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試乗から1週間と少しした平日の夜、お互い仕事の後に待ち合わせて和食居酒屋に入った。自宅最寄駅近くの、高すぎも安すぎもしない手頃な居酒屋を俺が指定した。個室がある、うるさくない、鮭大根がある稀有な店だ。

鮭大根が届いて箸をつけた俺を、彼女がテーブルの向かいからまじまじと見つめた後でふっと笑った。

「本当に好きなんですねぇ」

噛んで噛んで飲んでから頷いた。

「鮭大根を置いてる店は少ない」
「そんなお店が近くにあって良かったですね」

同僚達の間では苛々されることが多い俺の食事のペースを、彼女は尊重してくれた。
会話は途切れがちで、恐らく一般的には楽しい食事には見えないだろうが、俺は彼女との沈黙が苦ではなかった。彼女にとっても同様であればいいのだが。
彼女はラミネート加工されたメニューを手に取って眺めていた。時節柄、片面は恵方巻き、もう片面はチョコレートのデザート。

「冨岡先生は女の子たちからたくさんチョコレートもらってそう」

丁度口に含んだところだったビールを危うく噴き出すところだった。

「…いきなり何だ」
「ほらぁバレンタイン限定デザートですよ。去年はいくつもらったんですか?」
「………数えないし、覚えてない」
「思ったよりすごそう!」
「それより、そっちは仕事に何か変わりがあるのか?」
「仕事?」
「…クリスマスの頃に伊黒と話していて、この時期パティシエは忙しいんだと叱られた」

言い終えてから、これではその時期に誘おうとしていたのを白状したことになったろうかと気付いたのだが、当然取り戻せない。
それで内心肝を冷やしながら彼女の顔を窺ったのだが、これといって動揺の見られなかったことが良いのか悪いのか。

「クリスマス時期は蜜璃ちゃんも忙しいから、小芭内くんも寂しいですよね。バレンタインはそこまでではないかなぁ…デザートブッフェやるけどそれなら苺フェアの方が大きいし」

「そうか」と答えつつこの胸を占める虚しさは何だろうかと溜息の出る思いがした。
警戒されないよう彼女への好意を隠しているのは俺だが、それでも、既婚者の伊黒が警戒されないのと俺の好意がちっとも伝わらないのでは意味が違う。しかも前々から気になってたが『小芭内くん』って何だ、羨ましい。

「…スピーチの時には『伊黒さん』だったろう」
「はい?…あ、呼び方。蜜璃ちゃんがなかなか伊黒さん呼びが抜けないから、一緒に変えようよって」
「ふぅん…」

ビールの半分残るグラスを持ち上げて揺らしていると、正面からぽつりと「義勇さん」と。
俺が目を丸くすると彼女が「あれ、違いました?」と悪戯っぽく笑った。

「お世話になってばっかりだけど、義勇さんとは仲良しだと思ってますよぉ」

そこではたと気付いた。彼女はそこそこ酔っている。そういえば、結婚式二次会でも愚痴を零してしまったと後から謝り倒していた。
酔うと緩くなるたちらしい。

「…全く、明日になって覚えてないなんて言うんじゃないぞ」
「記憶なくしたことはないです〜。それよりですよ、義勇さんこそ私の名前覚えてます?そもそも知ってます?ずーっと『そっち』とか、誤魔化してばっかり」

確かに名前を呼ぶのを避けてきたことは図星なのだが、覚えていないのでは勿論ない。
呼びたいとは思いつつ、苗字では冷たい、名前では馴れ馴れしいかと迷っている内に言い出せなくなっていただけだ。
そんなことより唇を尖らせているのが可愛い。

「ミズキ」
「へ、」
「勿論知ってるし呼びたかった。『仲良し』なんだろう、構わないな?」

しばらくきょとんとした顔をしてから、彼女改めミズキは幼く嬉しそうな笑い方をして、俺に向けて手のひらを見せた。ハイタッチでも求めるような構えだったのでテーブル越しに手のひらを合わせてみると、ミズキの細い指が俺の指の間を割ってきゅぅっと握った。

