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▼ 本編

「貴女のオールマイティーさは長所ですが、欠点でもあるのでしょうね」
「そう、だろうね、先生」

ぽむぽむ、と私の頭を撫でられながら、初めの面談の時にあの超生物は言った。
平均すぎて遂にはどべクラスに落とされた私を、憐れむでもなく、蔑むでもなく、怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ私のこれまでを見て、ただただ、淡々と。
努力が足りない、中途半端だとそれらの感情を乗せられてきてばかりだった私には初めてのことで、当初何を言われたのか理解できなかったのを、よく覚えている。

「先生は殺さなくてはいけないの?」
「はい」
「それは絶対なの?」
「殺さないと、地球は滅んでしまいますね」
「それも絶対なの?」
「今のところ、絶対ですね」
「殺す努力を、私はしなくてはいけないの?」
「でないと、死んでしまいますよ?」
「そうかなあ」
「そうですねえ」
「ねえ先生」
「もし、私が殺すとして、」
「はい」
「先生を殺す手応えを、骨や肉を断つ感触を、引き金をひいた感触を、命を頂くわけでもないのに摘み取る瞬間を、私は忘れられそうにないよ」
「、、、そうでしょうねえ。普通の、ごくごく一般的に過ごしてきた貴女たちは、そうなるでしょうねえ。
、、、重たいですか?」
「すごく。潰れちゃいそうなくらい、重たいよ先生」
「そう、ですか。、、、本当に、貴女は優しいですね」
「そうかなあ、、特別優しいわけじゃなくて、普通だと思うよ。
私も、残酷なときは残酷。こうやって、どうしようもないことを、もっとどうしようもなく思っている当人にぶつけるくらいには、酷い人だわ」
「、、、先生は、重たいですか?」
「重たいよ、先生」
「先生は世界中から、これほどまでに、死を望まれていても?」
「それでも変わりなく、重たいよ、先生」
「、、、貴女の言葉は、私には重たいですね」
「先生の言葉は、私には重たいよ」
「お互い様ですね」
「うん。きっと」
「先生、」
「はい、なんでしょう」
「先生、すごく重たいからさ、皆で一緒に背負うから、安心してね」
「そうですねえ、捨て置いてもいいんですよ?」
「そうだな、先生は、私を捨て置く?」
「まさか。大事な生徒に、そんなことしません」
「私も一緒。先生も大事な人だよ。そんなことしないよ」
「、、、ありがとうございます」
「私も、見つけてくれてありがとう、先生」

夢を見た。あの日の夢。
先生と過ごしたいつぞやの放課後だ。
みんなが先生をそれほど大切と思っておらず、暗殺に対してもそこまで意欲を持っておらず、団結度もそこまで高くなかった、あの頃。

私は先生と話をした。
面談だった。
私が、その日最後の面談者で、沈む太陽が最後の輝きを見せてとても眩しかった。

私は、学業において平均点だ。
クラスの平均点。可もなく不可もなく。
唯一身体を動かす体育が皆より苦手。これは、世間一般の平均的能力程度、クラスのどべである。
その為暗殺において特段期待されるでもなく、またのんびり生きているせいか、クラスの輪に馴染みつつも自身が平均すぎて濃いメンバーに埋もれる空気のような存在。
忘れられても、気づいて探せば一応何処かにいる。
それが私。

初期値で体力も腕力も器用さも世間一般程度で何一つ役に立たない私は、暗殺教室において早々に戦力外通告を受ける。

模擬戦ではペイント弾で試合始めに潰されなかったことはない。
潰せる数は減らすものだ。
どべであるが故に、色々がら空きで狙いやすいのも理解している。
そのせいで本気の賭け事をしている時には、皆露骨には出さないもののチームに入ると嫌がられる。
平等な戦力になるように先生や委員長は気にかけてくれるけれども、それがまた申し訳なかった。
人並みに悔しくはある。が、圧倒的に離れた差は如何に努力しようにも埋められず。
また十人並みの容姿では、一応教え込まれたハニートラップもいまいち上手くできず。

先生の最後の最後の時まで、せめて筋力体力を付けようとずっとずっと努力しても、私は変われなかった。
先生を看取って、いつか言ったように彼の命の重みを背負って、やっぱり潰れてしまいそうだと思った。

