不死川実弥の場合
オフィス街の隅にあるこのカフェでバイトを始めてもう随分長い。場所柄サラリーマンのお客様が多くて、初めの内はどの人も同じに見えてしまっていたけれど、今ではドアの開け方で判別出来ちゃう常連さんもいるくらい。
ただ、そんな中でも、バイトを始めた直後から見紛いようもなくその人と分かる常連さんがひとりいた。白銀の髪をして、顔に大きな傷跡が走り、クールビズ期間でなくてもネクタイをせず、でもいつもベストを着ていて、ワイシャツの襟元を大きく開けている。正直初めて拝見したときには『その道の方?』と思って、注文を伝票に書く手が震えた。
明らかにビビッている私(当時大学2回生)にその人は、「ビビらして済まねぇなァ、これでも一応堅気なんで安心してくれ」と冗談を交えて緊張を解いてくれた。

お客様のことだから深入りはしないけれど、きっと近くの企業で働く、多分営業さんなんだろうなぁ、とだけ思っている。その人はいつも夕方に来て、テーブルにノートパソコンを出して真剣な顔で30分くらい何か作業をしていく。いつもコーヒーと、(外見に反して、と言うと失礼だけれども)甘いものを注文する。眉間に皺を寄せて画面を睨みながら手探りでドーナツを齧っていたときには、失礼ながら何だか可愛いなぁと思ったことは良い思い出。

だけどもうそれも見られなくなってしまう。迫る卒論と就活を理由に、この度バイトを辞める決心をしたからだ。しかも最終日の今日は早番だから、いつものあのお客様が来る時間帯にはもうお店にいない。最後に挨拶くらいしたかったな、でもカフェ店員から『実は今日が最後なんです』なんて言われても困っちゃうよね。『だから?』ですよね。

最後のランチタイムが過ぎたところで、マスターからお昼ご飯を食べるように言ってもらって、いつも通りサンドイッチとコーヒーをトレイに載せて空いた客席へ出た。
これも最後かぁ…と思うと寂しくなって、何となく、いつものあのお客様がよく座る席に座った。店内を見渡してみて、感慨に耽った。この席からは今日まで私の定位置だったカウンターの場所がよく見えるんだなぁ、と最終日にして新しい発見。考えてみれば、私の定位置からこの席がよく見えるおかげで、あのお客様がしかめっ面でドーナツを齧るところを拝見できたわけだから、逆もまた然りなのだ。

チェーン店でない落ち着いた内装、優しいマスターと常連さんたち、コーヒーの香りと手作りのサンドイッチ、私はここが大好きだった。
しんみりしながらサンドイッチの角に噛り付いたそのとき、ドアの内側についているベルが覚えのある鳴り方をした。店内に現れた姿はいつもこの席に座るあのお客様で、私はサンドイッチに噛り付いた間抜けで半端な格好のまま、目を丸くしたその人とバッチリ目が合ってしまった。

「すすすみませんすぐ退きます!あ、いらっしゃいませ!」

咄嗟に口に入れていた部分だけは齧り取ってもごもごと口の端に寄せ、立ち上がった。

「アーいや、いい、座っててくれ。…隣いいかァ?」
「もちろんっ、あ、ご注文を…」

カウンターの内側へ伝票を取りに行こうとするのをマスターに「いいからいいから」と宥められて、結局元の席に収まってまるでお客様かのように、いつものお客様がコーヒーを注文するところを眺めることになってしまった。

「すみませんマスター、私バイト中なのに…」
「いいんだよ、ミズキちゃん今日が最後なんだから」

「ではお客様、ごゆっくりどうぞ」と笑顔を残してマスターはカウンターの中へ帰っていった。
何となく、コーヒーを待つお客様の隣で自分だけサンドイッチを頬張るのは憚られて、気持ちお行儀よく座った。隣のお客様、今日はノートパソコンを出されないみたい。あと、甘いものも注文しなかった。
気になってちらっと盗み見ると、何と目が合った。

「…今日はおやつ、召し上がらないんですか?」

その人は私が話しかけてくると思わなかったようで、少し目を丸くした。

「…さっき昼を食ったばかりなんでなァ」
「あ、ですよね、いつもと時間が違いますもんね」

そうだ、いつもよりかなり早い時間に来てくださったからこそ、こうして隣り合っている。

「今日お会いできてよかったです。早番で、いつもの時間だともう上がっちゃってたから」
「…ここ辞めんのか」
「そうなんです。卒論と就活が迫ってるので」
「そうかい」
「はい。今までお世話になりました」
「世話んなったのはこっちと思うがねェ」

その人がくつくつと笑ったところで、コーヒーがきた。
なんと、ものすごーく男前だなぁとは思っていたけれども、笑うと可愛らしくていらっしゃる。ドーナツの件といい、ギャップに事欠かないお客様だ。
お客様がコーヒーに口を付けたところで、私もお昼ご飯を再開する。なるべくサクサク食べ進めて口の端を指でそっと確認して、席を立った。バイトが寛いでちゃいけないし、このお客様のカップを下げたりお会計は折角だから自分でしたい。

「お邪魔しました、ごゆっくりどうぞ」

にっこり笑って自分のトレイを持ち上げたところで、そのお客様がトレイの端をそっと掴んだ。
私が驚いてその人を見ると、薄紫の綺麗な目も私を見ていた。
その人の手がトレイから一度離れて、もう一度伸びてきたと思ったら、手のひら大の紙をトレイの端にそっと載せた。

「いきなりだが、怪しい者じゃねェ…気が向いたら連絡くれ」

トレイの端のそれは、名刺だった。
不死川実弥さん、やっぱり営業部のひとなんだぁ…とボンヤリしていて、そこではたと気が付いた。『連絡くれ』って、これはつまり、今後関係を保っていきたいと、そういうこと…!?

「…ちゃんと裏見ろよォ」

ポケッとしたまま私は何度か頷いて、カウンターの内側まで急いで戻った。
トレイを置いて名刺の裏を確認すると、ばっちり個人情報と思しき電話番号とIDが書いてあった。
あと冷静に見たら、私でも知ってる大企業の名前が書いてあって、もう一段びっくりした。

お客様改め不死川さんを見るともうノートパソコンを出して作業を始めていらっしゃって、その真剣な眼差しにこれまでよりドキドキしてしまう。
不死川さんは今回も30分くらいで作業を終えて席を立ったのだけれど、レジを打った私にニッと笑って「そんじゃ、またなァ」と言い残して去って行かれた。

かくして私は完全に、いとも簡単に、射止められてしまったのだった。


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