【全員悪人】


03



 朝は白けていく。通り雨の予兆があった。

 ホテルのロビーは閑散としていた。端で夜通し碁をやっていた老二人以外には、ボーイとマネージャーが二人、事務仕事に精を出しているだけだった。出入口から柱を隔てた端のラウンジで、会談を始めることになる。「こんな場所で」と下の者が口を開くのを待っていたように、布施は微笑んだ。

「いま斬り込まれたところで損害なんぞ知れとる。何年か前の関東がええ例やったやないか」

 会長に向かい合った阪元と岡安は口をつぐんだ。花菱の手中に入った関東山王会は、究極の下剋上で成り上がった加藤という男が長く君臨していた。それ以前のことが表沙汰になったのは、つい最近である。その残党はすでに花菱の監視化にあった。

「あそこの会長はんは殿中で襲われた吉良そのもの。家臣のほうが何枚も上手で殺られてもうたけどな。牙を抜かれた野犬の群れに用はない」

 仮に狙われたとして、と布施はいった。

「おまはんら二人、盾になってくれるんやろ」

 布施の目の奥に光ったものを捉え、舎弟は生唾を飲み込んだ。

「へえ……それはもちろん」
「なんちゅう顔しとる。酒の飲み過ぎには気ィつけぇや」

 へえ、と若頭補佐の低い声が横で響く。下座に座っている岡安にも、緊張が伝わってきた。

 布施は後ろについた舎弟に煙草をかざした。ところが舎弟は火を点けそこね、何度かライターをカチッ、カチッ、と擦った。

 岡安は阪元と目を合わせようとした。阪元は次の出方を必死で考えている。岡安は布施のガードについている男が誰であるか思い出した。

 既に小さい組を預けられている若衆だ。名前は確か――と顔を覗きこむと、要の震える指の中で、火がついた。布施はそれを真顔で待っていたが、首を傾げた。

「ん? そのライター」
「へ、へえ。会長。申し訳ありません」

 まだ青臭さの残るあどけない顔に布施は手を伸ばし、几帳面に結ばれたネクタイに触れるか触れないかの位置で指をおろした。先月までお仕着せだったスーツがオーダーに変わっている。岡安の鋭い目は要を舐めるように見た。

「虐めとるんは、清水か。あれの言うことは右から左に流しとれ。いちいち気にせんでもええ」

 火のほうは次やったら張り倒すけどな、と布施は煙草の煙を吐いた。返事をした要のこめかみを汗がつたう。石像のようになっていた阪元は、清水の名前に顔を上げた。岡安の心臓ははねあがったが、叱責はなかった。

 清水という男は花菱幹部の札の同じ位置にいつまでもかかっている老朽である。下の躾は長年若中が行っていたが、年の暮れ、自分の退陣と共に引退させる心積もりなのだろう。胸の中だけで息をついた。清水は自分のすぐ上である。

 岡安は本邸の松の木を嫌っていた。関西を拠点に大きくなる一方の花菱会といえど、本拠地を狙う命知らずの殴り込みと無縁ではない。弾を受けて腐り、倒れる樹木もある。

 布施会長の私室から見える老松だけは、その限りでない。隠居部屋と称されるそこに、布施が居ることはほとんどないのだが。これまで花菱の奥座敷にたどり着いた敵はいない。

 ――清水は布施を支える老松と同じだ。

 あの老人を切りたがらない若頭の本意が何かは知らないが、布施が居なくなれば押し上げる可能性が高い。そうなると、岡安が補佐の位置におさまるのは更に後になる。

 岡安はだんまりを決め込んでいる補佐の代わりに、口を開いた。



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