皆で背負うと言ったけれど、やっぱり重たいよ、先生。

そうして私は卒業してクラスを去り、進学先でも平均をとり、無難な公務員になった。

そんな私も結婚、退職した。
家に入って欲しい、というのが彼の願いだったから。
結婚相手、私の夫となった人は、私と違って技能持ちのすごい人だ。

夫は同じ公務員だ。とても特殊だけれども。
彼はすごい人なのだ。
警察官で、機動隊員。爆発物処理班所属で、日々の生活の安全を守るため奔走している。
これだけでもすごいのに、顔がよくて人当たりがとても良い。ムードメーカーと言ってもいいくらい、明るいし親しみやすい人。
こんなすごい人が、なんで私を妻としたのかわからない。

わからなかった。けど。
最近なんとなくわかるような気がしてきた。

「ただいま」
「おかえりなさい。お夕飯は?」
「食べてきた。ごめんね?」
「ううん、お仕事お疲れ様」

そのまま風呂入って来るね、とすれ違った彼から香る甘い匂い。
それらに気づきながらも、何も言わない私。
実は付き合っているときにもこういうことがあって、ちょっと喧嘩した。
もうしないから、と言う彼を信じて結婚したわけなんだけれども。

私の夫は前述のようにすごい人だ。
だからこそ、結婚してもなお秋波を送る人はいる。
自分に自信があって綺麗なその人達は、こんな私だから簡単に夫を盗ることができると思って、そういうことをする。
事実夫は断り切れていないようで、今日みたいな香りをまとって帰って来る。

当て馬。

ってやつだろうか。そういえば、結婚前に見合いの話がうるさいだとかなんとか言っていたような。
目減りしない盾っていうところが妥当だろうか。
目減り、するんだけどなあ。
現に、かなり減ったスキンシップに、食べてもらえない料理、さらに最近は目も合わない夫。
横にいても気が楽でいい、と昔に言われたその言葉。
単純に喜んでいたが、それってつまりいてもいなくても気にしないからではないのだろうか。
、、、正直、苦しい。
職を辞して、私は誰かと話す機会がめっきり減った。前職で特段仲のいい人物はいなかったし、それはこれまでの人生においてもそうだ。
皆、友達というには少し遠い。働き盛りであることもあって、この年ですでに無職な私が気軽に連絡するのは気が引けた。
そして唯一普通に話せるはずの夫も、目も合わないし、疲れてるからと会話も少ない。

ストレスを発散しようにも、今の私に収入はない。
お金のかかったことはできないし、そもそも生活のためにと預かったそれを自分の都合で無駄遣いしたくない。
必然、お金のかからないものになるものの、発想に乏しい私がやってみた散歩は、正直一人では物悲しくて逆にストレスになった。

そんな中、夫の仕事着で破れてしまったものがあったので、少し遠いショッピングモールに足を延ばした時の事だ。

「次はどこに行く?」

ああ、知りたくなどなかった。
見知らぬ女性を腕にまとわりつかせ、楽しそうに歩く夫をそこで見た。
ぐしゃり、と彼のために買った服を包む袋が腕の中で嫌な音を立てる。
私の心も、こんな音を立てたのだろうか。
一声も声をかけることもできず、呆然と見送って。

いつの間にか家にいた。

どうやって帰ってきたのかはわからない。
ぼんやりとした感覚だけ残る。
切欠はきっとこの日だった。後の私は日記を見て思うのだ。

「ただいま」
「おかえりなさい。お夕飯は?」
「ごめん、食べてきちゃった」
「わかった。お仕事、お疲れ様」

にこ、と笑って夫を迎え入れる。
お風呂に向かった背中を見送って、私はリビングの食材をゴミ箱へ入れた。
食べなくて、よかった。
ちょっとだけ、ほっとした。
実は味がわからなくて、おいしくできたか判断が付かなかったのだ。

あの日から、幾度目かの夜。
大事な人の死を背負ったこの日、私は夫にも友人にも両親にもご近所さんにも、誰にも何も言わず、ちょっとした旅に出た。
家に自分の物は大半が残っているけれど、自分にとって大事なものは駅のロッカーに入れてきたから、無いとは思うけれど夫がすぐに全て捨ててしまっても問題はない。

