翌朝。
井川屋の歓迎で元気を取り戻した半兵衛は、座敷で膝をつき深々と頭を下げた。
和助は「礼など要らんから美濃志摩屋はん元気づけたってな」といつもの表も裏もないような笑顔を見せた。半兵衛は生きて井川屋を出られたことに感謝せな、とはりついた笑みで応えた。
朝食までご馳走になるわけにはと半兵衛は善次郎に向き直り、その隙にお里は握り飯を半兵衛の荷物にこっそり仕込んだ。
「なんやわからんけど」半兵衛はお里の機転には気づくことなく、丁稚を集めに行く和助の後ろ姿を確認してから善次郎に耳打ちした。「和助はんのご機嫌っぷりを見ます限り、仲直りしたんだすな」
「へぇ」善次郎は下を向いて会釈した。
「……へぇ?」
「あんさんの含み笑い。わて、苦手でっせ」
「知っとりますがな。わ ざ と」
善次郎は眼を細めた。「いちびりは旦さんだけで間に合うてますねん。貰うモンもろたらお引き取り願いますで」
「冷たっ。昨日の今日で、よくもまあ」半兵衛は云った。「だいたい朝には隣で寝てましたやん。寝込み襲わんかったんでっか?」
「半兵衛はん!」
「なんやつまらへん。密男の役回り、もっぺん演じて欲しいときは……」
「わてがはっきり云わんかったのが悪かったんだす。勘弁してください」
「何を?」
旦さんに惚れきっていることを――と口にしなかったのだが半兵衛にはその様子で伝わった。
「年取ると変に物分かりがええようになったりしますんでな。たまには困らせたったら、ええんとちゃいまっか」
善次郎は苦笑した。この男の器の大きさなら、踏み荒らされた寒天場も間違いなく復活させるだろうという気がした。
「昨夜はホンマにありがとさんでした。半兵衛はん。伏見は大変でしょうが、同じ空の下でわてらも頑張りますんでな」
「善次郎はんもお元気で。また来年も来ますから、文通も宜しくたのんます。旦さんやきもきさせたりまひょ」
顔を付き合わせて悪戯小僧のように笑ったが、和助が入ってくるとパッとそっぽを向いた。井川屋の主人が首を傾げるのに向けて誤魔化して手をふった。
それが二人の別れの挨拶だった。
実際に半兵衛と文のやり取りをすることになった善次郎だが、もうすれ違いは御免だと文の内容や文面を克明に話し、寒天場の様子などを和助に語って聞かせた。
店を閉めて奉公人総出で内職に励んでいたため、二人きりになる機会は殆どない。主人は文を綴じて丁寧に懐へしまった番頭を遮り、名前を呼んだ。
「なんだすか、旦さん」
「前に云ったこと。忘れとくれやす」
「伏見についてでっか。なんか重要なことでも――」
働いているときは金のことしか頭にない善次郎は、今日の子守は誰の家だったろうか、と調べ始めた。和助は帳面を繰る善次郎の手の甲に、そっと自分の其れを重ねた。
「わてのことだけ、見とくんやで」
善次郎の指は止まった。皺の寄った温かい指に握られ、熱いものがこみ上げて喉を鳴らした。
「皆で心中することになったら、お里が云ったように三間隔てて向こうやのうて――あんさんの首はわてが絞めたる。何べんでも、堕ちたら引き上げたるさかい。わてのことだけ、見とくんなはれ」
「これまでも、ずっとそうしてましたで」しかし善次郎は顔を上げなかった。「気づいてはらへんかっただけや。気づいて、知らんふりしとっただけやないだすか」
「先死んでも、呼んだりはせんからな」
「枕元に出てきはったら、お茶くらい出しますで」
「あんさんが先死んだら、怨みますんでな」
「葬式出す金、今はあらへんのだっせ。早いとこ稼がな」
善次郎、と和助が顔をあげさせた。
「一緒におるからな。いつまでも」
方便にしか使われない商人の世界で、其れは善次郎が聴いたなかで最も優しい嘘だった。
「――へぇ」
善次郎は心からの微笑みを浮かべた。
了