【寒天問屋】


02



 藤三郎は想定内の返事に頷いた。

「わても漢だす。何年かかろうと、その三倍くらいは用意してみせますんで考えてはもらえまへんか。わての店で――」

「なんぼでも返事は同じでっせ」

 喉から手が出るほど欲しい銀二貫を寄進してもお釣りがくるほどの大金だったが、善次郎はぴしゃりとはねつけた。

 藤三郎が調子のいい人間だということは理解している。これは商人にとっては欠かせない性質で、いい加減と思われても仕様が無いような言動をすることがあるのだ。しかし本日のこれは戯れではない。

 井川屋の暖簾と共に、善次郎にとっての主人である和助を捨て置き自分の元に来いというのだ。到底笑い噺で済ます訳にはいかなかった。

「松葉屋はん、悪う思わんといてほしいんだすけどな」善次郎は藤三郎を下からねめつけて、静かに口火をきった。

「わては井川屋の旦さんには深い恩義がございまして、傍を離れるような真似はどないな理由があろうとできひんのだす。たとえ松葉屋はんが乾物屋の暖簾ごとわてに呉れると言わはっても、これは変わりゃしまへん。嬰児の貝を以て巨海を測ると申しましてな――」
「な、なんや?」

 到底できないことだと遠回しに発言したのだが、学はあれど金に関わること以外はろくに覚えようとしない藤三郎には喩えが難しすぎた。しかし諦めが悪いのが商業を営む者の最優先の能力で、その点に関して藤三郎の右に出る者は居なかった。

「何もお咲の婿にほしいゆうてんのやない。齢五十にもなるあんさんに子種があるとも思えへんし」
「――」
「独身でっしゃろ。あんたとこの旦さんと同じで。なあに、あんさん等が夫婦のように仲がええのは知っとるんやけどな、わては待つで。和助はんが鬼籍に入られて、古番頭の立場がのうなったら……」

 唇を結んで堪えていた善次郎だが、最後の一言は聞き流せなかった。

「なん、やて」
「和助はんはわてより幾つか年下やけど、心配いらへん。わては長生きしまっせ。あんさんの立場がしっかり根づくまで、根気よう待って」
「松葉屋はん、ゆうてええこと悪いことがありまっしゃろ」

 善次郎は膝を握りしめて歯の間から言葉を搾り出した。乾物屋の三男坊はこの段になってようやく――しもた、逆鱗に触れたんや――と温度の下がった玄関口から一目散に逃げる手筈を整えた。即ち命よりも大事にしている財布の紐をぐっと掴み、着物の袖を捲って退散しようとしたのだ。

 実際、善次郎の顔は憤怒の形相に歪み、今にも武士の脇差しでも出して来かねない様相を呈していた。

 藤三郎は松吉の生い立ちをはじめ、商人の看板をぶら下げた店の何処かに刀があるとはついぞ知らぬことだったが、出刃包丁で切りつけられる程度の想像はできた。

 一触即発、天満の狛犬の化身が――まつきっとん、松葉屋はんを助けたってぇ――と言わんばかりの状況下で、救いの神は店の奥から現れた。

「愉しそやな」井川屋の主だった。「何の噺や?」

 善次郎ははっとして振り返った。暖簾を掻き分け、座敷から和助が此方にやって来る。途端に和助にとって懐刀に等しい番頭は、拳を緩めた。

「旦さん、ええところに。松葉屋はんが、いつものように油売りに来てはるんだす」

「うちで扱こうとるのは油やないし、売るんやのうて、買いに来とるんだす」藤三郎は早口で立ち上がった。「井川屋はん。お邪魔しました」

「もうお帰りだすか。ほなさいなら」丁重に頭を下げながら、和助は態度と言葉を真逆にしていった。「男衆も女衆も万年売り切れだす。残念やけどわての処では扱ってまへんのや。堪忍しとくれやす」

 藤三郎は襟足まで真っ赤になり、善次郎は気が抜けたように放心状態となった。

「お……お咲はあんさん処に捕られたも同然なんやで!」藤三郎は吃りながら応えた。

 和助は着物の裾を折って善次郎の隣に膝をつき、藤三郎を見上げた。

「捕られたなんぞ人聞きの悪い。あの娘はな、自らの意思で、この井川屋に修行に来てますのや。ええ加減、孫離れせぇへんかったら、ほんまに愛想つかされまっせ」

 それにな、と和助はにっこり微笑んだ。

「わてはあんさんよりは長生きさせて貰いますよって、松葉屋はんは安心してお咲はんの婿はん探しに『だけ』、精を出しはったらええんとちゃいますやろか」



prev | next


data main top
×