夫は帰ってきていない。
今日もまた、きっと遅くてご飯は食べてくる。もう私にはわからないけれど、またひどく甘い匂いをつけて、どこかのシーツをだれかと泳いでいるのだ。
緑の紙には記入が済んでいるし、印は同じだから、出そうと思えばいつでも出せるだろう。テーブルに置いてある。目立つから、見つからないなんてことはない。
友人には何も言っていない。
ホントはみんな、今日はどこかで集まっていることを知っているけれども。連絡はあったのだろうか?
数日、端末を触っていないからわからない。確認しようにも、ロッカーに置いてきてしまったし。まあ、出席してもしなくとも、きっと気づかないことだろう。
両親にも何も言っていない。
彼らはずっと平均点だった私が今までそうだったように、人並みに幸せであると思っているから。
ご近所さんにも何も言っていない。
私が彼らに何かトラブルを起こした訳ではないし、いてもいなくても変わらないことだろうから。長くて数日空けてみたいと思っているので、冷蔵庫や水回りはきれいにしてきた。惨事は起こるまいよ。

なけなしのお金と、ちょっとした着替え。ペットボトルに、一口お菓子。
そんなピクニックに行くようなものをさほど大きくないリュックに詰めて、最後にロッカーにも預けられなかった大事な物を封筒に入れて同じくリュックに詰めて、夜の街に背を向けてひたすら歩く。
道中何気なく寄ったコンビニで、白い便箋が気になって、ボールペンと一緒に買ってしまった。
リュックには余裕があるので問題はない。

ずんずん街から反対方向へ歩いていく私に、途中警邏や交番のお巡りさんが女性の一人歩きは危ないよ、と声をかけてくれ、ありがとうと返し。
ついてきた不審者には、容赦なくいくつか持っていた防犯ブザーを投げつけ。

家に背を向け、人に背を向け、街に背を向け、私はひたすら一人で歩いた。

そうやって歩いた先で、ついにお巡りさんに捕まった。
人気のないところを、軽装でずんずん歩いていればそうなる。

「ご自宅はどこですか?送りますよ」
「お家は、もうちょっと行った先なんです」
「この先は隣町との境で、歩いていける範囲に何もないはずですが」
「私にとっては、歩いていける距離ですので」
「、、、、何かあったんですか?」
「え?」
「とても悲しい顔をしています」

聞けば勤続20年になるというお巡りさんは、仕事を続けるうえでなんとなく人のそういうことがわかるようになったというのだ。
隣町の境に近いこの場所は山が多く、時折そういう人がやって来る。
そんな人を見送っては、新聞を見て、悲しくなったり安堵したりしているという。

「お巡りさんはすごいですね」
「そんなことはありません」
「そうですか?」
「そうですよ」
「、、、私、今ちょっと何したいのかわからなくて。どうにも、散歩が唯一できることのようなのです。
便箋を持っているし、歩いた先でちょっと書いて家に送って、どこまで歩いていけるのかやってみようかと。きっとそれで、コンビニで目について買ってしまったと思うので」
「なにも夜にしなくても」
「、、危なく見えました?」
「とても。死に行く人のようでした」
「ふふ、死にたいわけではないんですよ。
そんなの関係性をすべて絶ってしまってからじゃなきゃ、勇気がなくてできません。
人の命は、背負うには潰れてしまいそうなくらい重たいのですから」

よく知っている。彼との命の授業で一番に学んだ、大切なことだ。

「ならば、なぜ?こんな危ないことをしたんですか?」
「、、、きっと見つけてほしかったんです」
「見つけてほしい?」
「ええ、夫や友人、両親でもご近所さんでも誰でもいい。私の今まで関わってきた人達の誰かに見つけてほしかった。
昔見つけてくれた人は、その昔目の前でなくなってしまったので。
あと、今までの自分が絶対しないことをしたかったんです」

子供じみたわがままです。
そう言って、笑えなかったはずなのに、いつの間にか穏やかに笑う自分がいた。

「、、、安心しました」
「え?」
「優しい貴女なら、新聞に載ることはなさそうですね」

道中、お気をつけて。なるべく、明るい道を歩いてくださいね。

ホントはダメだろうに、そんな言葉とともに見送ってくれたお巡りさんに背を向けて、私は再び歩き出した。
あの時分の月より一回り小さく、ちゃんと丸くなった月を見ながら、街灯がポツリポツリとしかない、寂しい道をまるで昼間であるかのようにずんずん歩いていく。
とっぷりと暗い道を行く中、周囲の森の中をがさがさと生き物が駆け、ぽうぽうと鳩が塒で鳴いている。

隣の町が見えてきたころには、春独特の霞がでて、その霞で私はすっぽりと隠れてしまった。

「ああ、朝だなあ」

ちゃぷん、と残り少なくなったペットボトルを傾けて、山の天辺を通る道の脇で、登っていく太陽をぼんやりと見る。
あれからずっと歩いてみたが、時折ある看板を見ると住んだ地域から大分遠くに来たようだ。
車でしか来たこと無いような場所だ。
やろうと思えば出来るもんである。ちょっと、達成感。
徒歩であり、行き先も決まっていないので、右に行く、左に行くを楽しみながらのんびり選べるのは車と違って新鮮で、癖になりそうだ。
意外と楽しい。出掛けと違って気分も幾分か晴れやかだ。

