「セシル、セシル! 返事をしろ!」
静寂に満ちていた家に、突然兄の声が響き渡った。
エミールが去って、この家で話す事がなくなったせいで、この家で声が聞かれるのは久しぶりだった。だが兄の声を懐かしんでばかりはいられない。部屋着にコートを纏って兄のいる、一階に下りていった。
「兄上……どうしていらっしゃったんのですか?」
「どうしてもこうしても! 連絡が無いから心配してやってきたんだろう。何度話しかけても心話に反応が無ければ心配するだろう」
兄に話しかけられているのは分かっていたが、どうしても兄に返答する事はできなかった。
「すいません……兄上に会わせる顔が無かったんです」
「それは分かるが……返事すらなければ、お前がどうかなってしまったかもしれないと心配するだろう? だいたいお前は悪くないんだから、俺のほうこそ会わせる顔が無いほうなのに。何時までこんなに辺鄙な所にいるんだ? そろそろ王都に戻ってきてもいい頃だろ? 父上や母上たちも心配している」
「私は大丈夫です。今は、少し……一人でいたい気分なんです。ここは誰もいないから落ち着くし、これからのことももう少し考えたいと思って。エミールのほうこそ、どうなんですか?」
公爵アンリによって私の記憶は全て消されたはずだ。そうすれば、元のいい子に戻すはずだ。
「エミールは問題ない。以前も俺たちには変わりないように見せていたが、今は厳しく監視しているので流石に隠して行動しようとしても無理だろうから、完全に記憶は失ったままだ。もうお前には面倒をかけさせない」
「そうですか……安心しました」
「エミールは寮からうちに移させ、屋敷から学校に通わせているんだが……最近寮の部屋の荷物の整理をしていたら、気になる物が見つかったんだ。夫が見たところ、それはおそらく花嫁の媚薬の材料で、完成品もいくつか残っていた」
花嫁の媚薬と言う言葉に思わず身体が震えた。
「エミールは……お前に使うためにアレを作ったんじゃないのか? 使われたんだろう?」
「いいえ! そんなことはありません!」
「使わないのならエミールが作るはずはないだろう! あの執着心を見れば、お前を薬漬けにしても不思議は無い! アレには副作用があったはず。エミールがいなくなって困った事になってはいないのか?」
薬漬けにするほど過剰には与えられていない。けれど副作用が起こる程度にはエミールに服用を強要されていた。
「いいえ!」
「セシル! 俺はお前の兄だぞ! お前が嘘をついているときの顔くらい分かる!……お前が王都に戻ってこないのは副作用のせいで、男がいないと駄目だからか? 俺がお前を批難するつもりは無い。エミールの親としてそんな資格は無い。だがお前が薬のせいで愛してもいない男達に抱かれているとしたら……」
「いいえ! 本当にこの家には誰も入れていませんし、エミール以外の男に抱かれているなんてこともありません!」
「……今度は嘘は言っていないな。しかし、エミールには媚薬を飲ませれていた。しかし副作用は無い?……そんなことありえないだろう?……セシル、お前そのコートを脱げ」
この部屋は寒い。一人になって自分だけしかいないため、夜になった今一階の居間には火をいれていなかった。だから家の中でコートを着ていても兄はそう疑問に思わなかったようだが、疑惑を持たれた瞬間、違和感に気がつかれてしまったようだ。
兄にも誰にも知られてはいけないととだったのに。
「……兄上、お願いですっ!」
「セシル! いい加減にしろ! お前だけの問題じゃないのは分かっているだろう!」
兄はエミールとのことが露見して始めて私に怒鳴りつけた。
それほど私が持っている秘密は大きなものだったからだ。
兄が一瞬にして私からコートを魔法で取り上げると、兄に全てが見られてしまった。
「……エミールの子を身篭っているな」
「……」
「黙っていてどうするんだ!……お前だけで抱え込んでいて、その子はどうなるんだ!」
そう、おそらく最後にエミールに抱かれた日。皆に事が露見したあの日に私はエミールの子を妊娠していた。
「……エミールがいなくなって、私は恐怖を感じました。確かに私にはそれまで依存性を感じていましたし、エミールがいなくなったら他の男に抱かれないといけないのではないかと」
そんなことはしたくない。誰にも抱かれたくは無かった。
だけど、薬の副作用が起こったら何が起こるか分からない。
王都にはそのせいで戻れなかったし、そんなことになるくらいだったら死のうと思っていた。
「けれど、何日経っても私には花嫁の媚薬の禁断症状は起こりませんでした……それで気がつきました」
「エミールの執念だな。最後の最後で孕ますなんて……それがなければ、お前はどうやっても男に抱かれないではいられなかっただろう。それが花嫁の媚薬の恐ろしいところだからな」
