「中田の兄貴」木村は緊張感で蒼白だった。「布施会長、並びに西野若頭」
盃を受け取らせてくれと膝を折るので、まあそこ座れ、と西野は云った。隣を見る。
大友というのは枯れかけのサボテンのような風貌の男だった。三年水が無くとも生きてきたが、そこにあることすら人々から忘れさられていたと言わんばかりである。今さら水を与えたところで復帰できるようには思えなかったが、西野はそれを唐突に始めた。
「おどれ何言うとるんじゃボケ。ア?」
脚を組んだままふんぞり反っている中田が後を次ぐ。布施は椅子そのもののように存在を消していた。両者の圧しが木村にかかるが、大友は聴覚障害でも持ってる風に聞き流している。
あまりに反応が薄く、西野は一瞬躊躇った。これは中田の云うとおりかもしれぬ。花菱としては山王会を何としても潰しておきたい。その手のうちを木村にちらつかせ、呼び込んだ時点でこちらが不利なのだ。
しかしその間を捉えた中田は引き下がらなかった。ナメしくさって道具貸せ。の一言で西野の背筋を汗が伝ったが、長年の相棒はそのことまで心得ていた。ホレ、兄貴。アンタが言い出しっぺなんでっからシャンとせぇ。とばかりに自分の側の机を蹴られる。右手に会長もおるんやぞ、と内心呆れた。
指詰めるんやったら、と西野は木村に向き合った。「ドスか包丁か。出したろか」
胸の高鳴りが抑えきれず、つい唇の端を引いてしまう。大友にそれを気づかれた。しかし中田も早かった。拳銃をちらつかせる。
「オイ大友。お前も指詰めるか」
「チンピラ」
「誰がチンピラじゃ」
雄叫び。ボタンを剥ぎ取るような音。「これで文句ないでしょう、山王会くらい俺らだけで取ってみせますんで」と木村の声。
噛みちぎった指が落ちていた。西野はしもた、と思った。いつになくイキイキとしている中田の横顔に見惚れているうちに、肝心の指を詰める瞬間は見落としたのだ。憮然としている西野の様子で、中田にもそれがわかった。人がせっかく虚仮脅しもいいところの怒声で茶番を演じてやったのに、という気持ちでこちらもふてくされた。
この裏事情は大友には知り得ぬことだったが、遊ばれているなと途中で気づいたことが今や確信に変わった。それだけの余裕があるのが花菱なのだ。
大友は厭な味を喉に残した。
鶴の一声で木村は医者に、大友は別室の座敷に通すこととなり、部屋に残った花菱会の面々は三者各々恐持ての顔を見合せた。
「――ッ」最初に吹き出したのは意外にも中田であった。「……ッ! ぶふッ」
「や、やめ中田。う――うつる!」
西野の制止は遅かった。布施が額を押さえて前屈みになり、「わははははは、がはっ、がはははは」と息を切らした。
「あはははっ。はは、はひっ、み、見た。わては見たで! 指! なあ、見たやろ、西野?」
「見れまへんでした。見逃しましたんや、コイツの馬鹿でかい声のせいで……」
「なっ。なん。あんな煽っといてからに兄貴!」
布施は涙を流した。清水がハンカチを渡すとそれで拭く。
「中田。職種替えしたほうがええわ、勘当や! 口利いたるさかい、刑事になんなはれ。こんなチンケな商売よりよっぽど儲かるで」
「それはあんまりですわ会長」
「見たかったな……」
布施の喜ぶ顔を見て、西野は呟いた。状況も忘れてこの発言である。
「あ。アホや――なんも、く。口で切らんでも」布施は息も絶え絶えだった。聞いていない。「あっ、あんさんら、怖い。怖いわ! わて口挟めんかった。どないしてくれんねん、心臓に悪い。え? わてと記念写真撮ろか中田。おまえは落ちた指くわえて見とり西野」
西野はますます沈んだ。
けしかけた責任のある中田は木村を気の毒に思った。仮にも盃を交わした弟分である。しかし笑いのツボは容赦なく襲ってきた。「真面目なやっちゃ。……はッ」
「痛そうやったな。うん。確かに、あれは痛そうやわ」
「可哀想なこと、しました」
「思てもないこと云うんやないで、中田」
「はあ。兄貴がヤれ、もっとヤれ。みたいに煽ってきはるからでっせ」
三者の後ろでは清水が溜め息を吐いた。若衆の一人が指を拾おうとハンカチを出したが、引き留める。中田の戦利品だからだ。
少し笑いをおさめた補佐は、指の前に屈んだ。血のついたもぎたての指を、ちょいと触って摘まむ。これだけいってもうたら爪は生えんわ、と中田は木村を羨ましく思った。同じ痛みでも感染症や薪割りの代償と同列には扱えない。黙っていても、伝説になるはずだ。関東から殴り込みにきたアホの帝王として。
「はあ――」西野の落ち込みようときたらなかった。
「で。どないすんねんな。盃やってええんか?」
「会長が訊いてどうしますん。俺らの仕事はもう半分終わったようなもんでっせ」
「指の一本ぐらいではなあ」布施は椅子に座って頬杖をついた。「でも。木村にあそこまでやられたら、義理が出来たんとちゃうか。大友も」
あいつら使えるわ、と布施が云ったので、西野と中田は面を引き締めた。しかし問題はその先である。
あくまでも表向きは会長から盃を得た大友と木村が、勝手に山王会を攻めこみにいく風でなければならない。花菱が直接やり合えば、途中で仲介人の仲裁が入り手打ちとなったとき――これはどう転んでもお互いのメンツを保つため必ずそうなるのだが――引退するのは布施になってしまうからだ。
布施と加藤では、二分八とは言えずとも格が違いすぎる。さすがの布施も、ぽっと出の雑魚を相手に引退する気はなかった。
「ま――ほどほど使うたら、両方切るか」
室内が少し冷えた。
西野は中田と顔を見合せ、うなずいた。「それがええですわな。木村もなかなかのモンですけど、身から出た錆。大友にしよっても、うちで飼い殺しにすると今度は花菱を潰すぞと言いかねん野郎やし」
「一度楯突いた人間は組織には置いとかれへんからな。使い捨てでもかめへんか。中田」
「最初からそのつもりですわ。善意の皮かぶって、なんぞ手駒にならへんかなと声かけたんで」
特別つくったような声ではなかったが、布施は唇の下を親指で掻いた。
「――汚れ仕事、増やしてしもたな。不甲斐ないわ」
布施の調子に、中田は首を振った。仁義を通すのは所詮は身内だけである。己が大事と思うものは、布施と先の会長くらいであった。その点は西野となんら変わりないのだ。
「会長」西野も口を挟んだ。「会長は極道向いてはらへんのや。厭な仕事は、わてらに全部任せとったら、ええんでっせ」
布施は苦笑した。「あんがとさん。そろそろ席譲ったろか?」
「中田。明日から若頭やらへんか言うてはるで」
「ドタマかち割られるまで、布施会長がおってください。俺らもそのほうが長生きできるし」
「二人でばっかしつるんで。もうええわ」
清水に合図を送り、布施は大友と木村に盃をやることを指示した。そして子分二人をねぎらって笑った。