宵越して明くる朝、腹立ち紛れに叩き起こした丁稚たちは、朝飯もそこそこに四方八方仕入れ先へと消えた。
人の出入りの多い昼どきまでは稼業に従事することとなり、目の回るような忙しさの中で主人の動向を捜す暇などないのだ。挨拶にでも行ったのかと長屋を彷徨いていると、ひょこっと炊事場の裏口から現れた。
「旦さん。橋向こうに新しゅう出来た菓子職人の方が来られてますんで」
「ん、わかっとる。わかっとる」
「何してはったんだすか」善次郎は訊いてはたとした。
お里の代わりに雇った女衆が原因に違いない。姿も見せなければろくな働きもせず、特に料理の手際がどうにも悪いらしく、三日三晩まともな食事が出ていないのだ。奉公人と同じものを一時に食べる和助の奇特な習慣が、ひもじい思いを分かち合う状況となっている。
「腹空いてはるんだすな。今日こそ云うたらな。芋やら粟やらやったら辛抱しますけど、寒天は三食も喰えんので」
「――寒天。嫌いか」
「好き嫌いの問題やあらへんのでっせ。毎日口にするんは無理やと云うだけのっこって」
「わての寒天を下の口で嵌めて心太できるやろ」
「そうだすな……って、天草溶かす作業も昨晩は惜しみはったやないだすか。どない償ってくれはるんでっか」
和助はそそくさと逃げおうせた。善次郎はその後ろ姿に溜め息を吐いた。人間餓えてくると使い物にならぬどころか、ヤル気も失せるのが現実である。お里が帰ってからではまた身悶えするような時間の連鎖だろう。
果たして事の真相も翌日にはわかり、つまるところ女衆を雇う代わりに和助が炊事をしていたということだったが、詫びのほうは皆で饂飩を食べに行く決断をしたところでお里が帰り、豪勢な食事と充実した寝床の夢は二重に消えた。
「――善次郎」
褌を外し寝間着に着替えて蒲団を被ったところで、和助が畳を滑るように入ってきた。善次郎は呆れた。
「旦さん、そんなん余計に目立ちまっせ」
「頬っ被り」
「完全にこそ泥やわ」
「夜這いで普通の格好しとったらいかんやろ」
善次郎は唸った。「雰囲気ぶち壊しでんな。わての部屋はお里はんに近うてあきまへん。やるんやったら旦さん処移りまひょ」
「あっちにお里が寝とるから、こっち来たんやで」
和助の思わぬ言葉に、善次郎は血の気が引くのを感じた。「旦さん。まさか」
「下種な勘繰りせんといてや」和助は善次郎の横に座り、蒲団を剥いだ。「お養父上のな。葬儀の席で、向こうさんになんや云われたみたいや。大仕事の後やさかい、疲れもあったんやろ」
「――泣いてはったんだすか」
お里が三下り半を突きつけられたのは、何年経っても子が為せなかったという事情があった。一度は婚姻関係を結んだ相手の父親ゆえ顔を出さぬわけにはいかぬが、内心は神経を張りつめていたのだろう。
「あんさんらには、此処が家みたいなもんやからな。井川屋の暖簾、全力で守りまっせ」
和助は火の揺れる油の皿を真っ直ぐに見つめて云った。
善次郎には、これが日暮れに割烹着をつけ下手な料理をこさえ、頭を低く下げて泣き伏し、信じてついてきとくれやすと口から絞り出した旦那の器の大きさや――と心から思った。
「旦さん」
「油も勿体無いし、今日は早よ寝よか」
火を吹き消した背中に、脇から腕を回され頬擦されると、頭の天ッ辺だけ軸にして和助は少し斜めに後ろを向いた。
「――好きにして」
善次郎の調子に、和助は是非とも顔が見たいと眼を凝らした。しかし視界は鼻の先さえ見えずに閉じられていた。
「案外甘え上手やな。あんさん」
「旦さんの前だけやったら、なんぼでも素直になりまっせ」
「ほんまかいな」
衣擦れの音だけを頼りに唇を合わせると、ほんまや、と返った。残りの言葉は切羽詰まったように途切れた。
「替わりが要らんくらい刻み付けたってぇや」