頭がおかしくなりそうだった。
これが竜が人を愛する、種族の違う本来では交わってはいけない相手を愛する代償だ。
人と竜とは愛し方が違う。だから極力、人には関わってはいけないとされている。誰が決めたわけでもない神との約束だった。
グレハムは人なら凍えて死んでしまう極寒の雪山を歩いていた。それも有り得ないほどの薄着だったが、グレハムにとっては極寒の雪山でも灼熱の砂漠でも同じように感じる。人とはまた違った理の中で生きている存在だからだ。
その気になれば一瞬で大陸と大陸の端まで行き来することが出来るグレハムが、人という装いを纏って歩いているのはひとえに己の伴侶のためだった。
伴侶は人だ。グレハムとは異なる理の中で生きている。グレハムのように薄着でこの極寒の中で生きていけるはずもないし、食べ物もなければ衰弱してしまう。
彼のために食料や衣料品を手に入れるために、この雪の中を歩んでいた。
人の世界に足を踏み入れる際は、人に準ずるのがルールだ。お陰で時間がかかって仕方がなかった。サーレイを一人にしているのが、何もないと分かっているが不安だった。
己の領域まで戻ると人の装いも必要なくなり、すぐに小屋に戻ることができた。
だが小屋に入るためにはまた仮初の姿に戻らなければならない。物理的に入らないのと、サーレイが本性を見ると怯えるかもしれないからだ。
仮初の姿とはいえ、人間の時の姿もまたグレハムには違いない。グレハムは人の母と竜の父と間に生まれた存在なのだ。とはいっても、人間の血が流れているかというと、一滴もこの身体には流れていない。竜が誰に子を産ませたとしても、竜しか生まれない。混血の竜というのは存在しない。
しかし人の母から貰った仮初の姿は、確かに母の面影を残している。
そしてグレハムは生まれてからほとんどの時間をこの姿で過ごしている。
「サーレイ」
そう、サーレイのためだけにグレハムは本来なら北方大陸で育つはずだったが、あの国に残った。己の伴侶となる存在が目の前にいるのに、どうして去ることが出来ただろうか。
「サーレイ」
何度呼びかけても答えることはない。買出しに出かけている間、5時間ほど経っているのに死んだように眠っている。気配に敏感なはずのサーレイが、こんなに近くにいてもおきる気配もなかった。
疲れているのだ。意識のある間は常にグレハムに抱かれていて、意識を失うと何をしても起きる様子もなかった。
毛布を剥ぐと情事の痕が色濃く残ったままだった。いやわざとそうしていた。グレハムの匂いをサーレイの体に残しておけば、この世で誰もサーレイに手を出そうとは思わない。
グレハムの種族はこの世界では他に並ぶものがいない存在であり、どんな恐ろしい魔獣がいても竜の伴侶に手を出すことは本能が拒否をする。仲間たちは仲間を裏切ることは決してない。
グレハムの匂いをつけているだけで傷つけられることは決してないが、勿論そんなものが無くてもサーレイを守ることはできる。この小屋は強固な結界で守られており、誰も手出しはできないようになっている。
そして誰もここから抜け出すこともできない。サーレイすらもだ。
意識のないサーレイを抱き上げ、湯場にひたした。己で汚した肌に湯を流し綺麗になるサーレイを見ると、再び汚したくなる思いを抑えるのに何時も苦労する。
サーレイはグレハムがどれほど抱いても、穢れの無い高潔なままだ。
「グレハム? 同じ年なんだってね? 仲良くしてね」
そう初めて会った時、もう10年以上前に出会った少年のために、グレハムは北方大陸には戻らずに、彼の側にい続けた。
珍しいことに両親もまだこの北方大陸には戻ってはなく、聖王国に残ったままだったので、そんな我がままも例外的に許してもらえた。
今はもう両親はここに戻ってきているが、それでもグレハムはサーレイの側にいるために両親と別れてサーレイと一緒にあり続けた。
サーレイが竜騎士になることは生まれた時から定められていたが、何も知らない頃とはいえ、他の竜の物になると公言していたサーレイを早く閉じ込めてここに連れて来たくて仕方がなかった。
やっと願いがかなったはずの今、しかしグレハムの心は満たされていなかった。
「サーレイ」
もう何度呼んだか分からない。愛しい半身の名を口にし、意識のない身体を開いた。数時間振りにグレハムを迎い入れるそこは熱く、解れていて抵抗なくグレハムを歓迎してくれているようにすら感じられた。
「っ……グ、グレハム?」
流石に違和感を感じたのだろう、起きる様子もなかったサーレイが目を見開いて今の自分の状態を冷静に観察していた。
そう、冷静に観察しているのだ。明晰な頭脳はそのままだった。
「なにをっ」
「……サーレイ、変わらないな」
「……何がだ?」
「どうして狂わないんだ?」
竜と交わった人間は、たった一回でも精神を保てない者も珍しくない。それだけ人間ではない者と交わる負担は計り知れないのに。
サーレイはもう何度もグレハムに抱かれているのに、精神が破綻する様子すら見せない。
「……元々俺の家系は狂い難いほうなんだろ? 兄だってすぐに狂ってしまったわけじゃないって聞くしな」
それでもここまで変わらない人間も珍しい。サーレイはどこも変わっていない。こうして異形の物に抱かれている今も、何らダメージを負ってもいないのだ。
「そんなことより、ここは何処なんだ? それにお前は……」
「ここはサーレイのために用意した……ただの小屋だ。取り合えず、急場しのぎに作っただけだが、食料も日用品も揃えた。もう少ししたら、ちゃんとした城を用意するから」
何時までも人の領域にいるわけにもいかずに、サーレイが気を失っている間にもっと山奥に小屋を用意したのだ。
仲間達や両親の元に戻るためには、サーレイはこのままでは連れて行けない。
「城か……竜がそんな所に暮らすのか?」
「俺たちには本来必要ないけれど、伴侶にはその辺の洞窟で暮らさせるわけにもいかないしな」
「お前……竜だって認めたなっ!?」
初めてグレハムを受け入れた時から分かっていただろうが、サーレイがそのことに関して口にしたのも初めてならグレハムが認めたのも初めてだった。
そんなことを口にする余裕もないほど、激しく交わり続けていたからだ。
「俺は、認めるも何も……竜じゃないなんて一言も言っていない。ただ、聞かれなかったから言わなかっただけだ」
「聞かれなければって!……お前が竜だなんて思うはずも無いだろ!! そもそも竜が人間になれるなんて誰も知らないのにっ……これだけ長い間一緒にいて、何でっ……何も言ってくれなかったんだ? 俺がどれだけ悩んで、竜騎士になるのを止めてお前を選んだと思っているんだ!」
「だからだ、サーレイ……お前は竜を憎んでいた。俺が本当は…竜だと知ったら、きっと俺を選んではくれなかった」
選ばれないことが分かっていて、正直にいう馬鹿はいない。そもそも竜は人間の国にいる場合、正体を明かしてはいけないのだ。唯一明かしていい場合は、契約した竜騎士を伴侶とする竜のみだ。
サーレイに愛されて選ばれるのをずっと待ち続けて、やっと本願がかなったはずの今も、少しも満たされていない。
サーレイが足らない。グレハムのせいで、壊れてくれない。少しも変わらないまま、グレハムを見つめている。