撮影ポイントを知らせる看板の横、日が差して霞が晴れはじめた見晴らしのいいそこで、私は便箋にペンを走らせて、その便せんで紙飛行機を作った。
すっと指を滑らせ、その白を崖下に向かって離し、白が見えなくなるまで眺める。
思いの外長く空を泳いだそれが見えなくなったあとで、少し気になってガードレールに寄りかかって、ちょっとだけその下をのぞいてみた。

高いなあ。岩が割と見えてる。
でも土砂崩れ防止のためにコンクリートが張ってあるし、そこをつたって、なんてちょっと考える。
フリーランニングは卒業までにできたのは及第点レベルで、応用に弱かった私はパルクールの方が近いような。
今も頑張ってはいるけれども、先生方のアドバイスをもらえなくなったことでそれほど成長している気がしないのが現状だ。卒業時に貰ったアドバイスブックには、それほど詳しく書いていなかったし。
あの友人たちなら、今でもこんなところ、難なく行けるのだろうか。
私にはちょっと無理そうだなあ、、、。

「何やってるんだ!!」

ぐいっと強い力で腕を後ろに引かれた。
誰もいないと思っていたので、目を白黒させる。
力強い手である。そんな手がガードレールに寄りかかる私をひっぱり、崖からぐいぐい引き離す。
引っ張られる勢いから、思いの外自分は身を乗り出していたようだ。

「バカ野郎死にたいのか!?」
「え、あれ?けん、、萩原くん?」

なんと、私を引っ張ったのは夫、あれを彼がもう出しているなら元夫?の萩原だった。

「あ゛あ゛?!お前も萩原だろうが!名前で呼べ!!」
「あ、うん?け、研二くん、、?」

家のあの紙は提出していないらしい。私はまだ、萩原なようなので。
ふんす、と目の前で仁王立ちしている彼は大層怒っているようだ。
とりあえず周囲を観察し、彼の向こう側、道路には久しく乗っていない彼の車が見えた。これで来たのか。幾通りもある道の中からよく見つけたものだと思って、助手席に誰かに居るのが見えた。
お腹がすっと冷える。デートだったのかな。

「あの、何でここに?デート?」
「は?違う。探したから」
「何かなくしものでもしたの?あ、彼女さんのほう?」
「どうしてそうなるんだ!俺は、お前を、アキを探しに来たんだ!」
「何で?」
「何でって、、!」
「私、萩原くんのなんでもない、良くて家政婦(お掃除ロボット)でしょう?
別に家に居ても居なくても同じじゃない」

絶句、という様子の彼を感動もなくぼんやり眺める。
だってそうでしょう?
肌を触れ合う訳でも、会話するでもない、更に最近は家事をしても食事はちっとも食べてもらえず。
こんなの、恋人でも妻でもない。
他人。家政婦(お掃除ロボット)だ。
娼婦の役割さえ与えてもらえない、観賞用の人形ですらない、なんのためにいるのか分からない、ただ部屋にいるモノだ。
なら別にちょっと居なくたって別に問題無いではないか。

「今だって、別に死にたかった訳じゃないよ。フリーランニングをしたことがあって、ちょっと気になったからのぞいてただけ。
それで、萩原くんはどうしてここにいるの?」
「、、、家に帰ったら、アキがいなくて、心配した、から。っそうだ!なんだよあれ!」
「あれって?」
「離婚届だよ!」
「え、要らないの?そろそろ要るんじゃないかなって」
「要らない!なあ、頼むからいなくならないでくれよ!」
「?変なの、私はずっといたのに、いないものにしていたのは萩原くんでしょう」

浮気相手にあれだけ熱を上げているんだもの、私なんて要らなくない?

