【全員悪人】


10



 車の助手席に年寄りが座っていた。会ったことがあるかと問いかけて、痛みに呻いた。相手は礼儀正しく名を名乗ったが、用件を言おうとしない。

 後部座席で大友は口を開いた。運転手の他にも、二人の舎弟が脇を固めていたからだ。銃口は腹の古傷に障るのでやめてくれと頼むと、老人がしまえと命じた。集団で襲いかかってきた男たちのことを聞かれ、こうなる以前の状況を思い出した。あれはうちの直系の者ではないが関係者だと頭を下げられた。

 大友はなぜ自分の身元が割れたのか、どういう経緯で身柄を拘束されているのか聞こうとした。しかし老人の名前をどこで聞いたのかに思い当たると、すべてが面倒になって目を閉じた。

 眠りにつく直前に光を引き寄せる。まばゆい輝きである。目蓋の裏にはそれが常に瞬いている。指一つ動かすことなく大きくすることさえ出来る。目を開ければすべては消える。現実の闇が唯一確かなものだった。

 自分を送り出した女のことを思った。素人と知りながら付き合いを拒まなかったのは、抱えたままの問題をいっとき忘れるのに有用だったからだ。

 女は泥だらけの携帯電話を差し出した。大友は傘を買って彼女に渡した。出逢いを繋ぐ小道具は他になかった。気がつくと隣を歩いていたので連れ帰った。

 塗装工だということにしていた。間借りしているアパートの寂れ具合に見合った言い訳を用意した。階段際ですれ違う目付きのスレた男たちは、その筋特有の臭いを発していたが――女は構わなかった。向かいや隣の部屋にかけてある偽の表札を見ても、疑問を投げかけることはなかった。

 部屋を訪れる度に繰り出されるおままごとは馬鹿げていた。病院より簡素な男の部屋に、珈琲と観葉植物をまず持ち込んだ。洒落た食器がなかったので、珈琲のほうはご飯茶碗で振る舞った。初日は大友が淹れた。

 居心地がよかった。互いを詮索することもしなかった。これで猫でも拾ってくれば完璧ではないかと期待すると、祭りの夜店で捕まえたという金魚を洗面器で飼い始めた。

「子供がおるんよ。父が面倒みてくれてるけど、毎日は来られへん」

 自分は関わりになってはいけない不釣り合いな男だと、告白するのは勇気がいった。感情を削いだような乾いた声しか出ないために、女に対する執着も伝わらないのではと不安になった。

 女は少しの間、押し黙り、迷惑? と聞いた。難しい顔をして肯定するつもりだったが、意に反して顔を綻ばせ口癖を漏らした。女もホッとしたように笑った。

「心配せんでも一緒に転がりこんだりしませんから」
「……人形。買ってやるよ。金魚の礼に」
「息子です」
「野球。教えてやるよ。俺は下手だけどな」


 その夜――すっかり記憶の底に追いやったはずの亡霊を夢に見た。


 バットの柄を捩じ込むと気が狂ったようによがるので、名前を思い出すのに苦労した。ボールを口いっぱいに詰め込んで、眼鏡の向こうから欲求してくる。その目は潰れており眼球のあるはずの場所には穴がぽっかり空いている。酷い悪夢である。

 女の顔が心配そうに覗きこんだ。叫んだのだろう。

 復讐を果たしたことを後悔したからではない。首の半分千切れた組の若頭を夢に見ることもあるからだ。そちらは恨めしげというより愉しそうだった。自分の髪を持ち上げ逆向きに捻り、「カシラ。自分のケツの穴見たいんで、後ろから引っ張って貰えませんか」と言ったきり二度と現れなかった。

 名前を呼ぶ声に顔を上げた。年寄りの顔があった。

「――大友さん。若頭が」

 二重に見た夢は全て消えたが、ポケットには捨てたはずの携帯電話があり、帰る場所があることを大友に思い出させた。

 窓の向こうでは現実の光が空に反射している。夕暮れと錯覚するほどの陽射しを浴びた小男が、ポケットに手を突っ込んだきり佇んでいた。



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