ダリヤは何一つ過去のことを忘れてはいなかった。たとえ目の前の男が、自分のした行為を忘れて清廉潔白の見本のような顔でいたとしてもだ。過去を捨てて、新しい自分になっても、それでもジェスに受けた仕打ちを何一つダリヤは忘れていない。決して忘れられない。再び馬鹿なことを犯さないための戒めだった。
「そろそろ吐く気になった?」
「はっ!やってもいないことを吐くことはできんな」
不眠不休で尋問させているというのに、ちっとも堪えた感じは見られない。相変わらずふてぶてしい態度をジェスは崩そうとはしなかった。やつれているのは傍目にもうかがい知れたが、それでもあの焔のような眼は変わりはなかった。
知れずに笑みがこぼれた。何が嬉しいのか自分でもよく分からなかったが、ダリヤが追い詰めようとしている獲物が、まだその誇りを失っていないのが嬉しかったのかもしれない。
「中将……司法取引といこうじゃないか?中将が、この一連の連続殺人の容疑を認めるサインをすれば、軍法裁判にかけずにおいてやる。軍法裁判にかけられれば殺人罪なんだから死刑は免れない。だが、サインをすれば、地位は剥奪されるが、命だけは助けてやるよ。まあ、一生刑務所の中だけれどな」
「ごめんだな」
ダリヤがこんな取引をしてくるのには理由があるとジェスも察することが出来た。ジェスを軍法裁判で有罪に出来るだけの有力な証拠がないからに違いない。当たり前だ。濡れ衣なのだから。
むしろジェスとしては軍法裁判にかけられたほうが、自らの無罪を勝ち取るチャンスがある。軍法会議所の総責任者はジェスの親友でもある、ロシアスが勤めているのだ。ロシアスやレンフォードも憲兵本部では融通が利かせなくても、一旦ここを出てしまえばジェスのほうが圧倒的有利だ。
それを分かっているからこそ、ここで終わらせジェスを失脚させたいに違いない。敵の狙いはジェスの命ではない。ジェスの軍での政治生命を絶つこと。大総統選から引きずり落とすことが第一の目標なのだからだ。
そして復讐が目的のダリヤも、ジェスを簡単に死刑にするだけでは物足りないのだろう。ジェスから地位も野望も全てを奪い取って、惨めな姿を見たいに違いない。
「ふうん……だったら、ここはスタンダードに拷問でどう?中将も訓練を受けた軍人だろう。どこまで耐えることが出来るのか、見物だよな」
「拷問は禁止されていると知らないわけでもあるまい……拷問によって得られた自白は、裁判では証拠にならない」
「良いんだよ…アンタに公平な裁判なんか受ける権利なんてないんだ…だって裁くのはこの俺だから……さあ、ジェス・ユーディングとサインするだけだろう!それで楽になるんだ。命までは取らないでいてやるって言ってるのに、強情な奴だな!」
サインをすればジェスは全てを失うと分かっているのに、素直に応じるほど馬鹿ではなかった。
「そんなに私が好きか?」
「……どういう意味だ?」
「抱いて欲しかったんだろう?だから、正体を隠して私に近づいたんじゃないのか?抱いてやろう…いくらでも、昔みたいにな」
怒らせるのを分かっていて言葉なのだから、ある意味嫌味だ。
「自分が…何をしたか忘れてるな」
それまでは口先だけだったダリヤの顔色が明らかに変わった。それに微笑みかけてやると、何か鋭利なもので太もももを刺された。しかも何度もだ。それなりに痛みはあったが、これくらいの報復はあの軽口を叩いたときに覚悟はしていたので、悲鳴を漏らすわけでもなかった。
「痛い?」
「これで痛みを感じないわけないだろう」
「こんな痛みなんか、俺がアンタから受けた暴力に比べれば、大したことなんかないだろう?」
怒りの余りに我を忘れ、何か情報でも無様に漏らせばと思ったが、それほどダリヤも馬鹿ではなかったらしい。だが痛みを感じないはずがないと言ったにも関わらずジェスが、顔色一つ変えようとしないのが気に障ったようだ。太ももに刺した物体を振り上げると、ジェスの顔目掛けて振り下ろそうとする。
「おーっとそこまでだ。少年…それ以上のオイタは止めておこうね」