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そう、自分は麒麟だった。
ただ一人あの人のための、麒麟であった。

ある日突然思い出した。
何故忘れていたのかと、愕然としたほどにその記憶は自分の根幹を揺らした。

今生の、まだまだ幼いころ。
自我も薄く、漠然と麒麟としての意識が未だ強い中、自分は何かに躓き派手に転倒した。
膝からも、とっさについた手のひらからも、生き物の証である血潮が流れ出るのを見た、その時だ。
以前なら感じていたはずの嫌悪感や気怠さ、苦しさがないことに気づき、自分が今、麒麟ではなく人であることを唐突に、強烈に、理解した。
思い出したのもこの時で、正直倒れたかった。
だが理解して、自分の棒切れのような手足を見て戦慄し、決意した。

身体を鍛えよう。

今自分の生きている世界が、前世の自国、さらに言えば十二国ですらないことは、まだまだ短い生の記憶から知っている。
あの世界で言う蓬莱に、よく似ているのだと思う。

世の理がそもそも違う。
この世界に神様はいるが統一された1つの概念というか宗教ではないし、仙はいない。
国は数えられないほどたくさんあって、王様がいなくても国は成り立ち、人々は生きていける。天変地異は単純に自然の脅威で、ただ受け流すことはできても防ぎようがないこと。
、、、正直荒れはするものの受け流すことができるのなら、その技術は当時自国に欲しかった。閑話休題。

なにより違うのは命の生まれ方だ。
今生で命は、凡そ母の胎に宿る。
前世のあの世界では、命は須らく木に宿る。

十二国で、木に生った命の実を卵果という。
人の卵果を授かるときには、曜日や手順やら諸々の決まりがあるが、とりあえずそれらを守って神々が授けた卵果を両親がもぐ事によって、人が生まれる。
ちなみに動物や妖魔は恐らく同じ木から勝手に生まれ、食物連鎖などの問題は時間差で生まれることと命の生る木、里木や野木の下では殺生が出来ないことにより解決しているらしい。
植物だって、初めの一粒は木から生る。木から生ったその種を、育て増やすのだ。
だから、今生で言う突然変異は絶対に起きることはないし、品種改良なんてことを考えて交雑を行なうこともない。そもそもそんな発想が起きる土壌ではないのだが。
新しい種類の植物を作るには、はじめの一粒を王様が、これまたいろんな条件があるのだがそれをクリアしてお祈りをして、更にそれを神様が色々判断してようやっと実る。まずは王宮。その後国中の里木野木にその植物の種が生る。
捨身木という木もあるが、こちらは麒麟とその側近に当たる女怪のみが生まれる木である。

今生、自分の定期検診で連れて行かれた場所で、胎の大きな女性を見た。
今まで、前の生では必ず里の中心に会った里木や、郊外に生えているはずの野木を見たことはないし、母は自分もあんなふうに生まれてきたのだと言っていたのだから、そうなのであろう。
主上もああやって生まれてきたのだな、と思うと感慨深いものがあった。

前世で仕えた主上は、胎果だった。
胎果とはあの世界、十二国内に生った人の卵果が、世界の交わる現象で災害である蝕によって世界を渡り、この世界での理に沿って母の胎に宿って生まれた十二国の人間のことだ。

こちらで生活している分には、蓬莱の人間と全く変わりはないし、何なら生まれる前のことなので本人にも十二国の人間であるという自覚はない。
それがなぜ胎果だったかわかるかというと、基本的にあの世界に戻れば、こちらの世界で生きるための形質(殻と呼んでいた)を破ってあの世界の形質に戻るためだった。
こちらの世界では黒目黒髪だったのが、あちらの世界に渡って鮮やかな色になることは珍しくない。
事実、主上は黒目黒髪だったのが、世界を渡り、もともと青みがかった黒髪がさらに青みを増して紺色に、目はこげ茶から柑子色(色鉛筆の橙に似ている)になったと言っていた。
なんなら骨格も変わったらしく、初めて自分を見た時は自分のことなのに全く認識できず、どちら様だろうかと思ったらしい。
ついでに、目がちかちかする、どこの厨二病とか時折ぼやいていたが、今になってその言葉の意味を知ろうとは。

