「また云いすぎた思とるんか」
「――そんな顔してまっか」
「口から先に出すぎやな」和助は軋む廊下をそろそろと歩いた。「ゆっくりでええんや。焦らんで。よう考えて。潰したら承知しまへんで」
「へぇ」
「ま。あの程度で潰れるような子やったら、何処に行ったかて使いモンにはなりまへんけどな」
「歯がゆうて歯がゆうて、って昔云いましたやろ」
「うん」
「今は腹立って腹立っての間違いやったな、思うんだすわ」
和助は苦笑した。火を持ったまま襖を二回に分けてス。スーッと開ける。
「手ぇ出そうになったら、わてン処に来んねんで」
「夢ん中やったらなんぼでも殴っとりますけど」
「ほんまはな」自室へ入れと促され、背中を丸めて和助の横を通った耳元に手を当てられる。「松吉やないで。待ってたのは、あんさん」
「……」善次郎は微かに頬もとを赤らめ、情けない顔で主人を横目にした。
「師弟揃って真面目やから、しんどいんやろうけど。たまには緩めたらな、あきまへんよ」
「――へぇ」
「中、入り」
善次郎は微動だにしなかったので、和助は溜め息を吐いて先に入った。
「あの――将棋のことだすけど」
「わかっとる。松吉が終わる頃には見に行ったらええ」
「今夜は誘われんと思とった」
「此処んところ充分休まれへんのやろ。毎晩は困るけどな。いつでも来たら?」
「お里はんの眼が痛うて無理だす」
座布団を敷いている善次郎の背中を見て、和助は火を灯しながら眉を潜めた。
つい先日のことだが、勘繰ることがあった。暫く善次郎もお里もよそよそしく眼も合わさずに、必要最小限で会話を終える日が続いたため、丁稚も和助も落ち着かない日々を過ごしていた。
「あの日何があったんや。あんま聞きたないけど」
「なんもありゃしまへん」
「隠さんでもええやろ」
善次郎は口を濁しつつ、膝を着いて云った。「起こしに来てくれはったお里はんに、旦さんと間違うて抱きついただけだす。名前は呼んどりまへん」
和助は眼を丸くした。これで両者の態度の合点はいったが、納得はできない。
「間違う要素なんぞあらへんのに」
「年々ちょっとずつ肥えてきはったさかい、朝ぼらけのショボ眼では――」
「そんなん云うたら、首絞められて大川へ沈められても文句つけられまへんで。黙っとくんや」
「すんまへん」
将棋板を置くのを忘れ腰を曲げようとすれば、善次郎が和助を制した。
「なんや」
「もう怒ってはりますんで、そっちはええんだす。ただ、旦さんのこと何や変な風に勘繰られへんかと心配で、夜も寝られへん」
「わても怒っとるで」
善次郎は息をつめて、焔に傾ぐ和助の目蓋の下を凝視した。乾いて皺を寄せた幾重もの皮膚が、身じろぎせずに時を止めてしまう。
「……代わり探しとけ云わはったやないですか」
「代わりやない。一生連れ添うような相手や。お里はあかん云うてんのにも、訳があるんや」
善次郎は将棋板を横にずらし、距離を詰めて下から睨み付けた。
「旦さん。勝手や」
「わてもそう思うわ」
袖に入れたままの手を取り上げ、いつになく真剣な顔を崩さない和助の躯に、善次郎は身を投げ出した。
「口吸うだけやで」
「厭や。丁稚共なんぞ放っといて好きにするんや。わてのほうが老い先短いんで」
こめかみを掬い上げながら顔を上向けられ、音を立てて強く吸われるに任せた。鼻の脇がぶつかり、さ迷った指で着物の衿を掴む。和助は顔を離した。
「息切らしたら後でばれるで」
「ええんだす。唇赤うしても虻に刺されたて嘘つきます」
「――好きか」
「あんま云うたら減るから堪忍しとくれやっしゃ」
「わてはな。好きやで」
滅多なことでは訊けない告白に、打ちあけようと思う間もなく、自然とまた唇を合わせた。いらち、と声もなく和助の唇が動いて、半ば上ずりながら顎の横を通り、首筋に顔を埋める。
途端にするりと身をかわし、和助は崩れた膝と衿を直した。
「だん、ッ」
「あきまへん。さ、将棋の相手して」
「――」
「そない恨みがましく睨むんやったら、せめてお里か松吉か松葉屋はんか、はっきりしとくんなはれ」
一途に想っとんのは旦さんだけや――と善次郎は畳に手をつき、肩を落とした。