ダリヤに傷つけられた足の怪我は痛みを感じるが、軍人として生きてきた中では怪我のうちにも入らない程度のものだった。それよりもやっと元通りの生活に戻れた快適さのほうを感じることが多い。
時間がジェスを開放するということは、ダリヤと同様ジェスも知っていた。だからこそダリヤはジェスを自白させようと急いでいたのだし、危険を承知で自ら父親を捜し歩いていたのだろう。
一見ジェスのほうが不利にみえて、実際はダリヤのほうが不利だったのだ。まず時間が無かったこと。ジェスの拘束が長引けば、クライスが再び犯行を犯す可能性が高かったし、ジェスの勢力がダリヤの後ろにいる黒幕を潰すのは目に見えていた。
それを分かっていて、ダリヤは急いでいた。ジェスに罪を着せることを。だが、ダリヤは失敗すらも視野に入れていたのかもしれない。先ほど拘束されて連れられてきた時に見せた表情は、まだ余裕が見て取れた。ジェスを失脚させることに失敗したはずなのに、その表情は失望を露にしていなかった。まだ何かを企んでいるのかもしれない。
「ユーディング中将……ダリヤ・ハデスを、どういたしましょうか」
ダリヤが行ったことは、犯罪だ。きちんと立証するために、ジェスを拘束し牢に入れたように、普通だったら取調べをする。
「そうだな……私の仮眠室にでも閉じ込めておいてくれ。勿論見張りは置いてだ」
ジェスはそうしても良かったのだが、ワグナーやロシアスの反対にあい取りあえず拘束のみとすることにした。彼らの言うことも分からないでもない。ダリヤがデュース中将の手先となっているのは、何か理由があるにせよ、その大部分はジェスへの怨恨にあることをジェスも理解していた。あの憎悪を見せ付けられては、否定もしがたいだろう。
「それで宜しいのですか?……中将やロシアス大佐はおそらくダリヤ・ハデスはデュース将軍の手先だとおっしゃいますが、証拠はありません。彼女を尋問して、将軍を逮捕し、中将の汚名を雪がないと」
「汚名か…ダリヤがそのことで何かを言ったのか?」
「はい……彼女は『俺を捕まえて勝った気になっているかもしれないけど、負けているのはそっちだ。俺は拷問されても何も話す気はないし、中将はたとえ今回の殺人が起きたおかげで開放されたとしても、一度かかった嫌疑は晴らせない。一度疑いをもたれたら、それで終わりだ。トップにはなれない』と……たしかに中将は疑いは晴れて、釈放された形にはなっています。ですが、彼女が言ったように、黒い噂は付いて回ります。真犯人を…彼女の父親のクライスを逮捕し、デュース将軍がダリヤ・ハデスを使って中将を落としいれようとしたと証明しなくては、潔白だと周りが認めてはくれません」
「君の言うこともよく分かる」
レンフォードの言うようにできれば、それが一番だ。元々ジェスの妻子を殺害したクライスを捕まえることはジェスの宿願であったし、ジェスを蹴落とそうとするデュースを処分しなければいけないことも分かってはいた。
「彼女となにがあったんですか?…今まで聞きませんでしたし、言いたくなければ無理に聞き出そうとは思っていません。ただ……あの子は中将を、殺したいほど憎んでいました。ワグナー大尉も彼のことを知っていました。無関係ではないのでしょう?」
「簡単に言えば……ダリヤを売春婦として扱った。孕んだ子どもは二回処分させた」
簡単に言ってしまえばそれだけだ。ダリヤとの出会い、ジェスがダリヤに恋愛だと思いこませ、弄んで捨てたこと。話せばそれなりに長くはなるが、簡潔にすればそれでことが足りるどこにでもあるような話だった。
「それは……彼も納得ずくのことですか?」
「いいや…リヤは私に恋をしていた。だが私はクライスの娘だと知って、リヤに近づいた。ついでに言うなら、子どもを産みたがっていたリヤに蹴落として死産させた」
そこまで確認したわけではなかったが、あの様子ではダリヤの命が助かったことすら驚愕に値するほどだった。出産で命を落とす女性は多い。ダリヤはあの有様で、身体も小さく、まだ14歳だった。とても生きてはいないだろうと思う。
「ショックかね?私がこんな男で」
「それは……」
「ダリヤ・ハデスが私を恨むのも無理はないと言いたいのだろう?」
確かにジェスがダリヤにしたことは褒められたことではない。
