前日譚

朝、チビ達にメシを食わせて着替えさせて歯を磨かせ…という一番クソ忙しい時に、店舗のレジ横にある電話が鳴った。開店前のこの時間は営業時間外のアナウンスが流れるはずなのにどうなってる、面倒臭ェ。
就也のボタンを留めてやってるお袋に「俺が出るから」と言って内心苛立ちながら店舗スペースに出た。電話はまだ鳴っている。『何時だと思ってやがるクソが』と応答一番言ってやりたいところを一応堪えて、受話器を持ち上げて店名を言った。

「不死川実弥か」

電話の相手は随分不躾に、それこそ警官が容疑者に確認するみたいに言った。

「ア?誰だよテメェ、イタ電なら間に合ってんだよ」
「すぐ熱くなるなよクソガキ、世界で一番不幸みてェな声しやがって」

何で新学期早々朝っぱらから不審者に喧嘩売られなきゃならねェんだよ、冗談じゃねェ。
でも電話口の男の声は、妙に覚えがあった。誰かは思い出せないが。

「こっちは忙しいんだよクソ不審者がァ、切るぞ」
「まァ待てよ、いいこと教えてやろうってんだぜ」
「ア?詐欺かよ」
「お前の人生で一番いいことが今日から始まる。掴んで絶対離すなよォ、俺のためにも」
「マジで頭イってんのか?俺じゃなくて精神科医に言えよ」
「本当お前クッソ殴りてェなァ。まだ周り全部雑草だと思ってる頃だもんなァ」

電話口にいるのは不審者に違いないが、男の口振りに引っ掛かった。周りの全部を雑草だと思ってるのは図星で、それが『まだ思ってる頃』ってのは、どういうことだ?俺の思考の変遷を把握してるかのような口振りは、本当にただの不審者か?言う内容の割にやたら嬉しそうなのも気に掛かる。
それにこの男の声、本当に誰なんだ、絶対知ってるのに思い出せない。

「テメェ本当に誰なんだよ、俺の何を知ってんだ?」
「忙しいんだろ?もう一回だけ言うぜェ、今日会う人間を大切にしろよ。人生で一番大事な相手だからなァ」
「知るかよ、だからお前誰なんだって聞いてんだろォ!」
「安心しろよ、不死川実弥。お前の人生は思ってるより悪くないぜ」

この時唐突に理解した。この男は俺だ。
常識じゃ考えられないことだが、この男は確実に俺だ。受話器に向かって「おいお前、」と俺が発した時にはもう、通話は切れていた。
ツー、ツー、ツー、という無感動な音を耳から離して受話器を置いた。すぐに着信履歴を表示したが、今日に入ってから着信の履歴は残っていなかった。
一体何だったんだ、としばらく呆然として見慣れた店舗を眺めていて、背後からお袋に呼ばれてハッとして居間に戻った。

「電話、誰からだった?」
「…宗教の勧誘」
「そう、この時間留守電に切り替わるはずなのに、不思議ねぇ」
「…そうだな」

もう一度振り返って店舗の方を見たが、電話機は冬眠中の動物みたいに完全に沈黙していた。もう『あの男』に繋がることは二度とないだろうと根拠もなく確信した。
あの男の言葉を思い返してみた。『今日会う人間を大切に』。神様でも来るってのかよ、馬鹿馬鹿しい。

狐に抓まれたような妙な気分でボーっと立ってると、身支度の終わった就也が俺のシャツの裾を引いた。

「にいちゃんにいちゃん」
「ん?」
「にいちゃんは今日がっこう、なにするの?」
「んー?今日はなァ、英語とか歴史とか…あと美術があんなァ」
「びじちゅ」
「お絵描きだ」
「おえかきいいなぁ!」

絵の好きな就也がぴょこぴょこ跳ねるのを撫でてやっていると、横から貞子が「さねにぃ、ネコは描いちゃだめよ」と言った。1年も前のことだが俺の描いたネコが泣くほど怖かったらしく、未だに厳禁を食らっている。
その後ドタバタと慌ただしく下の奴等を送り出して、貞子と就也を自転車に乗せたお袋も送り出して、俺も鍵を掛けて自宅を出た。

このちょっとした心霊体験みたいな不思議な出来事を、俺は学校に着く頃には忘れていた。
不審者が電話してきて、今日の占いを伝えていった、それだけのことだ。

結局俺がこの出来事を唐突に思い出したのは、ミズキと婚姻届を出しに行く日の朝だった。
朝何の前触れもなくいやにハッキリ目が覚めて、天井を見ながらすべて鮮明に思い出した。
あぁそうだ、『あの日』は確かに、初めてミズキに会った日で、授業の後に花を注文されて、それから全部始まった。そして『あの日』ってのは、今日だ。届け出をいつにするか話してる時にミズキが「実弥くんと初めて会った日だから」って言った、今日だ。
『お前の人生で一番いいことが今日から始まる』、確かにな。
間違いなかったよ。

俺が起き上がると隣に寝ていたミズキも目を覚まして、「おはよう」を交わした。ミズキの髪を撫でて俺はベッドを降りた。

「ちょっと電話してくるわァ」
「電話?いま?」
「今じゃないと繋がんねェんだ」
「ふぅん…?」

ミズキが不思議そうに可愛い目をぱちくりするもんで、ベッドに戻って抱き締めたくなったが我慢だ。

どうせすぐ忘れるって分かってても、言わずにいられない。
クソ生意気で、不幸ぶって腐ってるガキ、お前も何年かして思い出せよ。

安心しろよ、不死川実弥。お前の人生は思ってるより悪くないぜ。


[*prev] [next#]
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -