【寒天問屋】


02



 お里は本当に働き者だった。覚えがいいといったのも嘘ではなく、善次郎が教えることなど殆どなかった。

 惚けかけている万兵衛のあしらいも上手かった。万兵衛が算盤だけは半分寝ていても完璧に打てることを知ると、よく船を漕いでるときに算盤を差し出したりもした。其れで少し惚けのほうも良くなったようにも見えた。

 鶴吉はどうにも手がつけられない阿呆であったため、お里は相手にしなかった。尻を触られるのも一度や二度ではなかったが、やられる度に鶴吉の食事にだけ腹下しを仕込むなどして返り討ちにしてしまった。その一件以来、誰もお里に頭が上がらなくなってしまった。

 しかし和助に対する過剰な恋慕となると別だった。ことあるごとに主人にべったりトリ餅の如く離れようとしない。和助は娘のように思っているのか満更でもない風にお里を甘やかすため、見兼ねた善次郎は、お里が夕飯を作っている最中に苦言をした。

「旦さんは、ご寮さん亡くしはってから嫁をとる気はせんのや。あんなこと軽く云うたらあきまへんで」
「そうだしたんか。やったらまだ、うちにも機会ありますな」

 善次郎はため息を吐いた。女の逞しさと厚顔無恥っぷりは常々尊敬に値すると思っていたが、善次郎自身は幼い頃に亡くした嬢さんと、和助の妻くらいしか身近な女を知らなかった。よってお里の口には言い負かされっぱなしだったのである。

「なんだすの。台所は女の戦場。邪魔するんやったら、早う出ていっておくれやっしゃ」
「機会はあるかもわからんけど、資格があるんかどうか」
「資格て? なんやそれ。男と女の惚れた腫れたに、資格なんぞ要りますんかいな」

 善次郎はなんといっていいものやらわからなかった。「わての言い方が悪かったわ。女衆に来て貰ういいはったん旦さんやけどな。ご寮さん亡くなったの、ほんの少し前なんでっせ。まだ一周忌も済んどらへん」

「――」
「お里はん。わてら一人も炊事はようせぇへんから、あんさんに来てもうたんや。紹介先からはなんと」
「うち。そんなこと一つも。ただ男やもめの旦さんが商いしとる、潰れかけの寒天屋やとしか」
「潰れかけは余計や……誰が広めとるんや。だいたい、なんでそんな処に嫁ごうとしてるんや」

 善次郎の言葉に、お里は首をふった。「うち、旦さんに謝ってくるさかい。お鍋見とってくれへん? 善次郎はん」

「後にせぇよ。仕事放り出して旦さんのところいったかて、やんわり断られんで。旦さん、そういう面には厳しいからな」

 善次郎は自分も帳簿の整理をし始めないといけない時間であることを思い出した。秋であれば蛍を捕まえ火油の代わりにするのだが、この時期なかなかそうもいかない。

 お里は善次郎に木蓋を渡した。

「あんさん、顔に似合わず臆病モンなんやね」
「――」
「断られたら断られたとき、其れから考えます。火の番だけしとってください」
「後にしなはれゆうてますやろ。わても仕事が」
「なんや、善次郎はんも苦労人やと聴いてたから、もっと骨のある人かと期待してしもたわ」

 善次郎は言い返すこともできず、蓋を持ったまま吹き零れる鍋にあたふたとした。「お、お里はん! これどないしたら」

 お里は風のように忽然と消えていた。



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