【寒天問屋】


09



 和助は、一瞬何を云われたか理解できなかった。河の水臭いにおいが辺りに立ち込め、足元の草が揺れる。

「どういう意味や。お里、誰のことを云っとるんや」

 お里は唇を噛んだ。やはり思ったとおりだ。和助は気がついていないのだ。

「酷い噺でっしゃろ。うち、男の人に負けたんでっせ」

 お里は無理やり笑みを浮かべようとしたが、笑いたくもないのに笑えばどう見えるのかを、商人のいやらしい姿でよく見知っていたため、横を向いた。

「でもね、旦さん。うちな、その人にも惚れてんねんよ。顔見たら苦しゅうてしゃあないほどに。だから、居られへんのや。どれだけ居心地ようても、此処には……ッ、もう」

 和助は耳鳴りに空を仰いだ。お里には知り得ないことではあったが、この河辺は善次郎が身投げしようとした場所であった。

 万兵衛の言葉が今頃になって甦り、和助は己の至らなさを悔いた。

「誰や」
「旦さん」
「まさか、」

 そんなはずはない、と口には出来なかった。否定する理由など探せば幾つもあったのだが、和助は胸に開いた一つの欠片を見つけてしまい、動揺していた。


「――」


 名前は云わなかった。離れていく手をお里は名残惜しんだが、眼を閉じた。

「そんな阿呆な噺あるか」和助は云った。「お里。よく訊きや。あいつにはな、昔馴染みのとうはんが」

「誰ぞに操立ててはる思っとるんだすな」お里は遮った。「天神さんへお参りにいった日に、言い寄る女が居っても旦さんしか見よらんと、うちにはっきり云いましたんやで」

「……そういう意味でやないやろ」
「あのひと、自分でも気づいてはらへんのだす。うちにはわかるんや。いつの間にか、好きになってしもとったから」

 和助は応えられなかった。額を押さえて、着物の脚に頭を埋めてしまう。

 心当たりが無いわけではなかった。善次郎は幼い時分に身近な人間を沢山喪った経験から、思慕の対象が歪んでしまっているのだ。一つは天満の神様に対する献身的とも云える奉仕。残りは井川屋の暖簾と、主人に仕えるその姿勢に見え隠れしていた。

「お里」
「其れに。旦さんも」

 続きはどうしても云えなかった。色を感じさせるやり取りなど見たことがない。抱き合って口を寄せあっている姿も見たことがない。

 間に入れぬ何かを感じていた。其れは三人で井川屋を護っていこうと手を携えたとき、既に始まっていたのかもしれない。

 お里はハッと息を吐いて笑った。その顔があまりにも美しく見えて、和助は思わず彼女の後れ毛を鋤いた。

「もし」

 お里が云った。和助は其の先を云わせたくなかったが、訊かずにもおれなかった。

「もし、自分の気持ちに気づきはったら。旦さん、どないしますのん」

 善次郎が、とは云わなかった。和助は指を下ろした。

「――そん時、考えるしかないわな」

 嫁にと望んでも既に遅いのだろう。お里は強い決意の表れに、背筋を伸ばして座っている。

「もしそんな日が来ても、うちには教えんとってくださいね。からかってまうし」

「口」和助はぽつりと云った。「合わせたらイカンか。嫁にやったら、あんさん。わての娘に戻るんやし」

 お里は紅を掃いた唇にゆっくりと触れた。和助のための紅だった。

「これで。堪忍しとくれやす」

 指先を和助の唇に持っていき、優しく塗りつける。和助は眼を閉じて指の感触に浸ったので、お里はその顔をじっくり観ることができた。

 二人はその日、手を繋いで夜道を帰った。井川屋までの道程が、ほんの少し父と娘でない時間だった。









 お里が嫁に行くことになったのは、それから半年ほどのことだった。

「お里。あんさん、矢ッ張りええ女やなぁ。もったいないから、嫁にやりたないわ」

 和助は感嘆の溜め息を吐いた。白装束に身を包み、お里は井川屋の暖簾をくぐった。

「今さら遅いで旦さん。初めにすぐ嫁にする云うとけば、よかった噺や」
「亭主が気に要らんようになったら、いつでも帰ってきぃや。老いぼれが待っとりますんでな」
「なんちゅうことを云いますんや」

 松七は「お里はん、こんな別嬪さんやったんだすなあ」と大声を出して、お里に背中をはたかれた。「正直やな!」

 お里は善次郎に向き合った。番頭はいつもと変わらぬ風情で腰を丸めて立っていた。お里の後に来るという女衆が歳であることに心配をして、葬式をうちで出すことにならねばよいがと不謹慎な金勘定をしていた。

「其れ、引き止めとるつもりなん?」
「まさか。厄介払いできてようございましたで。これで旦さんが買い付けにいく度に土産物買うて帰ることはなくなりますんでな」
「けちくさ!」

 顔を見合わせて笑った。善次郎は懐からあるものを取り出した。

「お里はん。御祝いになる物なんぞ、何もないだすけどな、宜しければ万兵衛はんの算盤を――」
「善次郎」

 善次郎は呼び方に驚き、反射的に面を上げた。お里は首を振った。井川屋の思い出になるようなものは、ひとつも持っていけそうになかった。

「ほんまにありがとさんでした」
「――お達者で」

 お里の晴れやかな笑顔を眼に焼きつけ、善次郎自身も僅かな後悔を残した。和助の言う通りである。そして、主人はともかく自分にはもったいない存在であった。

 別れの軽口はなかった。お里が井川屋へ戻ってきたのは、それから何年も後のことである。まるで雨宿りに立ち寄ったくらいの気軽さで帰ってきたのだが、嫁にいった其の時も、いつもの調子だった。





「ほな。いて参じますんでな。おおきに!」








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