「浮気は謝る、本当にごめん。申し訳ない。でもいなくならないで、ごめん、本当にごめんアキ」

ふうん。お掃除ロボットは便利だもんね。
そんな捻くれた感想しか今の私は出てこない。相手がたとい土下座しようが、自分の感情はどうにもこんなものだ。
普通は激昂するなりヒステリー起こすなり泣いてみるなり色々あるんだろうけれども、一向にそんな気分になる様子のない私は普通じゃないらしい。

「萩原くん、相手の子は?」
「切った。誰ともつながってない」
「誰とも、、ってことは複数かあ。ねえ、謝ってきた?」
「あや、、まってない、、、」
「最低」
「っごめん」
「私にじゃなくて、彼女たちに言うべきでしょ。分かってる?私が訴訟を起こせば、彼女たちは百万云十万って少なくないお金を私に支払わないといけなくなるんだよ。萩原くんが浮気したせいで」
「そ、れは、、」
「秋波送ったんだから覚悟の上かもしれないけどさ、乗った萩原くんも悪いでしょ。誠心誠意謝って、きれいになってから出直して。そのあと今後について話しましょ」

まあ、今のままじゃ離婚一択かなあ。
なんて呟いて、地べたに座り込む夫が真っ白になっていても知らない。ふいと彼の横を通り過ぎて、散歩でも続行しようとしたとき、夫の車の窓がおりた。あれは。

「陣平くん」
「よお。すまねえな、俺も気を付けていればよかった」
「陣平くんが悪いんじゃないよ。私も、ちゃんと意思表示できてなかったから、お互いさまなの」
「んなことあるかよ、あいつが一方的に悪い。
なあアキ、今からでもいい、俺にしないか?」
「ふふ、従兄妹同士での結婚ができるにしたって、陣平くんは私にとってお兄ちゃんだから。ごめんね」
「ち、ふられたか。分かってたがな。だけどな、」
「うん?」
「二度あることは三度あるっていうしな。次があるようであれば、お前がなんて言おうが嫁にする」
「ふはっ、陣平くんがその前に結婚しなよ」
「うるせー」
「でも、ありがとう」
「おう」

この後しれっと歩き去ろうとしたところ、陣平くんに捕獲され、お散歩はやむなく中止。
ここまでほぼ休憩なしで歩いていたことから体力お化けなのがばれて、ドン引きされると思いきや、その直後に渡されたコーヒーで、私が鼻が利かなくなっていて、更に味がわからないのがばれてしまい、萩原くんが陣平くんにぼこぼこにされてた。
コーヒー、私ブラック苦手なのだ。よく覚えてたね、陣平くん。
体力お化けはそれで曖昧になったのでよかったかもしれない。
だけれども、私も危ないことするなと陣平くんにぎっちり怒られた。ごめんなさい。

「それで?結局許しちゃったの?」
「うん。私まだ萩原のままだよ」
「ホントに、“平均点”ちゃんはいつでも優しいね」
「懐かしいコードネーム。よく覚えてたね。
でも私、渚くんほどじゃないと思ってるけど。カルマくん」
「そのお優しい渚にもガッツリ怒られたんでしょ?当たり前だよね」
「その節はホントにすみませんでした」
「ま、俺らの態度もよくなかったし。まさかそんな風に思ってたなんて思ってなかったよ」
「あのクラスのダントツびりっ子は私だったもん、間違ってはいないと思うけど」
「いーや、間違いだね。
あの頃アキちゃんにどれだけ真似されるかひやひやしてたんだから。
君は延々、妥協しないで練習するせいで身体は頑丈だし、体力だけは無茶苦茶あったしさ、長丁場になればなるほど、俺や渚は君が怖くて仕方がなかったんだよ。
体力に関してはあの3バカですらかなわないんだから。
それに、知らぬ間に本人程ではないにしろ、及第点レベルまで俺らの真似ができるようになっていくし、怖いことばっかりだよ」
「トップの二人に言われると、今更だけど、ちょっと嬉しいなあ」

端末ごしに聞く、官僚になった赤髪の彼の言葉をかみしめる。
模擬戦で必ず先に潰されていた理由は、長期戦になればリスクになる人間だったから。
なにせ周囲に埋もれることができる人間だ。
天性の殺し屋の才能を持つ渚くんほどではないにしろ、見つけにくい存在。
混戦状態になり完全に見つからなくなる前に、せめて初めのまだ見つかるうちに潰しておかねば、とみんな思っていたそうだ。
顔をしかめたのは、身内であってもどこまでも真似されるのがわかっているからと、何が飛び出すのがわからなかったから。
当時の私は自分でもわかっているほどに口数が少なかったし、手数すべてを見せていたわけではなかった。
自分的に満足できない技術は出さない。このポリシーがよくなかったようだ。
当時まだ中学生だし、仕方がないね。

