【寒天問屋】


05



 和助の寝ている奥座敷に音もなく脚を踏み入れ、善次郎は蒲団の脇に正座して赤い点に火蓋を伏せた。暗闇の中では和助の背中しか見えない。

「――旦さん」無駄なこととは知りつつ、声をかけずにはおれなかった。「聴いておくんなはれ。旦さん」

 返事の代わりに規則正しい寝息が室内を漂う。善次郎は眼を閉じて蒲団の端に手を添えた。唇を湿らせ、溜め息を一つ吐いて云った。

「わては初めて伏見の寒天場で旦さんとおうたとき、すかしたやっちゃなあ思てましてん」

 善次郎は口火を切った。返事はなかった。寝息の合間に、腹など小さく鳴ったりもした。最近、食が細なりはったもんなあと善次郎は思った。そして続けた。

「寒天場から卸して貰う品物がなかったら、潰れるゆうのにな。ええ立派な着物着よってからに。汗水流して働きもせんと。浄瑠璃嗜んでご馳走ばっか食うとる、二代目以降の若旦那やと決めつけてましたからな。なんでそないな処に、いまさら丁稚奉公せなならんのやて。しんどうてしんどうて」

 奥座敷の外に通じる襖を開け、風を通した。和室に漂っていた煙がふうっと吸い込まれていくのを、善次郎は見ていた。

「家に着いて質素な食事出て、開口一番、『わては腹一杯やから食えまへん。御上がり』云いはったん覚えてまっか。あの頃はまだご寮さんも生きてはって、わてに向かって微笑んで」

 虫の声も聴こえぬ静寂のなかで、善次郎の少し掠れた濁声が響いた。静かな呼気に合わせて、蒲団が波のように動く。起きる気配はなかった。

「わて、あんな別ッ嬪さん見たん産まれてこのかた初めてやったもんで、下向いて、『いりまへん。伏見戻してくれやっしゃ』ゆうて外出てしもたんだすな」

 唸り声。背中を向けたままの和助の顔を膝立ちで覗きこみたい欲求に駆られたが、息の感覚は規則正しいままだった。

「何べん数勘定したかわからんけど、橋の下で石拾うて大川に投げとるうちに、もう――昔の旦さんや嬢はんのことが頭から離れんようになってもうて、」

 それで其のまま続けた。

「ほんの、ほんの少しやさかい。水飲んで、苦しいのはそこだけで。これまでのしんどいこと、全部消してしまえるんやったら。わて、もう独りで生きるのは厭やから。最初ッから独りやったら、喪うモンなんぞありゃしまへんのやから」

 握った拳に汗が滲んだ。

「水に脚つけて、半分凍ってましたけど。死んでしもた、嬢さんや、旦さんはこんな痛みやなかったはずやて。耐えて、堪えて。前だけ向いて。天神さんの方角見て、もう終わりにしたら楽なんだっせ善次郎、て」

 丸めた腰に傷みが走った。

「帰るとこなんぞあれへんけども。七つの時には、わてを産んでくれたお母ちゃんが乳飲み子抱えて泣いて。御免やで、堪忍しとくれやっしゃ。生きて誰かのために奉公して、空の下でいつか笑うて暮らすんでっせて」

 蒲団の端を震える手で押さえた。

「お父ちゃんの顔はもう覚えとらんけども。強く握ったわての手を誰ぞ知らん大人に差し出して。一言も言いよらんで去っていきはって。草鞋も脱ぎ捨てて追いすがろうとしたら、嬢さんがあかん、云うてわての袖を引っ張るんで」

 寝息の音は止んでいた。

「わて、もう腹もすいてクタクタやさかい。長旅で脚も痺れとるし、はじめっから骨と皮で出来てたような気のする躯の節々が痛いし」

 静寂だけとなっていた。

「離してくんなはれ。お父ちゃん行ってしまいよる。わてを棄てて二度と帰ってはきよらん。此処で最後なんやから、後生やから離してくんなはれと頼むのに」

 囁き声に重なった。

「離さへん。離さへん。云うて嬢さんが、軋むわての躯を細腕で引き留めはるんで。わて、とうとう根負けしてしもて。振り返って嬢さんのこと見て。ほんまに優しい色した目ぇに、わてのこと映して泣きはるんで」

 衣擦れの音を耳にした。

「笑うて見せてくれはったら、頑張れるかもしれへんな、思て。店の前で一度きり振り返って、お父ちゃんの――ほんまに顔も忘れてしもた。堪忍でっせ――大きな躯の形だけが遠くに見えて」

 下を向いて顔を上げなかった。

「振り返らへんけど、拳振り上げて。天神さんの名前呼んで。わての名前も呼んで。膝叩いて道端に転がって。転んで転んで。なんとか立ち上がって。一度も振り返らへんと、また歩き出しはったのを」

 ――上げられなかった。




「いつまでも見とりましたんや」





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