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施設を出てから恐らく来た道を戻ったんだと思うが、どうやって帰ったもんか記憶はない。気付くとミズキ先生のマンションの前にいて、花の配達伝票で部屋番号を見てチャイムを鳴らした。応答なし。研修とやらがまだ終わってないんだろうか。
エントランスから出て花壇の縁に座った。脳天にぽつんと雨を感じて続いてもう1滴、肩、背中、背中、と雨が降り出したけどそのまま座っていた。

大体俺は先生に会って何を言うつもりなんだろうか。いやそれ以前にどのツラ下げて会えばいいのか。勝手に温室育ちの苦労知らずと決めてかかって、やっかんで。
雨が強くなってきて髪から滴って、俯いた顔に伝って落ちていった。背中も服の中にまで染みて気持ち悪く張り付いた。それでも、雨で何が流されるわけでもないのに雨に打たれていたかった。いや、『いたかった』というよりも、それぐらいが丁度いいと思った。

「不死川くん…?」

頭の上から声がして、顔を上げるとミズキ先生が傘に俺を入れていた。半信半疑という声だったのが顔を見て驚いたらしく、慌ててハンカチを出して頭やら肩やら押さえた後、俺の手首を掴んで立ち上がらせた。「おいで」と言われて、俺はガキみたいに黙りこくったままつられて歩き出した。
エントランスを抜けてエレベーターに乗り部屋の前まで、俺の歩いた後にはずっと水が落ちていて、玄関に入って突っ立っていると足元には水たまりができた。
「ちょっと待っててね」と言い残してミズキ先生はドアの向こうへ行って、すぐに水の音がし始めた。もう一回ドアが開いて戻ってきた手にはクリーム色のバスタオル。それを俺の頭から被せて、でかい犬を拭く要領でわしゃわしゃと手を動かした。
俺はボーっとした頭で『何かあったけェな』と思ってて、タオルの合間からミズキ先生の必死そうな顔が見えたときにその細い手首を捕まえた。片方の手首を掴むともう片方の手も止まって、「痛かった?」と聞かれた。

「ごめん」
「え?」
「ごめん」

ミズキ先生はしばらく『ごめん』の理由を考えるように黙っていて、「お風呂に入っておいで」と言った。

「脱いだものは洗濯機に入れちゃってね。私はコンビニで下着だけ買ってくるから、服はどうにかする」
「…」
「ほら、お風呂。風邪引いちゃうよ」

促されるまま靴を脱ぎ、さっきミズキ先生が出入りしたドアに押し込まれた。財布とスマホを化粧台に置いて服を脱いで洗濯機に放り込んで風呂に入ると、じわじわと凍っていた手足が解けるような感じがした。脱衣場にミズキ先生の気配がして洗濯機を触る音がして、「じゃあ、すぐ帰ってくるから」と声がして、足音、ドアの音、鍵の音と続いて、その後はポッカリ穴が開いたように静かになった。
しばらくぼんやりと湯舟から出た自分の膝を眺めていると、鍵の音、ドアの音、足音が聞こえて、ミズキ先生の声が「ただいま、下着使ってね。服とタオルも置いてあるから」と言った。
服。俺が着られるような大きさの服がここにあるのか。彼氏だろうか。バレたら俺殺されるかもな。温まって頭はようやくまともに動くようになってきたが、全く普段通りまで回復してから振り返ったら『そこじゃねェだろ』ということばかりなんだろうとは自覚しつつの思考だった。

風呂から上がって脱衣場に出ると、さっきと同じクリーム色のバスタオルが新しく用意されていた。頭から被ると温かくて柔らかかった。封を切って下着を穿いて、置いてあった服を掴み上げると、ミズキ先生がシャッターに絵を描いていたときのと同じ白いツナギだった。絵具は付いてない。成程。着て、財布とスマホを持って出ると、ミズキ先生がドライヤー片手に振り向いた。

「サイズ大丈夫みたいでよかった。ネットで買ったんだけど、サイズ感が分からないまま買ったら大きすぎちゃってね。でも取っとくものだねぇ」
「彼氏の服かと」
「はは、いないよ。ドライヤーしよ、おいで」

ミズキ先生はソファに座って、その足元をぺしぺし叩いた。言われるまま犬みたいにそこに座ると頭に温風が当たって柔い手が俺の髪を掻き混ぜた。
目の前のローテーブルでドライヤーの余波を受けて何かがひらひら動いていると思ったら、皺くちゃの配達伝票だった。ポケットに入れっぱなしだった。
頭を乾かされながらまた小さく「ごめん」と呟いた。ミズキ先生に聞こえたかは分からない。その内髪は乾いてドライヤーの音は止まって、優しい手がぽんぽんと俺の頭を確認して「いいよ」と言った。

「コーヒー飲む?」

俺が頷くとミズキ先生は一度キッチンに引っ込んで、色々作業する音をさせた後にマグカップをふたつ持って戻ってきた。目の前に湯気の立つマグカップが置かれたとき、俺は改めて「ごめん」と口に出した。ミズキ先生は俺の横に座った。

「お花、不死川くんが届けてくれたの?」

頷いた。

「ありがとう。ごめんね、びっくりしたでしょ」

首を振った。

「温かいうちに飲もうね」

コーヒーを口に含むと苦くて甘い味がした。

「…ミズキ先生のことを、楽に生きてそうだって決めつけてた」
「楽に生きてるよ。母の貯金があったから施設に払うお金が用意できたし、兄弟もいないから学費の心配もないし」
「金のことだけじゃねェ」
「不死川くんみたいな苦労をしたことないのは本当」
「親父さんのことも聞いた」
「そっか、まぁ…困った人だったかな」

ミズキ先生は懐かしいみたいな顔で笑った。

「笑うんじゃねェ!怒れよ!」
「…」
「借金の穴埋めに娘の絵売ろうなんて親のすることじゃねェ!最低のクズ野郎だろうが!」
「うん」
「何で笑ってられんだよ!怒れよ!」
「たくさん怒ったよ」

ミズキ先生は困ったように笑って、俺の頭をさわさわと撫でた。

「悲しかったし、情けなかったし、お母さんが病気になったのはあの人のせいって恨んだし、正直今も許せてるかどうかは分かんないの」
「…」
「でももう死んじゃった。ゴミ捨て場のストーブを持って行こうとしてて、爆発したんだって。そんなことある?って感じでしょ」
「…」
「死んだ後の市役所のこととか、色んな手続きが済んで落ち着いたときにね、何だかむなしくなっちゃって」
「…」
「絵の1枚くらい、あげればよかったって、思ったの」
「…」
「不死川くんもお父さんが嫌い?」
「吐くほど嫌いだ」
「うん、わかるよ。自分に半分その血が流れてると思うと抉り出したくなるよね。穢れてるような呪われてるような気持ちがするの」
「する」
「でもね、私不死川くんのお父さんのことは知らないけど、不死川くんは優しい人だって知ってるよ。不死川くんは私の父親のこと知らないけど、私が穢れて呪われてるとは思わないだろうし。抉り出した方がいいと思う?」

そんな『もうちょっと前髪切った方がいい?』みたいなノリで聞くなよ。
俺は首を振った。

「ありがとう。同じことで誰かが怒ってくれると、優しい気持ちになれる」
「…こんなんただの八つ当たりだ」
「私は救われたよ。不死川くんもいつか怒り終えて、優しい気持ちになれるよ、きっと」
「俺は優しくねェ」
「優しいよ、信じなさい」

ミズキは優しく目を細めて、隣から俺を抱き締めて背中をとんとんと叩いた。
棘が萎びるような感覚と甘い花の匂いがした。

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