一戦を交え、二戦目を足早に終え、三戦目になろうとするところで和助が「早よいったり。気になってしゃあないんやろ。あんさんが様子見んかったら、いつまでもやりおるで」と善次郎を追っ払った。
松吉は火を消して障子を明け、月明かりの下で算盤をまだ弾いていた。善次郎は溜め息を押し殺した。
「今日はこれ以上やったところで無駄や思いますけどな」
「どないしてもわかりまへんねん」松吉はそっと云った。「数が合わへんのです。仕入れの時も、数が大きなると――ぁ」
欠伸を噛み殺して赤面する横顔を捉え、善次郎は松吉の背中を見て胡座をかいた。
「そうや。わからんときはわからんとハッキリ云いなはれや」
「……へぇ」
「あんさん何もわかっとらんのに、口だけはわかりましたぁわかりましたぁ云うやろ。返事は一回でええねん。わても耳は遠ないんやから聞こえとる」
甘い顔はせぇへんで、と己に言い聞かせながら、善次郎は譲歩した。互いの間を走る緊張感の理由は理解しているのだ。
「せやけど」
「口答えしまんのか」
「――」
「梅吉はな。あんさんが入ってくるまでは、ほんまどうしょうもない奴やった。今はよかったな、あんさんが一等賞やで」
皮肉には慣れっこになってしまったのか、期待したほどの反応は返さない。嫌みと取られても云うべきことを云うのが勤めや――と善次郎は思った。
「なんやその眼は。云いたいことがあるんやったら、はっきりせぇ」
「なんで、そこまで云われなあかんのですか」
刺し違える覚悟がなければ、お侍の子供など誰も育てられない。見放すのはいつでも出来るが、父親がわりになってやれるのは自分と和助だけだった。
松吉は薄暗闇で、怒りから目の中を血走らせて善次郎を見返した。この根性が別の方向へ向くといいのだが、それをやれるのは周囲の役目ではない。物事には順序があり、下積みを得ずに得たことは手から零れやすいことを善次郎は知っていた。
「ええ度胸やな――もっぺん云うてみぃ」
「なんで……っ。なんでそこまで!」
算盤を取り上げ、反対の手でもって文机をぱしっと打つ。
「手が出とる。拳握って、アホちゃうか。商人はな。揉み手擦り手で、人に頭を下げながら近寄るんや。その程度のこともできひんで、此処には居れまへんで」
「……ッ」
脅しには限度というものがあった。兄弟多さに口減らしに出されたが、河内の出の善次郎には当たり前のことが、松吉には堪えがたい苦痛を与える可能性もある。
善次郎は声を落とした。
「うちでやっていく気があるんやったら、余計な自尊心は消しなはれ。どっしり覚悟つけて、歯ぁくいしばって腹丸めんのや。出来へんのやったらしゃあないわ。わても諦めて厠の蠅ぐらいにあんさんのことは目に入れへんし、鼻にもかけん。やらへんから出来ひんのやったら、噺は別や」
松吉の耳に入ってないことは承知の上で、善次郎は懇懇と説いた。
暫く説教は続いたが、下を向いて肩を震わせている姿を見ていると、この阿呆に付き合っている時間で眠るほうが賢いように算段をつけてしまう。善次郎は立ち上がった。
「今日はもうええ。お疲れさんでした」
「――寒天」
松吉がぽつりと云った。頑なな心が見せた唯一の隙が、商売に取り扱っている食べ物であることに善次郎は一瞬口の端を緩めた。
この子もわかるようになる日が来たのだ。
それは大海原を前にして、砂浜で砂金一つを見つけるに等しい喜びだった。善次郎自身気づいてはいないが、若い松吉にどこかで希望を託していたのだ。怒鳴りつけてきた甲斐があるというものだ――しかしその期待は直ぐに打ち砕かれた。
「朝から晩まで運んで、くたくたになるまで身を粉にしたところで、何がある云うんですか」
其れは本気で一つのものに取り組んだ人間の発する言葉ではなかった。善次郎は落胆から眼を背けた。やはり主人は選択を間違えたのだ。銀二貫の価値は、この小童にはない。
「前もそないなこと云うとったな。やれる仕事があるだけ有り難い思いまへんのか」
「番頭はん……!」
すがりつくように顔を寄せてきた松吉の目の前で、善次郎は襖を強く閉めた。そして一段と低い声を出すことで、喉を焼く感情を殺した。
「――明日。朝早いからな。覚悟しィや」