進退極まった加藤の元を訪れ、片岡は笑みを隠した。手打ちの時間まで秒読みである。仲裁人として関西花菱会の若頭西野、媒酌人兼立合人として補佐中田が顔を揃えるだろう。
何も困らない。
片岡は思った。何も起こらない。誰も騒がない。机上で考えた計画のすべてが、順調に進んでいた。面白いように駒が動いていく。
こいつらは馬鹿だ。
本当は金にも出世にも興味がなかった。初めてガサに入った事務所の臭いを思い出す。煙草や麻薬の据えた空気が漂う光景を想像していたら、刑事科のオフィスのほうがよほど寂れていた。
撃ち合いになった瞬間、片岡の外被を上司の内臓が汚した。初めての血。初めての死。初めての悪寒。
拳銃をこめかみに押し付けられる。ゾクゾクするほどの快感であった。事切れて片岡を押し潰す上司の尻を、自分のそれが持ち上げるのがわかるほどだった。
俺は死ぬのだ。
つまらぬ社会の屑共が、爪の間に針など入れて片岡を痛めつける。半ばまで差し込まれても、剥がれず破けず悲鳴も上げられなかった。ただ止まらぬ滂沱と嗚咽が口をついて出る。
足のほうでは氷と熱湯をいったりきたりさせる古典的な苦痛が与えられた。しかし最も片岡の精神を蝕んだのは、四六時中浴びせられる罵詈雑言であった。
空虚な言葉の繰り返しだ。これが効いた。理屈には対抗のしようもある。人間が狂うのはそれよりもっと単純な、五歳の子供でも理解できる単語の羅列だった。しかしそれも数日で慣れた。
別の男が来た。これが一番曲者だった。
一切口を聞くことなく、耳にはヘッドホン、鉄パイプでもってただガンガンとドラム缶を叩くのだ。何を楽しもうというのか、ただ笑みを絶やさず一日中同じ作業を淡々と行っていた。
若い片岡は泣き伏して懇願したが、相手の耳には届かなかった。そこで喉が嗄れるほど叫んだが、やはり相手にされなかった。
三人目はたいしたことをしなかった。ズボンをおろし、片岡の口に逸物を突っ込み、かき回したあげく独りで果て、顔を真っ赤に息を切らして、片岡の頭を抱いた。それだけだった。
日付もわからず自分の出した糞尿にまみれ、片岡はうちひしがれていた。刑事としてのプライドはそこで捨てた。
この国の掲げる正義など所詮はおべんちゃらであった。犯罪者の死刑制度に反対する一般人もいなければ、臭いものには蓋。絆だの愛だのという広告の裏で金が動いていることを知らない。人の不幸を憂うようなニュースにどっぷり浸かり、塵紙にもならぬ創作物の山で社会全体がわかったような顔をして練り歩いている。
代わりなど幾らでもいるその程度の庶民を、護る必要などあるのか。そいつらのために今痛みに堪えている俺は何だ――。
殴られ蹴られの暴行で開かなくなった目を覗きこみ、三人目は悲しそうに口を開いた。今日で最後なのだ。逃がしてやりたいが小柄な自分には片岡を担ぐことは難しい。自力で立ち上がれたら助けてやれると。
片岡は立ち上がった。それは容易なことではなかったが、とにかく成し遂げた。
深夜に抜け出した路上には軽車があり、男の肩を借りながらそこまで這うようにして歩いた。国道を出るまでは警察に電話するのはまずいと言うので従った。
礼をしてやると言った時は他意はなかった。崖道に車を停める。転がるように車から降りる。ボンネットに男を座らせ、スーツを鷲掴みにしながら身を起こし、汚れて臭いのする歯列を分け入り、口づけた。
男は泣き笑いを浮かべ、片岡をかき抱いた。片岡はされるがままに静かに息をつき、いつもそうしてきたように男の前に膝をついた。
はち切れそうな怒張に指を這わせて唇を寄せると、片岡は男を見上げて微笑んだ。艶やかな笑みに男は喘ぎ、次の瞬間それは悲鳴に変わった。
片タマをひねり潰して陰茎に歯を立てねじる。ボクシングの腕はそこで初めて発揮した。組織はもちろん、男が片岡の手錠をはずしたのは此処が最初で最後だった。
顔がわからなくなるほど殴りつけて、それでも飽きたらず手近な石を使った。痙攣する脚を引っ張り、まだ息のあるうちに崖の下へ落としてやったのは情けをかけたからだ。片岡が直接手を下した男の遺体は海の藻屑となり、二度と上がらなかった。
何も困らない、と片岡は繰り返した。すべてが思い通りに運んでいた。片岡は記憶をとじた。