【寒天問屋】


07



 卓を囲みながら和助は善次郎と目配せをした。善次郎はうなずいたので、和助はお里に声をかけた。

「お里」
「へぇ」
「……お里」
「へぇ」

 和助は箸を置き、一層はっきりとお里の名前を呼んだ。「ぼうっとしてどないしたん」

「へ」お里は箸を動かした。「なんでもないんだす。すんまへん。食事の最中に」

「さっきから全く減ってまへんで。具合悪いんやったら、部屋に行くか。蒲団敷いてきたって、善次郎」
「担いで行くんで座っててください。お里はん」

「わても手伝います」鶴吉の後釜に入った丁稚の松七はまだ幼かったが、なかなか野心のある働き者であった。

「やめてや。大丈夫や、うち」

 何もありゃしまへん、とお里は顔を蒼白にして答えた。一同は心配そうな顔を見合わせ、溜め息を呑み込んだ。








「すまんな、善次郎。忙しい時に」
「や。将棋の相手以外やったら、なんぼでもしますさかい」

 奥座敷に善次郎を呼んだ和助は、眼を見開いて云った。

「将棋はアカンのか? なんでや。碁盤も買おか。碁石が高うてな、砂利に墨塗ったろかと思とんやけど」

 善次郎は苦笑した。和助は決して遊びごとに長けているわけではなく、妙なところで真面目な一面を発揮してしまい、暇を潰す余興であっても決して卑怯な技を使おうとはしないため、わざと負けるのに苦労するのだ。将棋が碁盤に変わってもおそらく同じである。

「呼んだんはな――お里のことや」

 善次郎も気づいていた。天満天神宮の初詣以来、お里の様子がおかしいのである。善次郎には理由が思い当たらず、それを正直に主人に告げるか迷いがあった。

「ここ数箇月、具合が悪そうでんな」善次郎は云った。「わても気になっとりましてん。鶴吉のことがあった以降、丁稚の松七には厳しゅう当たってますんで、わての眼を盗んでどうこうするような阿呆はやらんと思うんやけど」

 まだ幼いといってもいい年頃の松七には気の毒ではあるが、其れしかなかった。善次郎は自分が番頭になったその日のうちにあのような事件が起きてしまったことに、責任を感じていた。あれは自分が鶴吉にナメられていたのが全ての要因である。

 しかし和助は別の推測をしていた。善次郎は色事に疎い面があるが、和助はお里の気持ちの変化にいち早く気づいてしまったのだ。

 初詣の日に誰かと出会ったのかもしれない。ふたりはぐれた其のときに、何かあったのか。和助はそれを直に訊こうとしたのだが、何と切り出してよいかわからなかった。

 善次郎は嫁どころか筆下ろしの機会まで断った。其れは昔亡くした奉公先の嬢さんが忘れられないからだろうとアタリをつけていたため、和助も深くは追及しなかったのだが――。

 息子や娘のように育ててきた二人が、夫婦になって井川屋を継いでくれればどれだけ安心することだろう、と和助は感じた。

 善次郎、と和助は云った。

「お里を嫁にする気は、あんさんにはないんやな」

 善次郎は顔を上げ、怪訝そうな表情で正座した膝の上に置いた手で首筋を撫でた。

「こっちがあっても断られますわ」善次郎は苦笑した。「旦さんこそ――いつまでものらりくらりやったら、お里はん可哀想でっせ。断るんやったら、きっちり云うたらな」

「余計なお世話だす」
「お言葉返します」
「……あんさんの噺をしとるんだす」
「女より金を貯めませんとな」
「うちのような商売では、暖簾分けするまで待っとったら還暦すぎるで」

 口をついて出たことに主人も番頭もふと違和感を覚えた。両者同時に顔を上げる。


 ――時が止まったような錯覚を覚えた。


 善次郎が嫁を貰って井川屋を継ぐ想像もできなければ、暖簾分けして別の店でやっていくことなど考えもしなかった。和助は善次郎が離れていくことは望んで居らず、それは善次郎も同じだった。

 和助は口を開いたが、胸に刺さる感傷は見てみぬふりをすることに決めた。

「今日の噺は忘れておくれやす」

 善次郎は生返事を返した。そのうち座敷の色が鮮明になる。あの一瞬の沈黙はいったい何だったのだろうと、後に振り返ることも多くなった。

 まだ善次郎にはおろか、和助にも理解できていない感情の糸が繋がった瞬間であった。



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