片岡さん、と寝ている姿に繁田は声をかけた。「生きてますか」
「見りゃわかんだろう。人間なかなか死なねぇもんだよな」
「残念です。死んどいてくれたらいろいろ手間も省けたのに」
病院のベッドでは片岡の傍らに繁田の姿があった。片岡は肩口を包帯で巻かれ、上半身裸の上に新緑色のカーディガンを羽織っている。妻子の手作りであろう折りかけの千羽鶴を眺めていると、家庭ではそれなりにいい父親なのだという証拠を見せつけられている気分になり、繁田の胸は少し傷んだ。
「いつだって一発しか入れてねぇんだ。最初が脳天だったらお陀仏だった」
「防弾チョッキに血糊ですからね。課長も呆れてました」
「先輩のやることなんてお見通しだよ。しばらく死んだふりでもしておどかしてやるさ」片岡は続けた。「雑魚なら何人殺ってくれてもいいんだけどよ。あんまり上のほうはまずい。役職に就いてる奴ら全員が組を持っていやがるから、殺してくれて助かるのは西野一人だったんだ。うまくいかねぇもんだなあ」
繁田はベッドの端に腰かけた。アルコールスプレーで両手を擦れば、やっぱり潔癖じゃねぇかようと返ってくる。繁田は無視した。
「そんなこと言って。自分が撃たれて内心ショックだったんじゃないんすか。片岡さん」
「お前に帰られてショックだったよ。俺は」
沈黙は長かった。骨ばった手で手首を取られる。繁田は無表情だった。
「片岡さん」
「俺のこと好きなんだろ」
「……」
「何だよ、図星かよ」
「やめましょうよ」
「先輩はな、抱かなかったんだよ。何度も機会あったのによ。俺みたいなクズの穴には興味ないんだと」
個室を割り当てられていなければとても人に聞かせられる話ではない。繁田は逃げ出したくなった。
「俺に辞表書かせるために此処にいるんだろ」
「書こうと書くまいと懲戒免職です」
「煙草持ってないか」
火照る手首をいつ振り払うか繁田は迷ったが、片岡が先に放した。熱を持った体が近づく。人の上着を断りもなく片手で剥ぐので、持ってないと答えようと口を開いた。
脇を捻られあっという間に引き寄せられる。繁田の長身はベッドの上でバランスを崩し、小さな上司の馬鹿力で押さえつけられることとなった。
口づけは一瞬のことだった。繁田は唇の感触に驚いて飛び退いた。片岡はいった。
「最近の看護婦はしゃぶっちゃくれないんだ。お前そういうの得意か」
「――口が肥えてるんで、遠慮しときます」
間近で見た目が醜悪な光を帯びていることに気づいたのは、いつだったのか。繁田は片岡の裏仕事の全体を知ってもまだ、どこか満ち足りた視線の中に棲む穏やかさを無視することはできなかった。
両者の間には重苦しい余波がいつまでも残っていた。
大阪に戻った西野は、舎弟頭として飯島、最高顧問に清水、統括委員長中田と書いて筆を置いた。関東北ブロック長に幹部の一人を据えている。
関西の極道役職は『若頭』の名称が使えるため、以下『若頭補佐』などの曖昧な役職で通ってきたが――関東一部では関西が作った若頭、という呼称を嫌がることがある――、花菱を大きくするのであれば別の方針を打ち出さねばならない。それぞれが持っている組の頭としての仕事も抱えたままであった。
実質的には親分よりも二番手が多忙であるのは西野にしても他の組員にしても同じだったが、幹部が常に手隙の状態では謀反の可能性もあるため、いくら頭を悩ませても充分ということにはならない。
中田と結託していた飯島の処分を決めるのも、西野の独断で行うことができた。体調不良にしても木村の件にしても、自分を蹴飛ばして先に対応というのが気に食わなかった。それもヤキを入れた直後である。懲りていない。
「会長にゆうたら――」
なんとかせぇ、の一蹴だということは目に見えていた。対立幹部の処遇に関しては逐一報告する義務があるが、西野一派の中で起こった揉めごとはその限りでない。
「アカンわな。下手すりゃ俺も巻き添えで降格の上に島流しや」
西野は机に手をついて立ち上がった。一瞬耳が遠くなる。気圧でも変わったかというほど突然のことだった。頭をひと振りしたところで視界が揺らぐ。
「……ッ」
呼び鈴に手を伸ばすが届かない。いちいち大声を出して喉を涸らすよりはいいだろうと置いたものが無駄になった。床に崩れる寸前に、掴んだ切り子硝子を壁に投げる。
昏倒するまでの数秒が永遠に感じられた。物音に入ってきた舎弟が何かを叫ぶのを必死に聞き取ろうと足掻きながら、西野は「中田に連絡」といって咳き込み、床に血を吐いた。