懐から紙切れを取り出した。

「これを預かりました。ナマエちゃんから、シリウスさま宛てでございます。」

アリスが震える手で差し出したそれは、ボロボロの紙切れだった。誰か家のものの書き損じだろうか、裏には達筆な走り書きが施されていた。

「どうかどうか、ナマエちゃんを探さないだげてください。」

アリスから出た言葉は、思いがけないものだった。

「何だって?」

思わず聞き返すと、アリスは唇を震わせた。

「ナマエちゃんは、あの屋敷でとても苦しんで生きて参りました。残酷なことを申すようではありますが、家督を継がれるシリウスさまがナマエちゃんのために御出来になることなんて、何一つだってありゃしないんです。どうぞ、探さないだげて下さい。」

アリスは泣きながら一気にそう言うと、「お早くお戻り下さい。」と言って去って行った。文とも呼べないそれを震える手で開くと、いつの日かシリウスが教えた文字が連ねてあった。ナマエは覚えが良く、拙いながらも誤字脱字などはほとんど見受けられなかった。


わたくしは、ぶらっくさまのおやしきではたらくことができて、ほんとうにしあわせでございました。おそばでおつかえできなくても、わたくしはいつでもしりうすさまのごたこうをおいのりもうしあげております。どうぞ、おからだにおきをつけて、おげんきで。                      ナマエ


他に、何か無いのか。思い切り怨み辛みを連ねたらいいだろう。最初で最後の文なんだから。

「うっ、ナマエっ、ナマエ。ナマエナマエ。」

これじゃあまるで、恋文じゃないか。


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