いわゆる下層階級のものたちは貧しい暮らしのなかろくな教育も受けられず、ダリヤのような境遇の子どもたちも多い。それこそジェスがダリヤに出会った歳よりも幼い少年が客引きをしていることも少なくはない。どんなにジェスが司令官として治安回復に努力していても、それは変わることはなかった。そんな少年たちは身を守るすべも知らず、客の理不尽な暴力に耐えていくことも多い。ダリヤのような過去を持つ少年など山のようにいるだろう。
だが、そんな男たちを軽蔑し、そんな不幸な子どもたちを一人でも少なくして見せると誓ったことと、あまりにも矛盾しているとは自分でも分かっていた。
「冷静になってみると…馬鹿なことをしたとは思っている」
少なくともこんな面倒ごとを起こすことが分かっていたら、絶対に関わろうとはしなかったのにとは思っても後の祭りだ。それに当時は、感情の行き場所がなかった。
「だが…あのクライスのことになると…私は押さえが利かなかった」
ああするしかジェスには感情を抑えるすべが見つからなかった。
「奥様のことは気の毒だったと思います……でも!それは…あの子には罪はないことです」
「ダリヤが…リヤがあの男と同じ血を引いていると思うだけで、許せなかった」
ショックを隠しきれないレンフォードを見て、過去一緒にいたのがワグナーではなく、彼女であったらジェスを止めてくれただろうにと、無責任にも思った。いかに激情に駆られていたとしても、部下に詰られれば目も覚めたのかもしれない。ワグナーは上官にとがめることもできず、ただ見ていただけだった。
「ワグナー中尉も……知っていてのことなのですね。どうして…貴方ほどの人が!」
「さあ……分からない」
誠意のない言い方だが、こうとしか答えようが無い。当時のジェスの感情をどう説明しても、レンフォードには納得のいくものではないだろうし、ジェス自身説明しがたい感情だからだ。
「彼女を捕らえないのは……彼女と中将との過去を露呈することを恐れてですか?」
「いいや……そんなつもりはない。今となってはたいした証拠も残ってはいないし、詳細を知っているのは私とワグナー、それにダリヤだけだ。ダリヤは過去のことで私を失脚できないことは、頭のいい子だ。分かっている……だから、あんな男の狗になってまで私を滅ぼそうとしているんだ」
過去を暴露されることを恐れているわけではない。そんな何の証拠も出てこない過去の醜聞など、ジェスにとっては痛くも無い。ダリヤとの逢瀬には最大の注意を払っていた。もし露呈しても客と娼婦としか見えないように振舞っていた。過去のことはジェスの脅威にはなりえない。
「それは……ある意味当然です。中将は…彼に…彼女に復讐されても仕方の無いことをしたんですよ?私は…彼女だけを一方的に、軽蔑し、罵りました。誰とでも寝るような、汚らしいスパイだと、でも!」
明らかにレンフォードはダリヤに同情を示している。同じ女だからだろう。ここはワグナーやロシアスとは異なる点だ。勿論彼らもジェスのした行為を非難していた。だがダリヤに同情的というよりは、どうしてもジェスをいかに守るかという方向に思考が偏りがちだった。
「では、どうする?……私に見切りを付けても構わない。君からしてみれば、私のほうこそ軽蔑すべき男に違いないだろう」
副官であるレンフォードに去られるのは、片腕であるロシアスがいなくなるのと同じほどジェスにとっては痛手だ。しかしレンフォードの信頼を裏切るような真似をしたのはジェスだ。彼女に去られても文句は言えない。
「……いいえ。私はユーディング中将を信じてここまでやって来ました。例え貴方が過ちを犯していたとしても、私たちにこの国を変えてみせると……そう言った言葉は嘘ではありませんよね?」
「ああ…それだけは嘘はないと誓える」
「では…私は今までと変わらず中将について行きます」
レンフォードは己の感情よりもまた、彼女自身の信念に基づいてジェスを選んだ。それは勿論ジェスにとっては好都合だったが、きっと後悔するだろう。女としてと軍人としての感情をどちらも併せ持っている限りは。
「彼には私が説得します。こちらにつくようにと……だから、中将も彼に誠心誠意、謝罪してください」
「分かった…ありがとう」
そうは言うものの、悪いとも思っていない自分が誠心誠意謝罪などできるとも思えない。自業自得と罵られようとも、大総統選を目の前にして軍人としては人に後ろ指を差されることはなかったジェスをこうまで貶めてくれたダリヤに、何を謝罪しろというのだろうか。