【寒天問屋】


01



 美濃志摩屋が最初に被災したときのことであった。焼け残った伏見の被災者に踏み荒らされた寒天場はもう閉めると美濃志摩屋の主人が云い、井川屋とのこれ以上の取引きは出来ないという噺が持ち上がった。

 大火事続きの関西で、幾度目の災難かわからぬ。手を取り合って助け合わねば、あちこち共倒れになるのは眼に見えており、それは井川屋も同じだった。

 これまで貯めた銀を分け、半分は美濃志摩屋へ。残りの半分で井川屋自身が店を休業して別の寒天を探すことを決断した。

 暫く後に見舞いの礼をしてこいと伝令を受けた半兵衛が井川屋を訪れ、和助に頭を下げた。和助は静かに半兵衛をねぎらった。

 半兵衛は更に深々と頭を下げた。この度のことで意気消沈してしまった美濃志摩屋の主人に代わり、寒天場を閉め故郷に帰ると――松吉が伏見で訊いたままを告げた。

 どうにもならないことなのか問うと、半兵衛は頷いた。主人さえ気力を取り戻してくれればと思うのだが、おそらく期待には応えられないだろうとのことだった。

「半兵衛はん」
「今晩は泊まっていきはったらええのに」

 所用で席を外した主人と丁稚の代わりに、半兵衛を引き留める役を仰せつかったのが番頭の善次郎とお里だった。

 半兵衛は物腰の柔らかさに似合わず意外と強固な性格で、筋を通した説得でないとなかなか聞き入れてくれない。その証拠に半兵衛は、出された菓子には手をつけず、茶だけを啜って下を向いた。

「貸し付けの恩義をかけて戴いた上にそこまで世話して貰うわけにはいきまへんので」半兵衛はそっと眼を瞑った。「其れにまだ。待っとる者が仰山おるんです。店も家ものうなってしもたモンたちが。済んだことはしゃあおまへん。早よう出来ることからやっていかな」

 善次郎とお里は顔を見合わせた。半兵衛の心意気は立派だったが、決して短い旅路ではない。どんな方法を使っても今晩は引き留めろと和助に云われていたため、善次郎は唇を湿らせた。

「貸し付けやありゃしまへんで。あれは井川屋の皆で貯めた血税。もろたもんやと思て寒天場の後始末に役立ててくだすったら、わてらは其れで充ッ分なんだす」

 半兵衛は湯呑みを置き、疲れた笑みを見せた。「――本音は?」

 善次郎は言葉に詰まった。松吉の仇討ち買いで貸し付けの銀二貫を失い、天満天神宮に寄進することは敢えなく叶わず更に数年。

 井川屋の全員が心をひとつにしてきたわけではなく、ぶつかり合いも避けては通れなかった。その中での商い、その中での始末、そのなかでの身銭を切るという主人の決断である。

 心配そうに覗き込んでくるお里の視線を左頬に感じながら、善次郎はきっぱりと云った。

「沈んだ顔見とったら、張り倒してケツの穴かっぽじっても出すもん出してもらいたなるんで、わての前では今みたいに下向いてて貰えると助かりますわ。半兵衛はん」

 半兵衛とお里は唖然とした。商人に正直さは時として毒である。云いにくいことは口を濁しつつ、当たり障りのない言葉を使って断りを入れるのが鉄則だった。

 半兵衛は意を組み取って吹き出しそうになったが、お里が善次郎を叩くほうが早かった。「痛っ! 何しますねん」「商人の癖に口が汚いっ。旦さんに言いつけますで!」とやり合う善次郎を見て、半兵衛は豪快に笑った。

「いま出よんのは天草の残り滓だけやと思いますよって、堪忍しておくれやす」
「せやから、今や貴重な茶菓子出してまんねんで。半兵衛はんが食べはれへんかっても、お里はんの口に入るんや。食うてください」
「意地汚いみたいに云わんとって。半兵衛はん、暫くはお互い粗食に堪える日々が続きますよって、是非とも」

 半兵衛は目尻に浮かんだ泪を横を向いて呑み込んだ。二人は見てみぬふりをした。

「――緊張感で胃が痛なっとっただけでっせ。ご馳走なんや、三人で分けまひょ」

 三者顔を見合わせて、にんまりと笑んだ。そして状況も忘れ、次に口に入るのはいつかわからぬ饅頭を仲良く分けた。



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