【寒天問屋】


06



 お里の持たせてくれた握り飯を食べ、すべてを終えて井川屋の暖簾をくぐった頃には、日も暮れかけていた。

「祭事ん時の善次郎は恰好よろしいでっしゃろ」

 本日の報告を訊いた和助はにこにことして云った。皆がいつもの定位置に座って茶菓子を囲んでいる時で、善次郎は今日の礼にと貰った饅頭を喉に詰めた。お里はその背中を容赦なく叩いた。

「恰好よろしゅうおました」松吉は云った。「十人の声を一度に捌いたという聖徳太子みたいでした」

「褒めてもなんも出まへんで。其れにな、あんまペラペラと口動かして、また手のほうが……」

 善次郎の言葉はお里の声に遮られた。「そんな番頭はん見たことないわ。天神祭の前じゃ女人禁制の札かかってますやろ。血の穢れがどうのとかで」

「今度はわてが行きたいだす。今度はわてだす!」
「アカンな。次はわてが一緒に行くんでな」

 梅吉と和助のからかい混じりの野次に善次郎はむっつりしたが、松吉は続けた。

「わてもようやく算盤が面白いて感じるようになってきました。来年も是非連れてってください」
「――」

 善次郎は和助に目配せをした。和助は苦笑いを隠して、「松吉、今日はようやったな。ほんまおおきに」と云った。

 鬼番頭が直接口で褒めることはなかったが、其れは誰が見てもそういうことだった。松吉がつい胸を張って「へぇ」と返事をしたため、「背筋!」と誰ぞが云った。

 井川屋は笑いに包まれた。







「――善次郎、やな」

 夜も更け軒先で足を伸ばしていると、蝋燭を持って和助が現れた。

「旦さん。なんや疲れたわ」
「大仕事やったな。寝られへんのか」
「毎晩でっせ。若い時分は時は金なり云うとったけども、健康体が一番でんな」
「……どっか具合悪いん?」

 ちゃいます、と横に膝をついた胸に身を寄せようとしたが、「あかんで。また上におる」と蝋燭で指すので、溜め息を吐いた。

「しんどいんはこの状況なんや」
「部屋。来るか。口実用意して、蒲団も二つ敷きますで」

 首を横に振って、火に照らされた顔を見つめる。夜通し抱かれるのも嫌いではないが、噺があったのはそのことではない。

「旦さん。わて、まだあの子らに教えたらなあかんこと、いっぱいありまんのやな」
「そらそうや。へてから?」
「そうすることが、わてを拾てくだすった旦さんへの恩返しにもなりまっしゃろ」
「傍居ってくれるだけで、恩返しだす。善次郎」

 床についた手に手を添わせ、武骨な指でしゃんなりとした指先だけをなぞった。

「それだけやと、わてが厭なんや」
「……厭か」

 緩んだ目元に寄る皺も増え、和助も歳だと善次郎は感じた。お互いに息子どころか孫や曾孫がいてもおかしくないというのに、いざその代わりができると、育て上げる時間が惜しいと思ってしまう。

「昨日お預けくらってからは、もどかしゅうて」
「横ンなろか。ほんで、遊びたい気分になったら、続きしよ」
「――遊びたなったら、してくれまんのか」

 丁稚たちを甘やかさないと決めながら、己は甘やかされたいと願っている。善次郎の耳は、和助の優しく掠れた囁きを捉えた。

「いつでも。何どきでも」



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