そして今生あちらがあろうがなかろうが、前世の主上と同じく日本に生きているはずの自分は、前世とあまり差のない配色なのはこれいかに。ちょっと浅黒い肌まで全く一緒。
こちらの人間はだいたい黒目黒髪のはずではなかったのか。少し納得がいかない。
ちなみに鏡を見せられ当時はとてもショックだったが、自分が外つ国との混血、ハーフというものらしいということを知ったのは、学び舎で割り算を習う頃の話だった。つまり大分後である。

自分のうちに残る約1000年の時を麒麟として生き抜いた記憶と、短い生の記憶から、ここ日本には妖魔や妖獣がいないことを知っている。
前述したように、命はすべて木に宿るのではなく、凡そ母の胎に宿り生まれることも知っている。

そしてこの事実は、あの世界で不殺の場であり絶対的安全圏であった、里木や野木がないことを意味していることになる。
実際、これらはそこそこ時が経った今でも目にしたことはなかった。

更に、現在の自分は麒麟ではなく人。
この世に妖魔はいないが、そもそも人であっては使令が使えない。

絶対の安全圏は存在しない。
守ってくれる使令もいない。
つまり自分の身を守るには、自分が強くなるしかない。

神仙がいないこの世において、以前は民のため以外には気にも留めなかった怪我や病気は、命にかかわる重要な要素であるし、言葉だって各種学ばねば通じることはない。
麒麟として、多少蓬莱を訪れていたとはいえ、蝕によって人の子問わず意図しない犠牲が生まれかねないことを殊更嫌っていた自分は、麒麟が起こす蝕、鳴蝕という、がたとえ自分のみ通るくらいの小さなものであっても嫌だったので、後に治世400年以上を誇る延の麒麟よりも蓬莱、日本に対する知識が少ない。

またあの世界での常識は、こちらの世界では通用しない。
それは見つけ出す前の主上の話と、今生自分の感じている差異によって明らかだ。

だが、あの日最愛の主上を待つと言ったのだ。
何が何でも生き延びて、待たねばならない。

決意当時、降谷は齢3つ。
ラジオ体操の快活な声が近所で聞こえる、夏のよく晴れた朝の決意であった。

決意したその日から、今まで視界にも入れなかった牛乳を飲み、血肉も厭わず食べるようにした。
赤子の頃には母の乳ですらギャン泣きして、まろい腕を懸命に突っ張ってまで拒んだというのに、突如変わった子どもの様子に母は困惑しきりの様子だった。
が、生まれてこの方菜食主義で、冗談ではなく棒切れのようだった子どもが、見違えるように血肉をしっかりと食べ、元気に外を動き回る様子に、安堵の思いが強く、困惑はどこぞへと消えたようだ。
実際、虐待を疑われるほどに骨と皮と言っても過言ではなかった子どもは、栄養をしっかり取ることができてから骨に肉がついてふくふくとしていき。
また毎日飽きもせず動き回るからか、体力がついた。
時折熱を出してはよくわからないことを呟く以外は、健康的な子どもへと変化していった。

決意の日から時は過ぎ、心身ともに成熟してきても、身体を鍛えることはやめなかった。
学生の身分を終えた後でも、知識に対して貪欲であり続け、物事や言葉について学ぶことをやめなかった。
主上と再会するまでは自身を守るために、再会したならば主上の御身を守るために。
使令がいない今生では、これらは主上の傍に侍るには必須事項だから。

降谷零は待っている。
会いに来ると言った、たった一人、唯一と定めた自分の王様を。

今日も降谷は、安室透として仕事に励む。
主上が恐らく住まう国を守りながら。

仕事の潜入先である喫茶店。
ピークが落ち着き、人が少ない店内に、カラコロン、と快活なドアベルの音が鳴った。
お客の来店を知らせるそれに、降谷はいつものように笑顔で振り返って。

そこで息が止まった。

「あら?おやまあ。ここで会えるとは」

キョトンとした後、そう言って笑ったその人を、自分はずうっと、待っていた。
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