【寒天問屋】


05



 和助の云うとおり、善次郎は議論の種であった。正確には議論をおさめるお代官の役割を担っていた。

 松葉屋の主人が居なくても、神社の境内を上がってからは井川屋の番頭前をひっきりなしに人が訪れた。祭りの所行事での算段に、金勘定には誰より五月蝿い善次郎は重宝がられたからである。

 算盤と帳面を置いて、善次郎は松吉を座らせた。大勢の波を掻き分けて口々に予算が足らないことを嘆く声が、四方八方から寄せられる。

 善次郎はそれら総てを適当に受け流しながら、半ばおびえ半ば茫然としたままの松吉の手首を握り、算盤を手渡した。

「間違えてもええ。わてが後で全部確認しますからな。とにかく早く玉弾きなはれ。頭で考えず、手の作業として覚え込むんや」
「へ、へぇ……」
「聴こえんかったり、わからんかったら大声出しなはれ」
「番頭はん。でも」

「でもやあらへん」神社の小童が走ってきて即席の会計所を作ると、善次郎は松吉の耳に囁いた。「男やろ。お侍の子やろ。やられへんかっても、これで命まではとられへん。背中任しましたで」

 松吉は間近に寄った眼にぐっと胸を熱くした。「へぇ……!」

 うなずいて振り返った善次郎は、井川屋の袢纏を翻し、帳面を開いて筆をとった。墨を刷り終えた小僧に会釈すると、文鎮をカンッとならした。

「――どなたはんからでも」

 周囲のどよめきは一瞬納まり、後に神の助けが来たとばかりの歓声が上がった。松吉は神々しく丸めた背中を見て、あれが商人なんやと気圧された。

「船渡御にかかる費用が――」
「今年は昨年流行った病のせいで東からのお客さんも大勢きはります。収支の目処が立たん噺が先だっせ」
「井川屋はん。では、うちからや。油の関税がとんでもないんや。船場中の油売り集めても運ぶだけで破産してまうわ」
「提灯の数は揃えとるんでっしゃろ。問題ありまへん。あるとしたら予算組んだれへんからや。――松吉。今から云う数弾いてけ」

「へぇ!」

 返事だけはいっちょまえであったが、最初の桁を聴くと驚愕した。「番頭はん。も、もういっぺんお願いします」

「ここや」後ろを向いて、ぱちっと玉を弾く。「ええか。金額が多すぎてわからん時は、端数は切り捨て。今年は去年の分の寄進が足らんかったさかい、埋没予算云うてな。先ずここから」指で示す。「ここ辺りまで一旦下るはずや。正しく打てばの噺やで」

「うちの店の借財も計算してや、善次郎はん」人混みから誰かが手をあげる。「奉公人がみぃんな夜逃げしよってからに、困っとんのや。わて算盤苦手やねん」

 どっと笑いが弾けた中で、善次郎は頬をゆるめた。「後でやりまっせ。寒天買うてくれはったら」

 品物の練り物で手ぇ打って、と料理屋らしき主人が返し、其れからは戦さながらの有り様だった。

 催事のやり取りと数字の大波は汗だくになるほど続き、松吉は初めこそ算盤を見ていたが、次第に善次郎の背中を見るようになっていた。

 途中で幾度か間違いに気づいてつまずくと、善次郎が片手で算盤を最初の状態に戻し、反対方向から的確に打つ。

 よく見ると善次郎は、筆を持った手と逆の手を空で弾き、それ自体は松吉も見覚えのある仕草だったが――例えば左右逆の方向から別の数字を叫ばれたり、隣同士揉め事が起きている間に違う案件の計算に入っても、他の数字も忘れてはいないどころか、その上松吉の算盤の盤面の面倒まで見てるという具合なのである。

 あまりの早業に帳面には数字だけ記入されているのかと首を長くして見れば、店の名前と地域が克明に記されてはいるが、その他は手が追いつかず、そもそも善次郎は手元を見ていない事実に気づいた。

 相手の顔を確認しながら、へりくだって解決策を提示する。そこで大店の伝令が「間違うてる」とけちをつけだすと、人垣に緊張が走ったが、壁の脇で老人が「合うとる。宮司はんに命じられましてな。こっちでも記録はしてまんのやで」と数を並べた。

 松吉が詰めていた息を吐き出し、ほっとして善次郎を見ると、番頭も眼を細めて肩を撫で下ろしたのがわかった。

 その晴れやかな顔を眺めていると、松吉は同じ袢纏を着ていることが誇らしくなった。



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