【寒天問屋】


08



 朝の話に決着をつけるべく、和助はお里を呼びつけ、自室ではなく夜の散歩に連れていく提案をした。お里は覚悟を決めて髪を結い、紅だけ引いて放心状態となった。

 天満の橋向こうでは、夏祭りの祭事に使う太鼓の音色が騒がしい。

 提灯をぶら下げて、反対方向へ向かった。途中通りすがりに、「旦さん、今晩は。最近来てくれはらへんやないの」と廓の女に上から下まで値踏みされたが、一礼した後のお里は賢明に頭を上げた。

「悪いな。間に合うてんねん」
「ひょっとして其の娘? なんや細っこいけど」
「今から口説くんやで。邪魔せんとってな」

 花街の色香を漂わせ、女は去り際にお里に耳打ちした。「すんまへんな、お嬢。和助はんは幾ら誘っても断りはるんで、妬いてもうたわ。堪忍しとくれやす」

「……!」
「なんや内緒噺か。わても入れとくれやっしゃ」

 女は応えず、会釈して去った。和助の三歩後をついていこうとしたお里だが、主人が「腕組んでや」と色男の本領を発揮してねだるのに敗け、羞じらいながら自分のそれを絡めた。

 川のせせらぎが月夜に揺らぎ、点々とした灯りも遠くへ消えて。和助は川岸の土手に自分の羽織を脱いで、お里を座らせた。

「厭な想いさせてしもたな」
「さっきの人、旦さんの……」

 お里は小指をそっと出した。不安気な顔に微笑みを返し、和助はその指を下ろさせた。「訊きたいか」

「――訊きたありまへん。うち、旦さんにもまだ未練たらたらやもん」
「旦さん『も』、な」

 そよぐ風にお里は震え、その肩を和助は抱いた。お里はそれだけで泣きそうになった。

「あきまへん。噂になるわ」
「人はな、適当なこと云いよるもんやねんで。こっちに非があろうとなかろうと」
「優しくせんとって。今は」

 お里、と言い含める声を間近に訊いた。「好きな人が出来たんやな。ほんまモンの」

 たまらずに叫んだ。

「旦さん……!」お里は嗚咽を堪えて下を向いた。「うち、早く嫁にいきたい。誰でもええ。うちのこと見て、うちだけ好きになってくれるひと」

 和助は低く囁いた。「誰でもなんて、云うたらあかん」

 強く握られた指と肩の温かみに身を寄せ合い、和助は困惑していた。お里が好きになった相手が善次郎であるならば、ここまで思い詰める必要はない。

「相手が居るひと、好きになってもうたんか?」

 お里はとうとう声もなく泣き出した。悲痛な響きに和助の腹は煮えくり返った。

「誰や。名前いいなはれ」首を激しくふるお里の両肩を掴み、和助は顔を覗きこんだ。「云えんような相手なんか」

「やめて……」
「好きなんやろ」
「好きや。でももう忘れたい。その人から離れたいんや」

 和助はお里の華奢な躯を強く抱き締めた。相手が誰であろうと、この娘をここまで嘆かせ袖にしているような男である。碌なものではない。

「――わかった。ようわかった」

 娘っこに毛の生えたような歳ではあるが、庶民の家なら未だしも名のある家のツテなどを頼り嫁にやるにはトウが立ち始めていた。

 和助は云った。「嫁にこい、お里。その男はわてが忘れさせたる。ええな」

 お里は息を呑んだ。眼を見開き口を開け、茫然として和助の眼を見つめる。和助の眼は慈愛に満ちており、愛しい娘を按じる父親そのものに見えた。

「旦さん」お里は自然と笑みを浮かべた。「有り難う。旦さんの嫁にして貰たら、うち――物凄う幸せになる気がするわ。でも」

「歳は離れとるけどな、今から惚れさせたる」
「もう惚れとるから、これ以上は無理や」
「わてが本気になったら、こんなもんでは済まへんで」

 そうだろうとお里も思った。和助の眼は提灯の灯りに黒々と燃え盛り、身の内に秘めた情熱はまだ一向に衰えていないことを感じさせた。

 鶴吉はほんまに阿呆やった、とお里はかつて自分に想いを寄せた丁稚を懐かしく振り返った。この人の嫁になれば、二十年どころではない。一生、女でいられるに違いない。

 しかしお里は息を吸い込み、誘惑を断ち切った。

「あかんのや。うちが好きになった男、自分が惚れた男のことしか見よらんねんもん――」



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