「客間は帳簿の虫干しで塞いどりますよって、半兵衛はんには番頭はんと寝てもらっても構しまへんか?」
お里は蒲団を出しながら云った。和助は拳を口許に当て首を傾げ、次のような提案を出した。「わてが善次郎ん処、奥座敷に半兵衛はんは、どや?」
「旦さん」善次郎は焦った。「それはあきまへん。旦さんは今日はお一人で――」
「やったら、わてン処に善次郎な。この間の将棋の続きしよか」
「仲ええのはよぉう、わかりました。馬に蹴られて死んできますわ」
お里が居なくなったのに、和助はわざわざ善次郎の耳許に囁いた。
「これくらいあからさまに云うとったら、詮索されまへんねんで。結局のところ、あんさん心配性やから」
「半兵衛はんは勘鋭いほうでっか、旦さん」
和助は善次郎の低い声に眼を細めた。「まあ――そやな。松吉に訊いた具合でしかホンマのお人柄は知らんけど、美濃志摩屋はんは半兵衛はんに、ようけ助けられた云うとりましたで」
「気づかれてしもた、と思います」
「何がや」和助は袖の中に手を入れ、腕を組んだ。「わてが席はずしとる間に、なんかあったんか」
ことのあらましを語れば、身の破滅もあり得る。善次郎は叱責を覚悟した上でたまらず云った。「わてが――惚れとるという噺をだす」
「――」
和助は眼を見開いて、息を止めた。善次郎は間髪を入れず続けた。
「ほんまにすんまへん。旦さんにはなんとお詫びしたらええんか。赦したってください。取引先の相手にまさか……半兵衛はんは人を呑み込むような面がありましてな。気が弛んだとしか」
「いつからや」
和助は微動だにせず、空を見つめていた。善次郎は顔を覗きこんだ。
「旦さん?」
「いつからや。そんなこと、なんも云わへんかったやろ」
「ついさっきだす。夕餉の前に」
そうか、と和助は平坦な口調で云った。
「わかりました。そういうことやったら、わてと一緒の部屋で寝るわけにはいきまへんな」
善次郎はほっとした。「誤解されたないんで、しゃあおまへんな。誤解やないんやけども」
主人について熱く語りすぎた羞恥がよみがえり、善次郎は早口になった。
知られたこと自体は問題ではない。取引先の悪い噂を半兵衛が流すとは考えられなかったし、今は其どころではないだろう。
半兵衛は一見気分屋に見えるが、このことは真面目に受けとめているようだった。善次郎は今日の機会を逃さずに、同室で腹を割って話すべきかもしれぬと感じたが、そこは大人の男同士。
訊かれなければ答えない、答えるとしても細かいところまで探りを入れるようなことを、半兵衛はしないだろうと見当をつけた。
「お許しが出たようや、今日は半兵衛さんと寝ますんで」善次郎は喩えであることを感じさせるように精一杯努力して、少し鼻にかかった声を出した。「旦さんの将棋の相手はしばらく――」
「しばらくどころか、もう来んでもええで。わてはお役御免やと引導渡されたわけやし」
冷めた響きに驚いて面をあげると、薄く笑った和助が善次郎を覗きこんでいた。
「旦さん……?」
その眼に非難の色はなかったが、善次郎はひやりとしたものを背筋に感じた。何か噛み合っていない。
「でも。まあ」和助は小さく唇を動かした。「向こうさんは伏見やさかい、そう頻繁には逢えんのやから、たまには代わりでも欲しなったら」
「意味がわかりゃしまへん。わて、なんぞまずいことでも」
善次郎は口をつぐんだ。ばたばたと廊下を此方へ駈けてくる足音が聞こえたからである。
「旦さん、其処ですか」梅吉がいきなり襖を開けた。「わっ。番頭はんも……すんまへん。旦さん借りてもええですか」
「許可なんぞ要りまへんで。わての躯はわての自由。なんや、梅吉?」
和助の態度は含むところがあった。番頭は胸に差し込まれた刃のような衝撃ですれ違いに気づき、「待っとくんなはれ、旦さん。まだ噺がありますねん」と主人の腕を引いた。
梅吉はあからさまに余裕のない善次郎の声に眼を丸くし、場の空気を読んで退室しようとした。
しかし和助が掴まれた腕を見て、善次郎が熱いものにでも触ったように手を離すのが先だった。「わてのほうではな。今はない」そこには冷たい響きだけがあった。
「――堪忍やで。善次郎」