座敷に寝かされたお里が眼を覚ましたとき、和助と善次郎は揃って頭を下げていた。「善次郎、先生お見送りして」
遠慮する年老いた医者の介助をしながら、善次郎はふと振り返った。「あ――」
「……とう。善次郎はん」
礼の言葉を、善次郎は聞き取ったが、息を詰めて眼を逸らしてしまう。早く駆けつけられなかった後悔の念を感じとり、お里はもう一度名前を呼ぼうとした。
「――ッ」
「あかん。じっとしとり」
善次郎は医者と共にいってしまった。お里は脇に座る和助の腕を掴んだ。
「旦さん。鶴吉をどないしはるつもりですのん」
「事がことやらからな。納戸に閉じ込めてあるけど、勿論辞めてもらう」和助は口をつぐみ、お里の手を握って額を擦りつけた。「お里。わてはお前に、なんと詫びたらええか」
「旦さん何も悪いことしてはらへん。それより、鶴吉をやめさせたらあきまへん」
「――なんでや」
「あの人をいま辞めさせたら、善次郎はんが困る。商売が回りまへんやろ」
「お里!」和助は叫んだ。「店のことはわてが考える噺や。そんなもんより、自分のこと心配せなあきまへん」
お里は和助の叱責に頬を弛めた。「ほんまにええ漢だすな、旦さん。おおきに」
「お里――」
「でも、大丈夫や。うちはこんなん、蚊に刺されたくらいに思うてますねんで」
「お里……!」
「未遂やねんから、赦して」
「赦したりできるかいな」戻った善次郎が拳を震わせ立っていた。「お里はん、あの阿呆に怪我させられたんでっせ。なんで笑うてられるんでっか!」
「商売に差し障りがあったら、厭やからや。うち、万兵衛はんの墓前で誓ったんやもん」お里は自分に言い聞かせるように囁いた。「井川屋の暖簾、皆で守りまっせ。大丈夫やから、安心して天神さん処で待っといてやって」
和助と善次郎は顔を見合わせた。両者どちらともなく溜め息を吐く。両日中に新しい丁稚を雇い、鶴吉を丁稚から手代にしようと予定を組んでいた和助の落胆と怒りは凄まじかった。
「――旦さん」
お里のきっぱりとした迷いのない声に、和助は顔を上げた。「わかった。鶴吉には土下座させて二度と悪さできへんように根っこ捻り潰す。次の奉公先と新しい丁稚が決まるまで、暫く辛抱したってくれますか」
「あきまへん!」
「ええんだす。善次郎はん」
お里は身を起こした。腰を打った拍子に月のものが来ただけであったのだが、痛みは感じたことのない調子であった。
「なんだすか。わてに何か出来ることありまっか、お里はん」
お里は和助の反対脇にきた善次郎の手をとった。握ったままだった和助の手を、それに重ねる。
「うち、頑張りますんでな。鶴吉のアホに最後までやられてしもて傷物になったとしても、見捨てんとってや。善次郎はん。旦さん」
「――!」
三人は固く互いの指を握りしめた。それぞれに浮かべた泪を隠し、表情を窺うことはしない。
「お里。あんさんこそ、浪花中で一等ええおなごだっせ」
和助の声にお里は笑った。「今頃気づいたんや。嫁に貰うてくれたら浪花の男衆、みんな羨ましがるのに」
「古女房兼小舅が漏れなくついてくるんでな。それでもええか」
「――小舅。ひょっとしよらんでも、わてのことでっか」
「あんさん以外に居らんなあ、善次郎」
掛け合いにけらけらとお里は笑い、一発殴るから鶴吉を連れてきてほしいと善次郎に頼んだ。しかし其れは結局叶わなかった。
鶴吉は阿呆ではあったが、お里に心底惚れていたため、事がどういう流れになるかは察していた。そして阿呆であるが故に、自分一人がいなくなった後の井川屋がどうなるかに気づけず、書き置きを残して去ってしまったのだ。
こうして井川屋は主人、番頭、女衆の三人きりとなった。