「ただいまー」

ばたむ、と玄関の戸が閉まる音がする。夫が帰ってきたようだ。

「帰ってきたみたいだね」
「うん。ご飯の支度しなきゃ」
「あーあ、俺も結婚したい」
「奥田ちゃんと?」
「ばっ、、、、今度の同窓会覚悟しなよ」
「ふふ、ごめんって。代わりに奥田ちゃん捕まえててあげるからさ」
「自分で捕まえる」
「意地悪しないようにね」
「もう大人になったよ、流石に」
「どうだか。そう信じてはみるけどね」
「なんか今日意地悪じゃない?」
「ぜーんぜん。じゃあ、またね」

ぷつ、と端末を切って、実は帰ってきて早々後ろから抱き着いてきて離れない夫に体を預ける。

「誰?」
「同級生」
「男?」
「男だけど、好いた女の子がいるのよ」
「ふうん?」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「嘘つき」
「何とでも」

くるり、と腕の中で振り返って、その端整な顔をとっくりと見る。
ちょっと拗ねてしまったのか、面白くないという顔をしている。あの件以降、付き合っていたころ以上に彼は表情豊かになった。
私の前では格好いい自分でいたい、とかなんとか言っていたが、私は今の表情豊かな方が好きである。

「研二くん、怒ってる?」
「怒ってない」

むに、と自分のものより硬めのほっぺをうりうりと触ってみる。拗ねた表情は相変わらずだが、手にすり寄る様子がどうにも愛しい。

「研二くん」
「ん?」
「おかえりなさい」
「ん、ただいま」

ぽやっと笑えば、研二くんもやっとぽやっと笑ってくれた。
しばらく二人でぎゅむぎゅむ抱き合って、夕飯のメニューを話す。今日は筑前煮と、お味噌汁と、、、。

どういう方法をとったのか、陣平くんのお墨付きで身綺麗になって話し合いの場についた夫の研二くん。
私の状態と今後の展望をよくよく話し合って、結局離婚しないことになった。
その後カウンセリングと、増えたスキンシップ、お仕事として近所にバイトに出るようになって、ようやく私の嗅覚と味覚が還ってきた。
戻った時には、私よりも研二くんの方が喜んでくれた。

左手薬指に光る小さなリングに、くすぐったい気持ちになる。
あの時、駅のロッカーにもどうしても預けられなかった大切なもの。
浮気されていると知りながら、緑の紙を書ききってしまっていながら、私がどうにも手放せなかった、かつて愛されていた証。
手放せない、でもつける気持ちにもなれなかったそれを、最近は外さずつけている。
それに気づいているらしく、それが視界に入るたび、研二くんの綺麗な目ははちみつを落としこんだような、そんなとろっとした甘い目になる。それが酷くくすぐったくて、心地が良い。
初めて指にはめてくれたあの日よりも、甘い顔をして私の傍にこの人はいてくれる。

着替えてダイニングにやってきた彼は夕飯の準備を手伝ってくれた。
お鍋の中を後ろから私を抱きしめつつ覗き込むなど、まるで新婚のようだ。
鍋の中身が温まったのを確認し、器に移そうと食器棚を見れば、すっと渡されるお皿。
ありがとう、と受け取って盛り付ければ、そのまま受け取ってダイニングテーブルに運んで行った。
うーん、こうも変わるもんだろうか。本人曰く、変にかっこつけることと甘えをやめただけだとか。わからないなあ、、、。

「どうしたの?」

ん?と覗き込んでくる研二くん。
すん、と香るのは汗のにおい。お仕事後の、彼の匂いだ。甘い匂いはしない。
お腹をさすったあと、覗き込む彼の頬を捕まえてキスを落とす。

「ん?どうしたの」
「あのね、赤ちゃんができたの」
「、、、は」
「ちょっと前に産婦人科に行ってみて、わかったんだけど」
「ほ、んとうに?」
「うん。そう言えばいつもより少し眠かったんだけど、つわりらしいつわりがなくて、気づくのが遅れちゃって。
もう少ししたら、安定期に入るって、先生が」

言葉は続かなかった。
何故なら、たくましい腕で力強く抱きしめられたから。
ぎゅっと、けれどお腹に負担がいかないように抱きしめられて、その体が震えていることに気づいた。

「研二くん?」
「俺と、アキの、子ども、、、」
「うん、そうだよ。お腹にいるよ」
「ありがとう、、、!ありが、とう、、アキ!」

涙でぐちゃぐちゃな夫の顔に、またキスをして、ありがとう、と私も返した。
ああ、私今幸せです。
そんな単語を、喜んでもらえて安堵した夜、いつだか辛いと書いた日記に書いた。
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