【寒天問屋】


02



 腹ごなしも済んで、今夜は泊まってくれるよう薦めると、半兵衛も折れた。噺は自然と井川屋主人の人徳になり、半兵衛は正直なところ、と切り出した。

「さすが井川屋の旦さん。この状況下で躊躇いもなく見舞いに大金出しおったわと、主人共々チビりそうなっとったもんで、暖簾くぐるの勇気いりましたんや。すんまへんな、善次郎はん」
「いや、まったく仰るとおりで」
「うちも旦さんとは長い付き合いやけど、彼処まで阿呆やとは思てなかったわ」

 お里が云うと、善次郎は額に皺を寄せてキッと睨みつけた。「旦さんは阿呆やない」

 善次郎は頑なに否定して、お里が「阿呆以外になんて云うたらええのん。唐変木?」と呆れたように続けると、更に云った。

「旦さんは、わての阿呆。松吉を銀二貫と引き替えてくるなんちゅう最大の阿呆やらかしても、この店が潰れんで済んどるんはわての始末のお陰や云うてくれはったんだっせ。わての阿呆やから、お里はんが気軽にアホアホ云うのは我慢なりませんのや」

「あほらし。訊いて損したわ」お里はいつものことなので鼻で笑った。「半兵衛はん。まだお腹すいてはるでしょ。御結び握りますんで、もう少しこの腐豆腐と噺しとってくださいね」

 お里の強固な勧めで遠慮することは叶わず、半兵衛は礼を云った。二人の掛け合いを好ましく拝聴していた半兵衛は、憮然として茶を啜る善次郎を見て微笑んだ。

「好きなんだすな」

「へぇ」善次郎は適当に応えてはたとした。「――は?」

「好きなんだすな、て」

 半兵衛は率直だった。善次郎はその顔を穴があくほど見つめてから、珍しくしどろもどろになった。

「やめとくれやっしゃ。なんか言い方がやらしいわ」
「なかなかお似合いでっせ」
「腐れ縁なだけや。わては、そんな別に」

 これは確信をついたものと見えて、半兵衛は長年つき合いはあるが個人的な噺なぞ、思えばしたことのない井川屋の番頭をからかうことに決めた。

「否定すると余計気になりますわ」
「半兵衛はん!」
「白状しはったらええのに。めっさ好きやて――」

 組んでいた腕を解き、半兵衛は人差し指を突きつけて云った。

「――お里はんが?」
「旦さんは、ただ! わてのこと右腕のように何十年も遣うてくれてはるからお互い空気みたいな存在なだけで……あ?」

 掴みかからんばかりの善次郎の大声に仰け反り、半兵衛は一瞬固まって笑いを弾けさせた。腹を抱えて畳を叩く。

 何事かとお里が顔を出したが、「なんもありまへん。大丈夫」と善次郎は追っ払い、顔の下半分を掌で隠しながらソッポを向いた。お里は怪訝そうに首を傾げて台所に戻った。

「……半兵衛はん」

 へぇ、とかろうじて返事をして、善次郎の表情を窺うと、半兵衛は震えた。此処は寒天問屋でなしに鬼ヶ島だったろうかと半兵衛は身の危険を感じた。

「いま云ったことは他言無用。わかり申したな?」
「わかりまへんなあ」
「したり顔やめへんかったら、美濃志摩屋はん処、帰しまへんで」

「や、そっちの気はないんでな。残念やけども、お気持ちだけ貰ろときます」半兵衛はとんでもない返しをしてきた。「文の交換からとかやったら、考えますで。わてもちょうど独り身やし」

 善次郎は尚も凄んだ。「――伏見の肥溜めに沈めたるゆうとんじゃ。ええか。誰ぞに云うたら承知しまへんで」

 座敷で話すようなことではなかったが、半兵衛はますます機嫌がよくなり、普段の調子を完全に取り戻した。

「善次郎はん、なんでその歳まで嫁もらわんかったんです」

 和室の温度は零下にまで下がったように思えたが、半兵衛は嚇しの類いには場馴れしていたため、もう少し推してもいけそうやな、と善次郎の様子を冷静に観察していた。

「失礼なお人やな、あんさん」
「和助はんのお稚児さんやったわけやないでしょう」
「わてだけやったら未だしも……ッ、旦さんを愚弄する気やったら覚悟しなはれや!」

 ああ、これは――と半兵衛は眼を細めた。善次郎は全身で怒りを発し、その様は単なる主人と番頭の間柄ではないことを外に知らせる結果となっている。

 自身で気づいているのか否か、半兵衛はこの鬼番頭がいささか心配になった。実直で几帳面で、曲がったことに我慢のならぬ善次郎と違い、己のような人間は楽だと感じる。

「ほんまに。好きなんやなぁ」

 他を顧みないでたった一つを追い求める姿が羨ましくなり、半兵衛は感慨に耽った。善次郎は開きかけた口を閉じた。お里が入ってきただけではなく、玄関先で主人の声を聞いたからだった。

 対称的な二人の男の間に、複雑な感情が芽生えたのは間違いなかった。



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