【寒天問屋】


03



 松葉屋を見送ると、善次郎はため息を吐いた。

「旦さん、訊いてはったんだすな」

「高利貸しの門でも叩きかねん勢いやったな」和助は温厚な性格の仮面を一寸脱ぎ捨て、松葉屋の帰った後をにらみつけた。「善次郎。江戸の吉原かなんかで下働きでもしてたんか。陰間の職にありついたとか」

「そないなわけないことは、ようご存知でっしゃろ」
「掛詞がまるで口説き文句のようやと思てな」
「何だすか。怖い顔して、どないしはりましたん……」
「喩えの使い道が微妙に違うてたのが気になるわ」

「ああ、あれはええんだす」善次郎はいった。「松葉屋はんは赤子の拾った貝。大海の旦さんの前では器が全然足らへんと皮肉りたかっただけなんやさかい」

 和助は善次郎をちらりと見ながら、頬骨の辺りを血色よく色づかせた。

「油売ってんのは松葉屋はんだけとちゃいまっせ。仕事仕事。ああ、忙し忙し」
「――暇してますで」
「わてはな。息しとるだけで大役こなしとるんや」
「普通の旦さんはそうやろけど、うちの旦さんはちゃいますわ。ほんなら店番に戻ります」

 和助は善次郎の羽織の袖を引っ張った。

「――今夜、わての部屋で」

 子供のような誘い方と対称的に、和助の誘惑は善次郎の体に直接響いた。今度は善次郎が顔を赤らめ、一瞬の優位は崩れ去った。

「あきまへん。そんなん」善次郎は袖の皺を伸ばした。「皆おるのに」

「離れで乳繰りおうてたら、お里に見つかりかけたやろ」
「お里はんはええんだす。わてが旦さん一筋で、手代から番頭になったときも諸手をあげて喜んでくれはった」

 これについての和助の反応は顕著だった。

「なんや。普段は喧嘩ばっかやと思とったら、お里にまで手ぇ出しとったんかいな!」
「旦さん。今のわての噺、訊ぃてくれはったんだすか」
「一筋やったんは善次郎の心の想い人、とうはんやろ。操をたてはったくらいや」
「操も何も、こんな恐持ての鬼瓦、誰も好いてくれるおなごがおらんかっただけでっせ」

 和助は善次郎の様子に溜め息を吐いた。

「善次郎――あんさん、究極の阿呆やな」

「旦さんに言われたら終わりやで……」善次郎は只今戻りましたぁと入ってきたお里を見て、あわてて和助に耳打ちした。「床下に酒を隠しとるんで、亥の刻になったら」

「やりたないんやろ」和助もぼそぼそと呟いた。「大体そない用心せんでも、もう少し早う」

 善次郎は頭を激しく横に振った。

「あきまへん。松吉と梅吉が瓦屋根の上で月明かりを頼りに算盤打ってますんや」
「――勉強熱心やけどな。年寄りの愉しみが長引いてまうから、早よ寝てくれたら助かるわ」
「色事に興味がある時期に熊の喘ぎ声なんぞ訊いたら、わてやったら立ち直れまへん」

 何こそこそしてはりまんの? と炊事に戻ったお里の後ろ姿に愛想笑いを返すと、和助がさらに近づいて、善次郎の耳に囁いた。

「熊やないで。発情期の猫そっくりや、善次郎のあんときの声は」和助の言葉には熱が籠っていた。「酒は置いてきたほうがええと思いますけどな。なんせあんさん、滅法弱いねんから」



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