【寒天問屋】


03



「旦さん! 旦さん」
「ん、なんや?」

 てっきり奥座敷で寛いでいるとばかり思った和助は、なんと店番をしながら万兵衛の肩を叩いていた。「――なに、しとるんだす」

「万兵衛はんの肩たたき」
「そんなん見たらわかります」

 お里は許可も得ずに二人の前の畳に座り込んだ。膝を揃えて、深々と頭を下げる。

「おいとまします。短い間だしたけども、有り難うさんでございました」

「どないしたん……」和助はさすがに唖然として、拳を下ろした。「えらい急やけど。なんかあったんか。鶴吉のヤツが胸でも探りおったか? 今日こそわてがしばいたる」

「お里。ほれ、飴っこあるで」万兵衛は震えた指で、袖から何かを出した。それは飴ではなく、銭だった。

「――旦さん」

 お里は万兵衛の手を両手で握りしめ、老人を間に片膝をついてる和助の眼を見上げた。

「うち。知らんこととはいえ、とんでもない失礼をしました。どないな罰でも受けます。叱責も覚悟しとります。ご寮さんのこと――嫁にしてくれやなんて、毎日毎日。ほんまに、ほんまにすみまへんでした!」

「よ・め」万兵衛はショボくれた眼を開けた。お里に握られた指を見る。「嫁はまだ気ィ早いやろ。幾らわてがええ男やからとゆうてもなあ。知りおうて何年や、お里?」

「今日でようやく三月ですで。万兵衛はん」和助は苦笑して、万兵衛を背中から覗きこんだ。「でも、その通りだす。気ィ早いわな。お里、辞めてしまうんやて」

「ほんなら、誰がわての尻を拭いてくれるんや。善の字か?」

 和助は吃驚してお里を見た。若い娘に、下の世話までさすつもりはなかったのだ。

「尻を拭きにくるくらいなら毎日通いますで」お里は老人に微笑んだ。「うちな。両親おらんさかい、万兵衛はんのこと、お父ちゃんのように思とるんだす」

「――おとう」

 万兵衛は面をゆっくりと上げ、いきなり泣き出した。

「ま、万兵衛はん……?」
「おおきに。お里。おおきに」
「泣かんといてぇや! 別れが辛くなるわ」

 和助は一部始終を眼に納めながら、首を横にした。「出ていくなんて阿呆なこと云わんといてくれ。お里。善次郎になんや吹き込まれたんか知らんけどな、わても嬉しいんや。井川屋に女手が入って」

「旦さん――」
「嫁にはしてやられへんけどな。あんさんが来てから、重く暗い雰囲気ばかりやった井川屋は、いっぺんに華やいだ。感謝しとりますで。おおきに」

 和助も頭を下げたため、お里は泪ぐんだ。眼をしばたたかせ、「そ、そうだすか。あの、旦さん。うち、もう少し」と口を濁した。

「もう少しどころやない。末永く此処で気張っておくれやす」
「……へぇ!」

 お里は礼をしてぱっと立ち上がり、手拭いで目許を拭き損ねている万兵衛に気づくと、懐紙を出して鼻まで噛ませてやった。

 お里が退室すると、万兵衛は鼻を一度啜り、和助を振り返った。

「あの娘は、ええ子やな。若旦さん」

「へぇ、万兵衛はん」和助はお里の後ろ姿を見ながら、感慨深けに囁いた。「わてがあとせめて五つ若かったら、放っときまへんわ」

 万兵衛は和助の男らしく整った顔を眺め、年の功からその言葉に色恋の匂いが全くしないことを察した。

「あんさん。幾つになったん?」
「年が明けたら四十五だす」
「まだまだいけるやろ。なんやったら、お里はわてが貰うたるさかい。考えといて」

 和助は苦笑した。万兵衛はもうすぐ米寿に手が届きそうだと云うのに、下半身の如意棒は奇跡的に健在であり、今でも稀に女を買いに行く金などこっそり貯めこんで、和助を誘ったりするのだ。

「早よう天竺逝きたいわ」
「立ち合いで待ってなアカンわての気持ちも考えたってくれまへんか。帰ったら善次郎の白い目に晒されるのわてやねんから」

 万兵衛は肩に置かれた和助の手を握り、うつらうつらしながら口を挟んだ。

「善の字のためやで。女作ったほうがええねん。旦さんは」
「わてがこのまま嫁貰わんかったら、善次郎も遠慮してまうわな」

 そういう意味やない――と万兵衛は云いたかったが、眠気に負けた。和助は万兵衛の肩に自分の羽織をかけてやり、老人の背中を撫で摩った。

 万兵衛が天竺に辿り着いたのは、それから三日後のことだった。葬式はしめやかに行われた。



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