【寒天問屋】


01



 井川屋の雑役の殆どがその日は外遣いに出る事態となり、一同皆が揃って出払っていた。

 度重なる大火事以降、天草の仕入れ先は門を閉ざすわ寒天自体も需要が落ちるわで家計は火の車。総出で細々とした内職をして食い繋いできたわけだが、或る晩方にこの世のものとも思えぬ呻き声が店中に轟き、その主が熱など出そうものなら一斉に誰が和助と共に籠城するかで揉めた。

 というのは井川屋主人の和助ときたら己は風邪には強いと信じて疑わず、還暦を越す歳になってもまだ軽装ひとつで丁稚の松吉と梅吉を連れ花火見物にこっそり出掛け、流行り病を貰ってきたのだ。

 同情できる点も如何ばかりか、よりによってこの人は自分は大して熱も出さぬが人には移すという迷惑な質で、付き合いの長い番頭の善次郎は当然そのことを理解していた。

 丁稚二人には山城屋の様子を見てくるついでに幾らか用立てた寒天を渡してこいと頻繁に言いつけ、お里には松葉屋で寝起きさせてもらうよう話をつけた。

 恐持ての松葉屋主人の唯一弱い部分がお咲であることは重々承知していたので、移ればおいそれと治らぬ病故と頭を下げたのだ。その際、何故か藤三郎は善次郎の体調を心配して「井川屋はんはもう歳や。揃ってうちに来なはったらええんですよ」と乾物屋の看板も降ろしかねない阿呆を抜かしてご寮さんにはたかれた。

 さ、いざ看病となれば自分は絶対風邪には掛からぬ、なんせ百姓育ちで口減らしに転々とやられても堪えた鋼の肉体。どこぞの坊々とは話が違うとつい気を抜いたが後の祭り。和助と入れ替わりに今度は善次郎に風邪が移った。

 これしめた、と手打ちして喜んだのが主人である。十五の時から奉公し続け三十年以上経つにも関わらず、和助の知る限り善次郎が風邪をひいて寝込んだことは数えるほどしかない。

 治ったら治ったで薬種問屋にまで頭を下げに行き、戻ったら戻ったで無駄金を遣わせてしまったと鴨居で首を吊ろうとするほど律儀な男なのだ。たまには甲斐甲斐しく世話などしてやろう。古女房も歳なのだからと。

 座敷で対座すると面喰らって起き上がろうとし、ええよ、と言い聞かせれば横になるのだが、生え際に汗の玉など浮かべて、拭っても拭ってもという具合だった。

 和助は悪戯心でその提案をした。当然、善次郎の気質では断固として反対するだろうと特別な反応は期待しないでいたのだが、意に反して彼は髷の際まで真っ赤に染まらせてがくがくと震えだした。

 寒いんやなと確認すると、振り絞るように返事が。熱を下げたほうがええな、と続ければ頷いて、薬師も医者も呼ばれたないやろと訊けば、旦さんの時に臍繰り使うてしもたとポツリと返す。

「せやったら、葱やで」
「旦さん……」
「葱はな、水に晒して芽が出たら、庭先にチョイチョイと植えるだけでまた生えてきます。手軽やし、安いし。文句ないわな?」
「旦さん……!」

 臀出すねんでと切り出した白い部分を見せると、善次郎は高熱に喘いだ。

「勘弁しとくんなさい」善次郎は布団を首まで被った。「余計熱出るわ。どないもこないもならんのやったら、お里はんに帰ってきてもらいますし」

「お里に挿れてもらったほうが、そりゃナンボかええわな」
「……っ」

「そやな。よし、わかった!」和助は手を叩くと、膝元を手で捌いて立ち上がった。「ほな松葉屋はんところにひとっ走り」

「旦さん、承知しました。葱ください。自分で挿れます」
「――自分で?」
「これも油断と不覚が総ての原因。蒔いた種くらい自分で刈りますよって」
「ええけど、座れてさえおらんのやで。わてに任せばええのに」

 口を餌を望む金魚の如くパクパクとさせ、荒い鼻息を何度も吐いて、善次郎は横を向いた。

「あかんのです。それだけは……」
「なんでや?」
「なんでもだす!」





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