エミールの執念、確かにエミールの子がいなかったら私は今命を絶っているか、兄のいうように男に身を任せていたかのどちらかだろう。エミールの子が今私を生かしている。
「産むのか……そこまでになってしまえば産まないわけにはいかないだろうが」
堕胎する事は考えなかった。
誰にも言えないからちゃんとした医者に見せ、て手術を受ける事ができないからではない。
ただ分かった時に、そうする選択肢を思いつかなかったのだ。産んであげたい。こんな状況でそう思った。
それほどまだお腹が目立つわけではない。あの日に身篭ったとしたら、もうすぐ5ヶ月目だ。
コートで隠したら分からないが、服だけになれば妊娠している事は分かる。
「一人で産んで……育てます」
「お前、未婚で……しかも私生児になるんだぞ! 産めるわけがないだろう!」
この国では未婚で出産する事は許されていない。勿論私生児など有り得ない。
すぐさま結婚するか、どうしても結婚できない事情の時は闇から闇や葬り去るしかない。
唯一、私生児でも生まれる場合は、性的暴行を受けた場合のみ。
私もこれに当たる可能性はあるが、そう申告するわけにもいかない。エミールとのことは墓までもって行くつもりだからだ。
「生まれたら……この国から出て……外国に」
「外国に行って一人で育ているのか? お前のような世間知らずには無理だっ! それに、王族のお前が外国に行く事など、許可が出るはずは無いだろう」
王族や大貴族が他国に出るのはかなりの制限がある。
秘密裏に出国できないように厳しい監視がある。それは他国にこの魔力に秀でた血筋が流出しないためだ。
だから私が一人で外国に出国して、一人で育てる事など到底無理なことを言っているのはわかっていた。
けれど、この小さな命を、どうやっても消し去る事はできなかった。
「分かっています……分かっています……どんなに現実的じゃないことを私が言っているかは……兄上……こんなことになって、本当にごめんなさい」
エミールのことを思って兄に何も言わなかったせいで、余計に事態を悪化させてしまった。
すべて私の自業自得だった。
けれど、この子には何の罪も無いはずだ。
「セシル……お前は悪くない。悪くないから、泣くな。一緒にどうするか考えよう?」
私はもう29歳にもなるというのに、子どものように泣いて兄に抱きしめられていた。
******
それから兄と一緒にこの家で暮らし、出産の日を迎えた。
「セシル……よくやったな。可愛い子だよ」
兄に抱かれて泣いている、今生まれたばかりの子を見た。
髪の色は兄に似ていた。孫だから兄に似ていてもおかしくないが、私のほうから見ると兄の甥にもあたるので少し複雑だ。
兄に似て生まれたのはとてもよい事だと思う。
「早く、連れて行って下さい」
「セシルっ!」
「お願いだから早くっ!」
これ以上あの子を見ていられない。
「抱きなさい……セシルがこの子を母親として抱けるのは、これが最初で最後だ」
早く連れて行って欲しいと懇願しても兄は頷かなかった。抱けと強要する。
恐る恐る、その子を受け取った。
ごめんね、捨てるんじゃないんだ。
君に最高の未来を約束してあげるためなんだ。
この国では私生児は生きる価値がない。
14歳の未成年と、叔父との間に生まれた私生児なんて、未来が無いも同然だ。貴族社会で生きてはいけない。
そして王族と言う立場では、外国で育てる事もできない。
この国で産もうと思ったら、後ろ指を永遠に指され続けるか、一生この小さな家で誰にも会わせずに閉じ込めて育ているしかない。
そんな酷な事はできない。
だからね、君は兄上の子になるんだよ。
君の本当の祖父母だし、きっと大事に愛情を込めて育ててもらえる。
私が最初で最後に出来る、君への贈り物だよ。
「名前をつけても良いですか?」
私がつける権利など無い。けれど、侯爵家の伝統で、生まれた子は母親がその名を贈る。特に長男は父親から名前を一部を貰ってつけるのが慣わしだ。次男として育つ子だけど、せめて伝統に習ってつけてあげたかった。
「ああ、なんて名前だ?」
「エミリオです……エミリオ……元気でね。お兄ちゃんに可愛がってもらうんだよ。お兄ちゃんはね、ずっと弟が欲しいといっていたんだからね」
本当はお父さんなんだけど、一生知らなくていいことだ。
「元気でね、元気でね……」
兄がエミリオを連れて姿を消すまで、ずっとそうしか言えなかった。
悲しくは無い。だって、エミリオにとってこれが一番の選択だったはずだから……そう信じるより他なかった。
*
エミリオたんの出生の秘密★
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