「なんや、あの年は天神さんに頭下げへんかったんが悪かったんかな。踏んだり蹴ったりやわぁ」
遠い記憶を振り返り、鶴吉があそこまで阿呆やとは思わへんかった、とお里は溜め息を吐いた。
神社の境内には夜店が立ち並び、善次郎ははぐれた和助と丁稚たちを探している。灯籠をぐるりと回って、石畳に腰掛けていたお里を立ち上がらせた。
「お里はん。向こうで練り飴買うてきたりまひょか」
「善次郎はん――あれから一年やで。うち、もう躯もなんともありゃしまへん。気持ち悪うなってきたから、元の小舅に早よ戻って」
井川屋の面々には新たな丁稚の松七を迎え、商売のほうは和助が手代仕事を善次郎と兼業することで何とか間に合っていた。
提灯の煌々とした明かりに互いの顔を照らし、お宮参りでごった返す参堂を歩いた。お里は善次郎を見上げた。
そこには細面の主人とは対称的な大顔があり、お里は――この人、色の黒いもやしみたいやな――と冷静に観察した。
「なんだす」視線に気づいて、善次郎が袖の中を弄くった。「投げ輪でもしたいんでっか。しゃあおまへんな。旦さんの酒代の残りがありますんで一回なら」
「善次郎はん。意外と貢いでしまうほうなんだすなあ」
善次郎は首を傾げた。一瞬のちに意味に思い至り、憮然とする、
「変な女に引っ掛かりなや」
「女もなんも、わての周りは売れ残りのお里はんくらいだす」
「売れ残りはあんさんだって同じやないの!」
「わては興味がないだけだす。一緒にせんとってほしいわ」
賽銭箱の前には近づけそうにない。どさくさに紛れて着物の上から胸をまさぐってくる男共から護るべく、遠慮がちに肩を抱きよせ人塵に押される善次郎を再度見て、お里はふっと疑問に思った。
「善次郎はん。まさかその歳で、女知らへんのだすか」
「いつか訊いてきよるやろなとは思てましたけど、場所わきまえてくんなはれ」善次郎はあきれた。「知りまへんで。悪うござんしたな」
「新しく取引始めた松葉屋はん処の女衆が、善次郎はん恰好よろしゆうてましたで」
つい先立って乾物屋の大店松葉屋の主人が逝去し、その跡を継いだ三男の藤三郎が大所帯とは云えまいでも名前の知られてきた井川屋の暖簾をくぐったのだ。挨拶に行ったところ丁稚は一名だが、安くつかえる女衆は重宝しているようだった。善次郎はあのうちの誰だろうと思いを馳せた。
「ふぅん。お里はんは、なんて答えたんだすか」
「めばちこか麻疹にでも掛かってるんやもわからんから、医者いっといでって」
お里の言葉に善次郎は眼を回した。「こんなんでも、不自由はしとりまへんのや。付け文も袂を賑わせとるし旦さんも嫁の世話考えとるみたいやし」
「なんでか訊いてもええだすか?」お里は万が一を考え予防線を張った。「うちのことが好きやからとかいう理由やったら、離してや。うちは旦さんしか眼中にありまへんから」
「よう知っとります」
善次郎は苦笑した。お里はこの一年、見違えるように美しくなっていた。化粧は特別なことでもないとしないが、井川屋の主人が原因であることは誰の眼にも明らかであった。
「わてもそんなもんかな」善次郎は人間の肉蒲団に挟まれながら呟いた。「旦さんに惚れ込んどるんかもしれまへん。金勘定以外、始終考えるのはあの人のことだけですよって」
「――どういう意味だす」
「は?」
善次郎は胸元にぴったりくっついたお里を見下ろした。
「だって、今の言い方って」
お里は女特有の鋭い勘で、善次郎の声の調子に甘いものを感じ取った。しかし善次郎は気づいてないようだった。
「お里はん。今日はあきまへん。投げ込むしかあらへんわ。賽銭貸しとくんなはれ」善次郎は銭を受け取った。「天神さん、堪忍しとくれやっしゃ!」
賽銭を投げる際に善次郎の脇の繁みなど覗き見て、お里は下を向いた。
「旦さんら、鳥居の前で待っとるかもしらん。お里はん、手ぇ」
「……へぇ」
差し出した手をぱっと握られ、善次郎の背中に張りつくようにして元きた道を戻った。
お里は顔を伏せたまま、なぜこんなに早鐘を打つのだろうと胸を押さえ、赤らんだ頬を知られぬようにするので精一杯だった。