「ふふー、仲良し」

握られていない方の手で自分の口元を覆った。
氷水を張った洗面器に顔を浸したいほど熱いのが情け無い。手を繋いで『仲良し』宣言されたぐらいで本気で照れるなんて中学生と大差ない。
ただ釈明させてもらえば相手が可愛すぎるのが一因だ。取材をする時の真剣さや普段の落ち着いた様子から、この無邪気な笑顔が想像出来ない。
成程これが世に言うギャップ萌えなるものかとひとつ見識が深まった。

その後もひとしきり飲食して、帰る前にミズキがトイレに立った隙に店員を呼んで会計を済ませた。
戻ってきた彼女が伝票の無いのに気付き、店員を呼ぼうとするので「済ませた、出るぞ」と個室を出ると、後ろから怒った声が追い掛けて来ることの心地良いこと。

「もー!なんのために今日来てもらったと思ってるんですか!」
「一緒に食事をするため」
「ちっがっうっ!私から、義勇さんに、お礼をする会だったんです!私が出すんだったの!」
「楽しかったから満足してる」
「私だってたのしかったってそうじゃなくてですね!今度!また今度リベンジします!」

ぷりぷり怒っている様も少し幼くて可愛らしい。
そして図らずも次の話をミズキからされたことに内心浮き足立っていた。差し当たり今は、酔った勢いでまだ秘めておくべき言葉を吐露してしまわないように気を引き締めておかなくてはいけない。

駅前からミズキの自宅までを歩きながら、冷たい夜風が頬に心地よかった。
酔いが覚めてもミズキがこれまでに言ったことをきちんと覚えているようにと願いつつ、同時にもっと酔ったところを見ていたいと願うのは男の性というもので致し方ない。
ミズキの足元に酔いが見られれば支える口実に肩を抱くことも出来ただろうが、幸か不幸かふらつく様子はなかった。
それでも、会話の途中で俺を見上げる笑顔がいつもより緩い感じがするのは気のせいではなさそうだった。この少し幼い笑顔を彼女の同僚たちは見ることがあるのだろうかと思うと、筋違いだが嫉妬心が湧く。早く、他の男と飲みにいかないでほしいと口を出せる身分になりたいものだ。

考えながら歩く内ミズキのアパートの足元に着き、彼女が俺に向き直って一度頭を下げた。
上体が起きるとミズキは少し困ったような情けない顔をしていた。

「結局私が呼びつけてご飯ごちそうしてもらっただけになっちゃった」
「言っただろう、楽しかったし満足した」
「もーそういう問題じゃないんですよ、次は私がだしますからねっ」
「分かった分かった、楽しみにしてる」
「なにかわるいこと考えてそう」
「否定はしない」
「わるいひとだ、先生なのに」
「そうだな」

正直こうしてミズキの隙を突いて金を払ってしまえば、また次、その次と会う口実が出来るなとは思っていた。さすがに引っ掛かってくれるのは甘く見ても次までだろうから、他の方法を考える必要がある。
とにかくまた可愛い顔でむくれているミズキに俺は手のひらを向けた。

「そろそろ機嫌を直してくれ。『仲良し』なんだろう?」
「…それ言ったらコロッと許しちゃうと思ったら大間違いですからね」

と言いつつ、ミズキは律儀に手のひらを合わせてくれた。冷えた指を割って今度は俺が握ると、遅れて彼女の指先が俺の指の根本辺りを緩く握った。
握ってしまってから『もしかしてこれはセクハラになるのか?』と一瞬不安が過ったが、ミズキはむくれていた表情をゆるめて「仕方ないなぁ、仲良しのよしみです」と言った。

「それじゃぁおやすみなさい、義勇さん。今日もありがとうございました」
「構わない、おやすみ」
「次は私ですからね」
「分かった分かった」

離れていったミズキの手こそ冷たかったはずなのに、手の触れていたところはひゅうひゅうと寒く寂しく感じた。


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