【全員悪人】


13



 籐椅子に腰かけたまま、女は振り返らなかった。邸宅の中は静かだった。少年は、そのほうが楽なんやろ、と女に聞いた。女は、そうね、と返した。

 雫石が雨音を奏で始めた。少年は女に寄り添った。山奥で鳶が鳴いた。しばらくして、少年はスカーフから指を放した。女は目を瞑ったままだ。寝ているようにも見える。そうね、と少年は高めの声で繰り返した。そうね、貴方はね――と繰り返した。そうすれば自分を責めてくるように思った。しかし女は一言もなかった。抵抗することなく息を引き取った。

 唇が開きはしまいか。皺の走る瞼の際に涙の一つも浮かべまいか。冷える指先が温もりを求めてさすらった。母親より年上の情人の影に、少年は額を重ねた。強い執着があった。雨は激しさを増した。

 翌朝、床に寝そべっていると侵入者に横っ面を叩かれた。逆光の眩しさで少年は目を潜めた。男は怪訝そうな顔をしていた。男は更に少年を叩いた。痛みで仰け反り呆ける少年をまじまじと見てから背を向けた。女の蒼白い頬を手の甲で撫で上げる。窓際まで下がった少年を振り返り、いつ死んだ、と聞いた。少年は、首を絞めたと事実だけ言った。男は女のくしゃくしゃになったスカーフを拾った。それからは特に暴力も振るわれなかった。

 男の部下が女の遺体を始末するあいだ、少年は床から男を見上げていた。窓辺の花瓶を弄っている。女との関係を尋ねると、弟だと少し笑った。少年は山奥でおよそ三年間、女と暮らしてきたことを話した。男は唸ったきりそれ以上を聞いてこない。下界は面白いですか、と少年は聞いた。

 男の落ち窪んだ目は、女とよく似ていた。男は両膝を折って少年の前にしゃがんだ。これは内緒やけどな――と布施は応えた。



「俺と来るんやったら、退屈なんぞ感じる暇はないよ。坊や」



***


 西野が花菱に顔を出したのは、その週だけで三回目だった。また同じ顔や、と誰かがいうので、眺め甲斐のある顔でしょ、と西野は返した。

 布施は大きな黒塗りの座卓の上に、無造作に道具を並べていた。彫刻刀を逆手に握ったまま眼鏡の縁からこちらを見るので、(指でも刺さんことか)と西野は期待した。期待は裏切られた。

「使い続けな腕も訛るな」布施は膝の木屑をパラパラと床に落とし、苛立ちを隠さず言った。敷かれた新聞紙の一面にはやくざの小競り合いとおぼしき喧嘩の見出しがかかれている。そのいくつかは西野の指示だったが、二人は頓着することなく屑をまとめた。座敷の端に控えていた舎弟が音を聞きつけ飛んで来る。

「ああ、後はこの人がやってくれるから」西野を顎で指して、布施は肩を回した。「休憩や。根詰めると疲れが夜に響く」
「それはそれは――」

 舎弟への目配せで洒落た紅茶が出てくるのを見て、西野は口をつぐんだ。「煙草は?」

「横になると咳がなぁ。やめどきかもしらん。極道がパイポじゃ格好つかんやろ」
「添い寝は?」
「しに来てもええけど、娘っこみたいなんが最近」

 西野は目を丸くした。布施はふふと笑った。「やらしい。悔しい。憎らしい」

「俺の娘っこくらいやで。おまはんくらいの」

 西野は天井を仰いで、少し考えた。「咳込んだら背中撫でてくれるんでしょ?」

「イビキかいて屁をこくんや。夜中に苦しゅうて起きたら太ももが顔の上に」
「やらし。ええなあ」

 取り寄せた木材が気に入らなかったのではないか。西野は気を揉んだ。しかしそれは杞憂だった。「新しい鑿はええぞ。奮発した甲斐もあったで。見るか?」

「はあ」興味など蚤の毛ほどもなかったが、西野は老人の好意の気持ちを聞き分けた――あるいは断った後の報復と、末代まで続く恨み言が恐ろしかったので素直に従った。「おお。これはかの有名な名刀正宗ですな」適当だった。

「通販のセットで二万。分割」
「……勝るとも劣らない鋭利な刀筋。おい、そこの。こっち来てお前も見てみ」

 黒服は会釈しただけで棒立ちだった。西野は咄嗟に出た舌打ちを咳払いでごまかした。布施の視線を避けるように鑿をかざす。

「マサムネって彫りましょうか」
「役者で絵本作家の」
「それはマサカネ」
「ホルモンラブと歌っていた」
「それはマサトウ」

 西野は震えた。「会長はん――退屈しとる?」

 布施は目を伏せてぷいと横を向いた。「人間孤独には堪えられん言うやろ。西野、あれは嘘や。独居老人も清水も俺もノビノビ生きとる。余暇が人を腐らすんじゃ――」

「清水はあれで結構いそが……会長、睨むとこ違てますで。普段は仏の若頭と呼ばれる俺だって、百回に一回くらいはこの鑿でもって会長を――いや、二十に一回――あるいは五回――」
「隠居前やぞ」
「隠居前やからこそ。あ、ごめんなさい。もう言いません。お茶が切れましたので是非わたくしが」
「帰れ」
「帰ります。お邪魔しました」

 西野はうろうろと廊下を彷徨いた。顔は見せた。用事も済ませた。すれ違う度に野太い怒声が響く。返事は「おう」から始まり、二回、三回と続くうちに「おうッ」「わあッ」「やあッ」と逆に脅し始めた。最終的には廊下の角で待ち伏せたが、西野が来ていると知った舎弟はそのうち室内から様子を伺い、出てこなくなった。若頭はそれきりその遊びにも飽きてしまった。

 鼻唄を歌っていると若衆の一人が重みのある声に気づき、挨拶と共に深々と頭を下げた。西野は手をあげて通りすぎかけ、「あ。なんや。ボン、なんやった、その」と振り返った。舎弟は顔を上げた。

「要です」
「かなちゃん。夜に会長のお世話しとる女のこと知っとる? ちょっとトウ立っとるかも」
「は」
「夜に会長の――」
「存じ上げません。会長付きははずされました」

 見てすぐそうとわかるほど要は落ち込んでいた。西野は「あら」と口に手を当てたきり左右を見定め、持って行き場のない指で首筋を掻いた。

「その方がどうか……」
「ボン。聞くのは俺。おまえは答えるだけ。なるべく簡潔に。口外はしない。基本やぞ」
「も、申し訳」
「いや。あの人とはずいぶん長い付き合いやけど、女がイケる口とちゃうはずやから」

 要が言いつけ通りに脂汗を足らしながら直立不動で唇を結んでいるので、西野はようやく安堵の息を吐いた。

「長いこと生きてみるもんやなぁって」



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