【全員悪人】


30



 布施から退院祝いに貰った杖で、瑞垣を不信心にもカンカンとやりながら西野は鼻歌を歌った。参道には篝火が点々と続く。

 檜造りの橋には立ち寄らず、まっすぐ本殿に向かった。要石を下駄裏でじゃりじゃりとやる度に、次の石段を探るように上がる。行灯の灯りが人魂のように揺らめき、四方に目映く鋭い光を放った。湿度が高いのは雨の前触れだろう。

「東風ふかば匂ひおこせよ梅の花、云うてな」

 主なしとて春を忘るな――と続ければ、何や無駄に教養ある極道なんぞ流行らんで、と返ってくるので中田は苦笑した。

「昔、若頭が教えてくれたんでっせ。菅原道真が所領やったこの場所から大宰府に左遷――中小別宗則に自作の念持仏持たせたら、死後に祠建てられて木像と一緒に安置したんが始まりやて、受験生の俺に筆買うて」
「兄貴たちにボコボコにされながら夜間大学受けるとか言い出すから、大阪の天神さんだけでは不安やったんじゃ。大概ええ歳やったのに」

 浴衣の上から外套を羽織っているが、立春もまだ越えていない冬の京都は体に毒だ。飯島が編んだマフラーで首をぐるぐる巻きにして、鞣し革の手袋を嵌めてやれば「指キツいわ」と西野は呻いた。杖のほうも布施の木彫りである。花菱の面々は無駄に手先が器用だった。

「同じ年の生まれで兄貴は大学出てましたやろ。話ついていけんで、そのうち置いていかれるんや思て。必死やったんで」

 寒さに喘いだ中田はいっそう口数が多くなった。手袋の一方は突き返される。西野は無言で顎をしゃくり、中田が差し出した腕を組んで冷えた側の手指を外套のポケットに入れた。

「俺はお前ほど苦労したわけちゃうからな」
「今してますから釣り合い取れてええ具合や」

 社務所が閉まっているのをいいことに、手水舎を素通りする。何人もの人の手に触れられ角が取れて丸くなりかけている百度石をぽんと叩いて、西野はいった。

「先の会長はんが死ぬ直前にな、布施会長がお百度詣りしてたん知っとるか」
「いずこで」
「なんやよう知らんけど、四条近郊にポックリ寺みたいな神社があるんや。苦し紛れに半死するんが一番怖いやろ。脳梗塞で倒れてそのまま胃瘻とか」
「食べる楽しみのうなったら、生きるっちゅうより生かされとる感じにはなりますわ」

 中田は育ての親である祖父を思い出した。鎌で落とした指を拾って氷で冷やし、高熱で朦朧とした自分を背負って村唯一の医者の元まで山を登った強者であった。晩年は食べ物が喉を通らずあっさり逝ったが、現代医療であればそうはいかないだろう。

「死なんでおって、て祈りにいったんとちゃうねんで。早よ楽にしたって。わしがおる限り組合は大丈夫やから、苦しんどるの見やんで済むように楽にしたってゆうて」
「――」
「な? 俺もそんな顔になったわ。先代は何人手慰みに殺したんか数えきれんほどやのに、安楽死させたろか云う神経がわからん」

 西野が眺めた杖には、登り龍が粗削りではあるが熟達した彫りで表現されていた。

「人間が複雑すぎてちょっと頭の線切れとんのかもわからんな。会長は」

 安易に死ぬことさえ赦されない立場に就いている今では、自分も他人事では済まぬ話であった。

 財布を持つ習慣がないため、小銭に困って札を出す。二礼二拍手の作法も何もなかった。空中に静止した片手にぱちんと合わせ目を閉じた。中田のほうは賽銭箱には見向きもせず、木綿に記帳して木箱の下に諭吉を置いた。

 帰りは中田が西野の腕に掴まった。駐車場は隣の車から何が起こるかわからないため、畑向こうに舎弟と共に待たせていた。

 石碑の名前を暗がりで見下ろしながら、奉納の米俵など観賞して足早に降りる。ぐるりと迂回して水上橋を踏みしめながら、西野は唐突にいった。

「少し先に蓮池あるやろ。心中でもするか」

 神も仏もないような凶悪な面で沈んでいる自分たちを想像して、中田は首を横にした。「春になったら梅やら躑躅やら咲きますんでな。どうせやったら、華々しく散りましょうや」

 コの字となった向こう側では中堤両側にキリシマツツジが植えられており、数ヶ月で庭園全体が真っ赤になることは想像に難くなかった。

「会長討つの手伝うか。相討ち覚悟で、ドス持って痴情の縺れオチで」
「八条ヶ池よりは道頓堀が似合うてますけど」
「ドブ川に爺三人」
「清水入れて四人」

 寒空に欄干を歩く四つ足の生き物など見て、「主なしとて」と中田が囁けば、「春はすぐそこ」と西野が応える。黒い池の縁で積もる水草の上を跳ねて、弾みをくいながら井守は水底に消えた。

 階段を降りきり鳥居をくぐって、二人は横路を抜けた。肩口を振り返った一瞬、血を撒くような梅の花の幻影を見たように思う。

 振り返ったほうだけではなく、どちらともなく足を止めたが――布施の杖が先を急げとせかすので、西野は一歩を踏み出した。



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